手塚治虫と宮沢賢治

夢美瑠瑠

第1話


   日本の、数多い作家やら漫画家のうちで、非常にモラルや見識が高くて、才能の卓抜さは固より、「非常に善良で信頼のおける人物」という点では、標記の二人が双璧では? と、思う。


 文豪は多いし、売れる本を書ける人は多い。


 が、たとえばマザーテレサやらキング牧師とか?そういう一種の聖性を帯びているようなイメージの人物。 ピューリタンやら? 求道者とか、世俗の垢というものからどこか超脱している、そういう人物であり、もっとも尊いような独特の敬われ方をしている人物。


 釈迦やキリストみたいな存在に、条件がそろえばなっていておかしくない、そういうタイプの人が、この二人の巨匠では? とか思います。


 オレも餓鬼の頃にはものごとをそういう風には到底考えられず、成長はしたんかとも思う。

 が、手塚漫画には連綿と触れてこれて、「ブッダ」も読んだ。「火の鳥」は未読。 「やけっぱちのマリア」やら「リボンの騎士」は知ってるし、「ザ・クレーター」や「ブラックジャック」も繰り返し愛読しました。


 「三つ目が通る」も面白かった。 「ジャングル大帝」も、忘れられない名作。

 「鉄腕アトム」やら「どろろ」も、独特の世界観とキャラで、…才能の広さや深さは、他の追随を許さない、勿論そういう風には理解していた手塚治虫さんを、昔はだが、人物的に尊いとか善良で徳が高い? そういう発想ができるようになったのは最近です。


 宮沢賢治についても、面白い、独特の作風の童話作家…そう捉えてはいて、が、それはなんだかとぼけたような東北のオッサン?ゆえの剽軽さ、みたいにしか思えなかった。


 まあ今でも、善良さと滑稽さは紙一重…そう醒めた見方は可能で、現実にそうでもあろうか。


 ドストエフスキーの「白痴」のムイシュキン公爵や「カラマーゾフの兄弟」のアリョーシャは、純真無垢さゆえにサクリファイスにされがちな、そういう人物類型についての考察として、永遠不変の、ひとつの不朽不易の根源的な命題を表現しているのだと思う…


 大江健三郎氏の「人間の羊」も、そういうテーマの別ヴァージョン…そういうことを巡る一つの結論が、イエス・キリスト。

 かなり浅薄にオレはそう短絡して、そのまま思考停止していたのだが?

 まだまだ実人生でも、読書やらについても、

 やはり未熟で経験不足なのかなあ、と嘆息するというか、驚くほどにあいまいにしか理解しえないままで、残り時間が count down してしまっていて…なんだか時間が惜しい。


 手塚治虫や宮沢賢治を特別な存在として語る場合には、やはりパーソナリティーの高潔さやら、生き方の真実一路な清純さをフォーカスすべきなのだ…端的に言うと、宮沢賢治さんは、ゴーゴリとかと同じく生涯DTだったらしい。

 

 ぜんぜん思い付きで書いてますが? この稿は<続く>予定です。








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