第32話 裂帛

允吾いんごの城門が視界に現れたとき、韓遂かんすいは馬上で荒い息を吐いた。

背後には敗残兵の列が長々と続いている。

出陣した際は万を超える数を誇った軍は、今や五分の一も残っていない。

疲弊し、傷つき、統制を失った群れは、もはや軍と呼べるものではなかった。


城門の上では守兵が狼狽うろたえた顔で敗残を見下ろしている。

門は開け放たれ、韓遂は馬の腹を蹴って真っ先に駆け込んだ。

砂塵を巻き上げながら兵が次々と流れ込み、允吾の城内は瞬く間に敗戦の影で覆われた。


韓遂は馬を降り、泥と血に塗れた甲冑を脱ぎ捨てると、重い足取りで府庁へ向かった。

幕僚や将校が後に続き、誰もが顔色を失っていた。



広間に入った韓遂は、肩の治療を終えた閻行えんこうを呼び立てた。


彦明閻行、貴様……!」


その声は怒りに震え、広間に響き渡った。

敗戦の責を問う先を、韓遂はすでに決めていた。


「先鋒を任せたにもかかわらず再び敗れ、我が軍を混乱に陥れた。敗北の元凶は貴様だ!」


閻行は負傷した肩を抑えながら泥に塗れたまま立ち尽くし、唇を噛んだ。

だが言葉を返す前に韓遂の声が続く。


「捕らえよ!即刻処刑だ!」


配下が動こうとしたその時、一人の幕僚が進み出た。

青年の書佐しょさ、名を蒋石しょうせきと言う。


「お待ちください!彦明げんめい殿は出陣の前から罠を疑っておりました。それを押し切って強行を命じられたのは――」

「黙れ!」


韓遂はつくえを叩き、目を剥いた。


「貴様、誰に向かって口を利いている!儂に責を押し付ける気か!」


広間は緊張に凍り付いた。

敗戦で心を乱した主君は、諫言すら反抗としか受け取れなかった。

韓遂は蒋石に指を突きつけた。


「この者も捕らえよ!閻行と並べて首を刎ねろ!」


その命令で韓遂の左右を固めていた衛兵が動いた。

だがその刹那、閻行の眼に決意の光が走った。


「その暴虐、もはやまかりならん!」


閻行は咆哮とともに腰の刀を抜いた。

鋭い金属音が広間に響き、衛兵が慌てて構える。

だが閻行は躊躇わず前へと飛び出した。


韓文約韓遂、もはや忠節を向けるに値せず!貴様にこれ以上従う道理はない!」

「な、なんだとっ!?」


韓遂は驚愕の声を上げ、後ずさる。

衛兵が立ちはだかるが、閻行の一閃は二人をなぎ倒した。


「ぎゃっ!」

「ぐあぁっ!」


血飛沫が灯火に散り、広間に悲鳴が上がる。


「やめよ!」


成公英せいこうえいが叫び、割って入った。

忠義を貫こうとするその姿は必死であったが、他の配下たちは閻行に同調していた。

敗戦の怒りと恐怖、そして韓遂への不信が、彼らを一つにしていたのだ。


「よせ、仲俊成公英!」

「ここで討たねば、次は我らぞ!」


複数の手が成公英の腕を掴み、背に押し付け、彼を地に倒した。

その間にも閻行は進み、韓遂に迫った。


「やめろ…!彦明、今までの恩義を忘れたか!誰か!こやつを止めろっ!」


韓遂は声を張り上げたが、もはや誰も動かない。

残った衛兵は恐怖に凍り、配下たちは顔を伏せた。


「どの口が!覚悟!」


閻行の刃が閃き、韓遂の胸を貫いた。


「ぐ……あっ!」


鮮血が飛び散り、韓遂は呻き声を上げて膝を折った。

顔は蒼白に歪み、やがて前に倒れ込む。

広間に重い音が響き、韓遂は動かなくなった。


沈黙が訪れた。

誰もが呼吸を忘れたかのように立ち尽くした。

やがて閻行は深く息を吐き、刀を拭った。


「同郷の誼で従っていたが、器に非ず」


配下の一人が声を上げた。


「これからどうすれば…」


閻行は刀を鞘に収め、答えた。


「このまま允吾に籠っても勝利に勢いを得た安狄将軍馬騰に攻め滅ぼされる。金城の諸豪しょごう韓文約かんぶんやくの名に従っていた者も多かろう。奴らが我らに味方するとは限るまい」


広間にざわめきが広がる。

閻行は周囲を見渡し、力強く言い放った。


「故に明日、使者を立てる。馬孟起馬超殿を通じ、安狄将軍に韓文約の首を献じて降るのだ!」


誰もが不安と安堵が入り混じった表情を見せていた。

戦で敗れ主を失った今、残された道は降伏しかない。

だが果たして今まで敵対していた馬騰に赦されるのか。

成公英は縛られたまま呻いた。


「貴様ら……本当にそれでよいのか……!」


だが答える者はいなかった。

ただ閻行だけが口を開く。


仲俊ちゅうしゅん、恨むなら俺だけを恨め」

「くっ…この不忠者が…」


もはや誰も降伏に反対しなかった。

敗北と韓遂の死が、彼らを従わせた。

こうして金城の夜は、韓遂の終焉と新たな決断を以って更けていった。



春の夕風が冷たく吹き抜け、勇士ゆうしの城門に白い旗が翻っていた。

馬超ばちょうは馬上でその光景を見渡し、深く息を吐いた。

ここ数日、彼は騎兵を率い漢陽かんよう郡北部を転戦してきた。

韓遂軍の残党を追い散らし、指示により降っていた各県を次々と解放してきたのだ。


勇士県は漢陽郡北端に位置し、山と川に囲まれた要害の地であった。

だが城兵は馬超の軍の到来に抗うことなく、すでに城門を開いていた。

韓遂の敗報は伝わっており、当然のように抵抗を受けることは無かった。


軍司馬馬超、韓遂の残党は既に吏民りみんに捕らえられ縛り上げられているようです」


斥候の伍長から報告を受けた馬超は頷き、馬を進めた。


「よし、城に入るぞ。敗残の兵も無闇に殺すな」


兵たちは歓声を上げた。

戦い続きで疲労は濃かったが、勝利が続くことで士気は高まっていた。



勇士に入ってしばらくすると、北門の方から十騎ほどの兵が近づき、白布を掲げていた。

槍に結ばれた布は風にはためき、誰の目にも「降伏」の意を示していた。


「金城の閻行より、降伏の使者との由!」


応対から戻った兵卒が声を上げ、他の兵たちがざわめく。

馬岱が即座に眉をひそめ、馬を寄せてきた。


従兄あに上、これは怪しい。韓遂かんすいの奸計やもしれません。油断は禁物です」


だが馬超は目を細め、前に進んだ。


「会ってみなければ分からぬ。とりあえず入れよ」


城内に引き入れられた使者は二人。

前に立ったのは痩せた若い男で、背には大きな木箱を背負わせた従者が続いていた。

男は泥に膝をついて声を張り上げた。


「金城の書佐の蒋石と申します。閻彦明殿より言伝を預かってまいりました!逆臣の韓遂はすでに誅されました!我ら一同、安狄将軍に降ることを願い、その証をここに持参いたしました!」


そう言って従者が木箱を開けた。

中から現れたのは、血の乾いた生首であった。

白布に包まれていたが、その顔は明らかに韓遂のものであった。

瞼は閉じられ、口は半ば開き、表情には最期の驚愕が張り付いていた。

兵たちは息を呑んだ。場がざわめき、誰もがその首を見つめる。


「むう……本物か」


龐徳が低く唸った。

馬超も顔を寄せ、じっと首を見た。

幼い頃から付き合いのある韓遂、その姿形はよく知っている。


「……うむ。これを偽れるものではない。韓遂は討たれた」


馬岱はなお渋い顔で首を振ったが、やがて沈黙した。

蒋石が額を地に擦り付けて告げた。


「彦明殿は、馬孟起殿を通じて安狄将軍に降伏を申し出たいと申しております。どうかお取り計らいを!」


場に重い空気が落ちた。

韓遂を討った閻行が降る――その報せは勝利を決定づけるものであった。

だがそれは同時に、慎重な判断を要する問題でもあった。


馬超はしばし沈黙し、やがて龐徳を振り返った。


令明龐徳。お前はこの首を持ち、に戻って父…将軍に報告せよ」


龐徳は槍を突き立て、深く頷いた。


「承知しました」


馬超は続けて馬岱に視線を移した。


「我らはこれより金城に入る。閻彦明と会い、降伏を受け入れる。蒋石とか言ったな、允吾近くの亭にて会談すると彦明殿に伝えよ」


こうして馬超は決断した。

龐徳は韓遂の首を携えて冀の馬騰のもとへ戻り、馬超と馬岱は兵を率いて金城郡に入る。

允吾近くの亭で、閻行との会談が待っていた。


夜風は冷たく、篝火に映る韓遂の首が揺れた。

涼州大人韓遂の終焉が、次なる時代の扉を開けようとしていた。

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