第8話

 子供が生まれて、最初に四つ葉が泣いたとき、私は初めて見るような彼女の顔に見惚れていた。

 こんなに嬉しそうな顔をするのかと、胸が締めつけられるほどだった。


「茉さま、見て……見て、この子……私たちの子、なの……」


 ぐしゃぐしゃに泣きながら笑う四つ葉の頬に触れ、私は微笑んでいた。

 嬉しかった。心から。


 だがそれも、いつまでも続く感情ではなかった。


 子供はすくすくと育ち、四つ葉はその小さな命にすべてを注ぐようになった。

 寝返りを打った、言葉を発した、歩いた、笑った……そのたびに、四つ葉は誰よりも嬉しそうに笑った。

 それを見るたび、私は“良い父親”としての顔を忘れなかった。四つ葉と同じように笑い、子供を抱き上げ、頭を撫で、祝福の言葉をかけた。


 けれど。


 胸の奥で、何かが静かに軋んでいた。


 四つ葉が私を見なくなったわけではない。

 愛を失ったわけでもない。


 ただ、彼女の瞳の光が、私ではなく導に向けられている時間が、以前よりずっと増えてしまっただけ。

 ほんの、少し。それだけのこと。



 ……それだけのことだ……



 けれど、夜更けに四つ葉が子供を抱いて眠っている姿を見るたび、私は心の奥底に沈殿していく濁った感情に気づいてしまう。

 独占欲でもない、嫉妬でもない――名のつけられない、もっと冷たい、もっと黒い、何か。


 四つ葉を守る。

 そのためには、私がすべてを掌握しなければならない。

 この世界のすべてが、私の言葉で動くようになれば、何ひとつ奪われることはない。


 ……それで良い。そうでなければ四つ葉を守れない。


 町は、ゆるやかに発展していた。

 新たな道が整備され、子どもたちが遊ぶ広場ができ、商店が軒を連ね、神社へ参る人の列も増えた。

 そのすべてを私は静かに見守り、時には助言をし、時には裏から手をまわし、町は“四つ葉が過ごしやすい町”として姿を変えつつあった。


「茉様……近頃、導(しるべ)様が――」


 蓮観が報告に来たのは、秋の風が吹き始めた午後だった。

 導とは私と四つ葉の子だ。四つ葉が名付けた。


「導が、何ですか?」

「……最近、ひとり遊びをしているところを頻繁に見るのです」

「……子供にはよくあることでしょう」

「えぇ、ただ……彼、見えているようなのです。付喪神様が…」


 私は言葉を失った。


 私は小さく息を吸った。


 導が特別であることに、喜びとともに、言いようのない不安が胸を満たしていった。

 このまま、導が自我を持ち、やがて――私から、四つ葉を奪う存在になったら?


 四つ葉の笑顔を、これ以上、他の誰かに向けさせるわけにはいかない。


「……蓮観。導の周囲に、不審な付喪神が近づくようであれば、すぐに報告してください。構いませんね?」

「はっ、畏まりました」


 蓮観は頭を垂れ、私に頼られたということに喜び、恍惚の表情を浮かべている。

 だがその恍惚の奥に潜む、嫉妬と憎悪の影が日に日に濃くなっているのを、私は見逃してはいなかった。


 私が何度、牽制しても変わらない。

 心の奥底で彼女の存在を、蓮観は許していない。

 先日も「……どうして、あの方ばかりが……」と呟いていたが、私はそれを見なかったことにした。



 導が眠った夜、四つ葉がそっと私の隣に腰掛けた。

 風に揺れる髪から、柑橘の香りがした。


「……茉さま、最近、何を考えてるの?」

「……町の未来ですよ。いつまでも平和が続くように。君が、安心して笑っていられるように」

「そっか……」


 彼女は少しだけ、私に身体を寄せた。


「……いつも、ありがとう」


 私はたまらず四つ葉の温もりを確かめるように唇を重ね、その存在を抱きしめた。


 ――その言葉が、嬉しかった。


 四つ葉が私に感謝してくれた。

 やはり私のやっていることは間違っていないのだ。


 私がどれほどのものを犠牲にして、どれほどの“力”を隠して、あなたのそばにいると思っているのか。

 あなたは知らない。知るべきではない。

 知らぬまま、私だけを見ていればそれでいい。


 私はその夜、導の寝顔をしばらく見つめたあと、小さく呟いた。


「……君も、私が導いてあげますね……」


 そうだ。何を心配することがあるのか。

 町の人たちと同様、導も私が”正しい方向へ”歩いてもらうだけだ。


 笑顔を崩さぬまま、私は目を細めた。

 それが、愛という名の正義だと信じるために。

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