嫌われ者と好かれ者の怪異事件簿

蝋燭澤

第1話 夢に沈む街

第1節 冷たい子守歌



 夜更けの住宅街は、水を張った器のように静かだった。

 ベランダに吊るされた風鈴は動かず、遠い環状道路の音だけが薄い膜を震わせている。寝室の窓は半分だけ開いていて、カーテンの縁が呼吸みたいに揺れた。


 小学生の男の子は、あお向けに眠っていた。額には少し汗。夢見の浅さを示す、規則正しい寝息。

 その隣で、母親は布団の端をつまんで固まっている。自分の耳が勝手に何かを作り出したのだと、最初は思った。けれど、空気に混ざるかすかな旋律は、窓の外から入ってくる冷気と同じくらい確かだった。


 それは古い子守歌の断片だった。言葉はない。鼻歌だけが夜の継ぎ目をたどるように、薄く、薄く。


 母親はスマホを取り、録音アプリを開いた。

 暗闇の中央に浮かぶ波形が、呼吸と同じテンポで上下した。数秒、何も起きない。次の瞬間、ふっと薄墨で触れたみたいに、波形の頂点に柔らかい棘が立った。

 鼻歌はすぐに消えた。まるで自分が録音を始めたことを誰かに悟られたみたいに。


 息を止めて画面を見つめる。

 録音を止めて再生する。スピーカーからは寝息と、遠い車の音と、衣擦れ。音の底のさらに底で、微かに――本当に微かに、呼び戻されるみたいな一音が震えた。


 母親はスマホを握りしめ、もう片方の手で子の頬をあおいだ。

 返ってくるのは温もりと、眠りの深さを示す反応だけ。安心と不安が同時に胸の奥でぶつかる。さっきの旋律は、たぶん気のせい。そう思い込もうとしたところで、ベランダの向こう側から別の家の窓が開く音がして、夜の気配が一段深くなった。


 翌朝、その町で十数人が一斉に目を覚まさなくなった。

 ニュースは早口に「集団過労」「感染症の疑い」を並べて、不安を薄く伸ばした。画面の隅では、まだ開店前の商店街が映っている。シャッターの継ぎ目、電柱、横断歩道。そこにどんな旋律も見えない。


 市立病院の救急外来には、同じ種類の沈黙が集まっていた。

 ストレッチャーで運ばれてきた人々は、呼びかけに反応しない。体温は正常、血圧も安定。深い眠りの谷底で、同じテンポの脈を刻んでいる。家族の声は小さく、白色灯の下でどれも同じ色になった。


 廊下の曲がり角で、救急担当の医師がため息をつく。カルテの束を小脇に抱え、早足で別の病室に向かう。その背中が過ぎたあと、空調の吹き出し口が低く唸り、紙コップの水面に小さな輪が広がった。


 ――黒い画面に、音だけが戻ってくる。

 さっき録音された、鼻歌の断片。母親はアプリの時間軸を指で拡大して、願いを込めるように再生ボタンを押す。

 それは一音の余韻だった。単独では意味を持たない、鍵穴の縁だけのような音。


 窓の外、首都高のランプが順に点る。

 黒いセダンが合流へ滑り込み、ヘッドライトの筋がガードレールを流れていく。後部座席で、ネクタイを緩めた女が窓に額を預けていた。短く切った髪が額に落ち、横顔は刃物の断面みたいに冷たい。左眼の上にかけた片眼鏡が、街灯を拾って小さく光る。


 神崎燈子。霊災対策局の怪異調査官。

 運転席の女はハンドルを握り、合流のタイミングにだけ視線を強くする。肩までの髪がカーテンのように揺れ、頬の表情は穏やかなままだ。みえているものを、みえているままに受け止める人の顔。

 小野寺真理。同じく対策局所属。肩書きは心理分析官で、現場に行けば医務官の役も務める。


 セダンの車内は静かだった。ウインカーの音、タイヤが橋桁を踏むリズム、ブレーキの軽い踏みしろ。そういうものが耳の奥で繋がって、ひとつの拍子になる。


「あたしを起こすほどの案件ってやつ?」


 燈子が窓から額を離し、片眼鏡の位置を人差し指で押し直した。


「十数人が同時に昏睡。起こす理由としては十分だ」


 真理の声は落ち着いている。事実だけを置く調子だ。


「だったら救急の守備範囲だろ」


「救急でも詰まってる。だから私たちに回ってきた」


「今日も残飯処理。いい趣味だ」


 真理は笑わない。けれど、目元にわずかな皺が寄る。苦笑に近い、納得の合図。

 料金所を抜け、セダンは分岐を選ぶ。ナビの女声が機械的に交差点の名前を読み上げ、フロントガラスに映る街の明かりが、一定の周期で二人の顔を交互に照らした。


 対策局の車両は特別ではない。黒いセダンは、どこにでもある社用車に見えた。ナンバーも普通。パトライトもない。権限を表示するものは、二人の胸ポケットにある身分証だけだ。


「発生は昨夜から今朝。年齢は散ってるが、同じ学区が目立つ」


 真理が短く整理する。


「共通項は?」


「家族の証言では“同じ夢を見た”」


「はい、嘘確定」


「言い方」


「詳細を語り合えば記憶は均質化する。“同じ夢”は後付けの作り物だ」


「それでも入口にはなる」


「入口としては薄い」


 赤信号で止まる。フロントガラスに街灯が整列し、片眼鏡のガラス面に丸い光が連続して落ちた。

 その縁が、ふっと曇った。

 室内の温度は変わっていない。結露するほどの湿度もない。ただ、燈子の左眼に触れている金属とガラスだけが、微熱を帯びたように白く曇り、すぐに澄んだ。


 真理は視線だけを動かす。


「反応か?」


「微熱。気のせいって言えるなら楽だな」


「気のせいなら放っておけ」


「気のせいじゃなかったら?」


「病院で考える」


 青に変わる。踏み込みは滑らか。セダンは住宅街へ降り、夜明け前の空の色を切り取りながら、連続した信号を渡っていく。

 この町の形は、どこにでもある衛星写真の模様と同じだ。四角い区画、等間隔の街路樹、同じ型の郵便受け。

 車内の静けさは、沈黙ではない。二人のあいだに、言葉を節約しても意思が届く距離があるだけだった。


 病院の駐車場は、夜の終わりと朝の始まりが重なって忙しい。看護師の出入り、納品の台車、新聞配達のバイク。消毒の匂いが、ドアを開ける前から嗅覚にまとわりついてくる。

 二人は同時に降り、扉を閉める音を互いの合図みたいに受け取った。


 スリーピースのジャケットが、燈子の腕の上で雑に折れる。

 真理はネクタイの結び目を指で確かめ、胸ポケットから身分証を出した。

 正面玄関で、救急担当の医師と合流する。目の下にクマ。カルテの角が微妙に曲がっている。夜勤の長さと焦りが、紙の隅から伝わってくる。


「霊災対策局?」


 医師は半歩だけ後ろに体重を移し、目だけで二人の全身を素早く測った。


「ええ。小野寺です。こちらは神崎」


 真理はさらりと名乗り、身分証を掲げた。

 燈子は名乗らない。その代わり、廊下の光と患者の位置、壁の掲示物、ナースステーションの書類の減り、そういう周辺の情報を目で拾い続ける。拾いながら、何も言わない顔のまま、微妙な異物感だけを記憶の箱に入れていく。


「原因は?」


 医師が聞く。短い、飾りのない語。


「知らない。だから来た」


 燈子は視線を医師に戻した。


「失礼。状況の確認から入らせてください」


 真理が会話を受け、歩き出す。

 廊下の突き当たり。ガラス越しの集中治療室に、同じ静けさが並んでいた。寝息はみえない。モニターの緑の線は、患者ごとに違う山を描いているのに、等間隔の鼓動だけが同じように感じられた。


 ガラスに、誰かの顔が映る。

 母親だ。昨夜、録音を残した女性。目の下に薄い陰、手にはスマホ。画面の真ん中を親指で触れて、また離す。何度も同じ場所に戻ってしまう指の癖。


 真理はドアの前で立ち止まり、軽く会釈をした。

 母親は驚いたように首を上げ、深く頭を下げる。言葉が出ない。喉に硬いものが詰まったみたいに。


「昨夜、何か“音”は聞こえましたか?」


 真理の問いは優しかった。圧をかけない。その代わりに、言葉の置き方を丁寧にする。

 母親はスマホを差し出し、アプリを開く。

 波形は細く、ひとつひとつの山が浅い。再生ボタンを押すと、白色灯の下で記録された寝息と衣擦れが流れ、底のさらに底で――ほんの一瞬、鍵穴の縁みたいな一音が震えた。


 燈子は目を細める。

 片眼鏡のガラスが、また微かに白く曇って、すぐに澄んだ。


「“同じ夢を見た”とおっしゃる方が多いんですが」


 真理は問いを重ねる。


「……うちも、そう言ってます。黒い、獣みたいなのが」


 母親の声は乾いている。


「獣の形、何か残ってますか?」


「……目だけ。真っ暗で。あの子が、泣いていて」


 燈子はガラス越しにベッドの少年を見た。

 瞼はゆっくり動く。夢を見ているときの目の動き。唇は乾いていない。喉は詰まっていない。体温は正常。

 観察は、診断ではない。けれど、観察を重ねるうちに、不要な仮説から先に崩れていく。


「“同じ夢”は、説明にならない」


 燈子は小さく言った。


「言い方」


 真理が横目で制する。


「便利すぎる言葉だ。輪郭が揃う。現象は、そこを食い破る」


 医師が咳払いをした。

 廊下の奥で、台車が車輪の跡を残して曲がる。誰かが紙コップを落として、少しだけ水が床にこぼれた。

 人が多いのに、この場の沈黙は壊れない。壊れないからこそ、別の種類の音が入り込む余地がある。


 真理はメモに、いくつかの単語だけを抜き出して書いた。

 歌。夢。獣。

 隣で燈子は、母親が握るスマホのカバーの角が擦り切れていること、ガラスフィルムの右下に小さなヒビがあること、画面の明るさが自動調整で少し低くなっていること、そういうどうでもいい情報を拾い続ける。どうでもいい情報の中に、たまに鍵が落ちている。


 医師がカルテの束を胸に当て、短く息をついた。


「オカルト課、か」


 ぼそりと漏らす。


「正式名称はもっと長いんです」


 真理が淡々と受ける。

 燈子は医師を見なかった。必要な矢印だけを追う。人間の顔は、いちど輪郭だけ覚えておけば十分だ。


「血液と画像、必要データは共有願います。確認でき次第、町で聞き込みに移ります」


 真理の言葉に、医師は短く頷いた。

 事務的な手順の確認が続く間、燈子はガラスに額を近づける。片眼鏡の周縁に、薄い曇り。

 今度は澄むまで少しだけ時間がかかった。


 ――歌は、どこから来るのか。

 彼女は目を閉じ、耳を澄ませた。機械の音、人の咳、靴底、紙、空調。

 病院の音は人間の音だ。音は人間を裏切らない。人間が嘘をつく分、音は正直でいる。


 燈子は顔を離し、片眼鏡を指で押し上げた。


「行くぞ」


 短い一言に、真理は「はい」とだけ返した。返事の声は小さいが、ためらいはない。

 二人は廊下を抜け、スライドドアが開く音を背中に受け、朝の光のほうへ歩き出した。


 外の空気は冷たい。東の空が薄く明るみ、街路樹の影が長く伸びる。

駐車場のアスファルトに、セダンの影がくっきりと落ちた。

その影の縁で、片眼鏡のガラスがもう一度だけ、わずかに曇って、また何事もなかったように透明へ戻った。


 市立病院を出ると、東の空はすでに白みはじめていた。

 夜勤明けの看護師がタクシーに乗り込むのを横目に、燈子と真理はセダンへ戻る。街路樹の影はまだ長いが、光は着実に街を押し広げていた。


「次は?」


 燈子がジャケットを肩に引っかけたまま言う。


「学区内で聞き込み。共通項を確かめる」


 真理はハンドルに手を置き、ナビの地図を開いた。


「非効率。証言を積めば積むほど、語彙は同じ顔になる」


「それでも“最初の言葉”には価値がある。揃う前の欠片は残る」


 燈子は鼻で笑い、後部座席に体を預けた。片眼鏡の縁が光を受けて一瞬だけ曇る。ほんのわずかに、熱を持ったような感触。


 セダンは住宅街へ滑り込む。アスファルトはまだ朝露で湿っていて、タイヤがわずかに音を立てる。道沿いの掲示板に古びた自治会の広報が貼られていた。紙は色褪せ、端がめくれている。


「……“眠り鬼の伝説”?」


 真理が目をとめた。掲示板の隅、小さなコラム欄にそう書かれていた。


 燈子は後部座席から身を乗り出し、ちらりと掲示板を見た。

 挿絵の獣は黒く塗られ、目だけが白抜きされている。簡素な線だが、病室で母親が口にした「目だけの獣」と一致していた。


「伝説は感染する。語彙を揃える装置だ」


 燈子は吐き捨てるように言った。


「でも、手掛かりは手掛かり」


 真理は車を止め、掲示板の紙を一枚スマホで撮影した。


 そこへ、登校途中の小学生数人が通りかかった。ランドセルを背負い、眠そうな顔。歩きながら鼻歌を歌っている子もいる。旋律は断片的で、昨夜の録音と似ていた。

 燈子は目を細め、片眼鏡の曇りに再び気づく。


「聞こえるか」


 低い声で真理に問う。


「何を?」


「鼻歌。昨夜のやつと同じライン」


 真理は耳を澄ませた。確かに、旋律の断片が子どもたちの口から自然に漏れていた。

 それは遊びの一部のように軽く、危うさを意識していない。


「歌が……町に広がってる」


 真理の声は抑えられていた。


「感染症よりタチが悪い」


 燈子は皮肉を口にし、片眼鏡を押し上げた。


 その瞬間、レンズに再び曇りが走る。今度ははっきりと、冷気が混じるような白さ。

 燈子は唇を歪め、笑いとも吐息ともつかぬ音を漏らした。


「夢はベッドの上だけじゃない。街ごと沈んでる」


 真理は返す言葉を探さず、ただハンドルを握り直した。

 窓の外で、子どもたちの鼻歌が重なり、朝の光に紛れて薄く消えていく。


 それは偶然の合唱か、それとも町そのものの声か。

 二人はまだ答えを持たないまま、車を発進させた。


 向かう先は学区の中心にある小学校。

 そこで待つのは、さらに均質化された言葉と、同じ旋律を抱えた子どもたちだった。

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