第32話 裂帛
背後には敗残兵の列が長々と続いている。
出陣した際は万を超える数を誇った軍は、今や五分の一も残っていない。
疲弊し、傷つき、統制を失った群れは、もはや軍と呼べるものではなかった。
城門の上では守兵が
門は開け放たれ、韓遂は馬の腹を蹴って真っ先に駆け込んだ。
砂塵を巻き上げながら兵が次々と流れ込み、允吾の城内は瞬く間に敗戦の影で覆われた。
韓遂は馬を降り、泥と血に塗れた甲冑を脱ぎ捨てると、重い足取りで府庁へ向かった。
幕僚や将校が後に続き、誰もが顔色を失っていた。
◇
広間に入った韓遂は、肩の治療を終えた
「
その声は怒りに震え、広間に響き渡った。
敗戦の責を問う先を、韓遂はすでに決めていた。
「先鋒を任せたにもかかわらず再び敗れ、我が軍を混乱に陥れた。敗北の元凶は貴様だ!」
閻行は負傷した肩を抑えながら泥に塗れたまま立ち尽くし、唇を噛んだ。
だが言葉を返す前に韓遂の声が続く。
「捕らえよ!即刻処刑だ!」
配下が動こうとしたその時、一人の幕僚が進み出た。
青年の
「お待ちください!
「黙れ!」
韓遂は
「貴様、誰に向かって口を利いている!儂に責を押し付ける気か!」
広間は緊張に凍り付いた。
敗戦で心を乱した主君は、諫言すら反抗としか受け取れなかった。
韓遂は蒋石に指を突きつけた。
「この者も捕らえよ!閻行と並べて首を刎ねろ!」
その命令で韓遂の左右を固めていた衛兵が動いた。
だがその刹那、閻行の眼に決意の光が走った。
「その暴虐、もはや
閻行は咆哮とともに腰の刀を抜いた。
鋭い金属音が広間に響き、衛兵が慌てて構える。
だが閻行は躊躇わず前へと飛び出した。
「
「な、なんだとっ!?」
韓遂は驚愕の声を上げ、後ずさる。
衛兵が立ちはだかるが、閻行の一閃は二人をなぎ倒した。
「ぎゃっ!」
「ぐあぁっ!」
血飛沫が灯火に散り、広間に悲鳴が上がる。
「やめよ!」
忠義を貫こうとするその姿は必死であったが、他の配下たちは閻行に同調していた。
敗戦の怒りと恐怖、そして韓遂への不信が、彼らを一つにしていたのだ。
「よせ、
「ここで討たねば、次は我らぞ!」
複数の手が成公英の腕を掴み、背に押し付け、彼を地に倒した。
その間にも閻行は進み、韓遂に迫った。
「やめろ…!彦明、今までの恩義を忘れたか!誰か!こやつを止めろっ!」
韓遂は声を張り上げたが、もはや誰も動かない。
残った衛兵は恐怖に凍り、配下たちは顔を伏せた。
「どの口が!覚悟!」
閻行の刃が閃き、韓遂の胸を貫いた。
「ぐ……あっ!」
鮮血が飛び散り、韓遂は呻き声を上げて膝を折った。
顔は蒼白に歪み、やがて前に倒れ込む。
広間に重い音が響き、韓遂は動かなくなった。
沈黙が訪れた。
誰もが呼吸を忘れたかのように立ち尽くした。
やがて閻行は深く息を吐き、刀を拭った。
「同郷の誼で従っていたが、器に非ず」
配下の一人が声を上げた。
「これからどうすれば…」
閻行は刀を鞘に収め、答えた。
「このまま允吾に籠っても勝利に勢いを得た
広間にざわめきが広がる。
閻行は周囲を見渡し、力強く言い放った。
「故に明日、使者を立てる。
誰もが不安と安堵が入り混じった表情を見せていた。
戦で敗れ主を失った今、残された道は降伏しかない。
だが果たして今まで敵対していた馬騰に赦されるのか。
成公英は縛られたまま呻いた。
「貴様ら……本当にそれでよいのか……!」
だが答える者はいなかった。
ただ閻行だけが口を開く。
「
「くっ…この不忠者が…」
もはや誰も降伏に反対しなかった。
敗北と韓遂の死が、彼らを従わせた。
こうして金城の夜は、韓遂の終焉と新たな決断を以って更けていった。
◇
春の夕風が冷たく吹き抜け、
ここ数日、彼は騎兵を率い
韓遂軍の残党を追い散らし、指示により降っていた各県を次々と解放してきたのだ。
勇士県は漢陽郡北端に位置し、山と川に囲まれた要害の地であった。
だが城兵は馬超の軍の到来に抗うことなく、すでに城門を開いていた。
韓遂の敗報は伝わっており、当然のように抵抗を受けることは無かった。
「
斥候の伍長から報告を受けた馬超は頷き、馬を進めた。
「よし、城に入るぞ。敗残の兵も無闇に殺すな」
兵たちは歓声を上げた。
戦い続きで疲労は濃かったが、勝利が続くことで士気は高まっていた。
◇
勇士に入ってしばらくすると、北門の方から十騎ほどの兵が近づき、白布を掲げていた。
槍に結ばれた布は風にはためき、誰の目にも「降伏」の意を示していた。
「金城の閻行より、降伏の使者との由!」
応対から戻った兵卒が声を上げ、他の兵たちがざわめく。
馬岱が即座に眉をひそめ、馬を寄せてきた。
「
だが馬超は目を細め、前に進んだ。
「会ってみなければ分からぬ。とりあえず入れよ」
城内に引き入れられた使者は二人。
前に立ったのは痩せた若い男で、背には大きな木箱を背負わせた従者が続いていた。
男は泥に膝をついて声を張り上げた。
「金城の書佐の蒋石と申します。閻彦明殿より言伝を預かってまいりました!逆臣の韓遂はすでに誅されました!我ら一同、安狄将軍に降ることを願い、その証をここに持参いたしました!」
そう言って従者が木箱を開けた。
中から現れたのは、血の乾いた生首であった。
白布に包まれていたが、その顔は明らかに韓遂のものであった。
瞼は閉じられ、口は半ば開き、表情には最期の驚愕が張り付いていた。
兵たちは息を呑んだ。場がざわめき、誰もがその首を見つめる。
「むう……本物か」
龐徳が低く唸った。
馬超も顔を寄せ、じっと首を見た。
幼い頃から付き合いのある韓遂、その姿形はよく知っている。
「……うむ。これを偽れるものではない。韓遂は討たれた」
馬岱はなお渋い顔で首を振ったが、やがて沈黙した。
蒋石が額を地に擦り付けて告げた。
「彦明殿は、馬孟起殿を通じて安狄将軍に降伏を申し出たいと申しております。どうかお取り計らいを!」
場に重い空気が落ちた。
韓遂を討った閻行が降る――その報せは勝利を決定づけるものであった。
だがそれは同時に、慎重な判断を要する問題でもあった。
馬超はしばし沈黙し、やがて龐徳を振り返った。
「
龐徳は槍を突き立て、深く頷いた。
「承知しました」
馬超は続けて馬岱に視線を移した。
「我らはこれより金城に入る。閻彦明と会い、降伏を受け入れる。蒋石とか言ったな、允吾近くの亭にて会談すると彦明殿に伝えよ」
こうして馬超は決断した。
龐徳は韓遂の首を携えて冀の馬騰のもとへ戻り、馬超と馬岱は兵を率いて金城郡に入る。
允吾近くの亭で、閻行との会談が待っていた。
夜風は冷たく、篝火に映る韓遂の首が揺れた。
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