第15話 三皇秘典

日が沈みきる前に、街道の亭へ辿り着いた。

土塀に囲まれた小さな中庭、井戸の釣瓶が軋み、薄暗い廊下を油皿の焔が揺らしている。

龐徳ほうとくは先に厩へ回り、馬に飼葉と水を与えた。

馬超ばちょう蔡琰さいえんを座敷へ導き、戸口が風で鳴らぬよう楔を差した。


卓の上に、竹簡が二、三束。

馬超は懐からさらに数枚を取り出し、紐を解いて広げる。

墨はまだ新しい。隷書れいしょの骨格の上に、走るような筆意が重なっている。


「……これが、わたしの考える理のだ。太昊たいこうに工典、炎帝えんていに稼典、軒轅けんえんに保典。いずれも“失われたさい伯喈はくかい殿の収書の断簡を綴り合わせたもの”という体裁にする。文は粗い、だからこそ文姫ぶんき殿の筆に仕上げを頼みたい」


蔡琰は琴の箱をそっと傍らに置き、竹簡の端を両手で受けた。

灯の下、長い睫毛が影を落とす。

目はよく通る。

最初の一枚を繰ると、呼吸がわずかに深くなった。


「“稼典”――あわひえはこの地の命。されどひでりに弱く、痩土に息長からず。西土より伝わる“むぎ”を広めよ。冬播・春刈の法、あぜを高くし、溝を深くして湿を退けること。……畦の高さを‘三寸’ではなく‘五寸’と定め、霜の夜に藁を敷いて根を守る、と」


蔡琰は思わず顔を上げた。


「畦の高さまで、数字で……」

「風は数字に従って吹かぬが、人は数字に従って動ける。次を」


言に従い二枚目を繰る。

指の先が墨の匂いを拾う。


「“水は高きより低きへ、力は輪に移る”。――“水車”の図。……羽根の角度、十六。といの高さを肩のあたりに揃え、流れに勢い出でれば臼は回る、とあります。水が脈のように小屋を打つ音まで、文に聞こえるようにございます」


「工人に作らせる。羽根の角度は何度も変えることになるだろうが、凡例にと記しておく」


蔡琰は苦笑を浮かべる。


――父の文にも好みました。決め切らず、道を残す言葉」

「道は畦のように、風と水で崩れる。直せるよう、文にも余地を」


三枚目に移る。筆画は少し強くなる。


「……肥の条。“灰は火より、火は木より、木は土より来る”。藁灰・木灰は、土へ還せば麦の骨となる。糞はを待って畑に入れよ。生きたまま入るは病を呼ぶ。――“藁と糞を層に積み、竹で穴を通し、月を三たび待て”。酒の滓を少し混ぜると臭いは鎮まる、と」


蔡琰は掌をわずかに口元へ寄せた。


「匂いまで、記すのですね」

「匂いは学に残らぬが、暮らしに残る。匂いで覚える学は強い」


四枚目。“倉”の図。倉門は東を避け、鍵は三つ、開ける者は三人。買い上げと放出の簿をごとに書き改め、印は官と里と郡の三。この一節に文姫の眼差しが細くなる。


「……これは、穀の流れをようにする文。巧みにございます。吏の手練手管が入り込む隙を、最初から塞ぐように」

「三人が同時に手を伸ばさぬ限り、倉は開かぬ。……これをだけに感じさせぬよう、叙を付けたい。“民は国の本、本は倉に在り。”――そういう言い回しは、文姫殿の方がずっと巧い」


蔡琰は微笑んだ。


「叙は短く、けれど息長く。……承りました」


彼女は束を置き、別の束――“工典”を取る。最初の条は“火”。火は木より出て、煙は油になり、油の蒸気は火を嫌う。……乾留の図。土を塗った小竈に、黒い石を入れ、息を塞いで焚く。上から油のようなものが落ち、下に軽く白い炭が残る。


「火を……。石から油……いや、油の匂いのする水と、“軽い炭”。この軽い炭に“焔は強く、煙は少なし”。……鍛冶の喜ぶ顔が見えるようです」

「火の息を短く強く。煙が少なければ、鍛冶の目と肺が長生きする」


次の条、“鉄”。低い火で塊を作り、繰り返し叩いては伸ばし、灯油で刃を拭いて熱を均す。刃は“先を硬く、根を柔らかく”。槍先は刺突のための“菱”の断面。その図は簡易ながら造形が美しい。


「文に図が添うと、言葉が嘘をつけなくなりますね」

「図は言い訳を許さぬ。だから怖い。だから、強い」


“馬具”の条は文姫が息を呑んだ。鞍木の曲線、前輪・後輪の高さ、鞍角の張り出し、尻綱と胸繋、環と革帯の通し穴。鐙は輪に皮を巻き、足先が抜けやすいよう開きを付ける。蹄鉄は“凵の字”に作り、釘は角度を付けて外へ抜ける道を残す。


「――落馬した者が、引きずられないように」

「そうだ。人を護る工夫は、人を強くする」


最後の束――“保典”を開く。そこだけ、墨の色が少し薄い。馬超の筆跡が、ためらいを含んでいる。


「……手を洗え。水がなければ、灰を揉み、酒で流せ。器は湯で煮よ。傷は泥で覆うな、清き布で押さえ、風をさえぎれ。毒が見えずとも、毒はある。――文が優しくございます」

「毒は目に見えぬ小さき虫のようなもの、だが確かに人を殺す。見えぬ敵ほど、言葉を柔らかくせねば伝わらぬ」


蔡琰は竹簡を整然と束ねなおした。

紐の結び目を美しく結い直す手つきに、蔡邕の娘の血が見えた。


「ならば体裁は、わたくしにお任せください。まず凡例を設けます。本文は短くに分け、余白に小さく訓詁くんこを添える。印は…」

「冀に戻れば、官に印を作らせる。ひとまず文姫殿の名は外に出さぬ方がいい。とかく女の名に難癖を付けたがる者もいる」


蔡琰はうっすら笑みを浮かべた。


「世の習いに従い、陰で力を尽くすこともまた、女の道でございましょう」

「実のところこれらはまだ一片。多くを書に記している暇が無くてな…夜毎に口伝で書いてもらうのが良さそうだ」


そのとき、廊下の先で足音が止まり、龐徳が戸口から顔を覗かせた。

湯気の立つ甕を手に、粗末な盥と布を抱えている。


「若、湯を。手を温めてから筆を持たれよと、うちの亡母がいつも申しておりました」

「気が利くな、令明ほうとく


蔡琰は手を洗い、指先を布で押さえ乾かす。

筆を取って試し書きをする。

墨はよく伸び、筆は迷いなく進んだ。


「――筆は、まだ震えませぬ」

「ならば今夜は、冒頭の叙と、各典の目次を。あとは冀でゆっくり仕上げよう。……文姫殿、頼む」


蔡琰は静かに頷いた。

灯の焔が、彼女の横顔を柔らかく撫でる。

儚い美しさのうちに、芯の強さが見える。

琴の弦が、風も触れぬのに微かに鳴ったように思えた。


外では風が土塀を撫で、井戸の水面がわずかにさざめいていた。

三人だけの小さな荒ら屋に、夜が降りてくる。

文の筆と理の牌――その二つが、この夜、初めて同じ卓の上に置かれた。


◆◆◆


改めて読み返してみると難渋で読みにくすぎるので後で書き直すかも…

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