第3話 鞍と鐙
数日後、傷の痛みもようやく薄らいだ頃。
現れたのは、日に焼けた肌に太い腕を持つ中年の職人。軍馬の手綱や甲冑の革紐を常に扱っているのだろう、手のひらには深いひび割れが刻まれている。
職人は膝をつき、粗野ながら礼を尽くした。
「若様、お呼びにより参りました。馬具の修繕でございますか?」
馬超は頷き、寝台の脇に置かれた簡素な革製の
「これを改めたい。今の鞍は浅すぎ、騎手の腰を支えきれぬ。落馬の危険が多い。——俺の言う形に作り直してほしい」
職人は怪訝な顔をした。
「……若様、鞍の形は代々このまま。馬も人も慣れておりますが」
「慣れは力ではない」
馬超は静かに言葉を返した。
「もっと深く、もっと安定した鞍があれば、騎兵はより速く、より強く戦える。岱、布と筆を」
馬岱が差し出した布帛に、主人公は震える手で図を描き始めた。
腰を深く沈める広い座面、左右に張り出す鞍角。
革紐の編み方も工夫させる。いわゆるサドルスティッチの技法を図示してやる。
そして両脇に吊り下げられる「
「ここに足を掛ける金具を付ける。革帯で吊り下げ、騎手が踏ん張れるようにするんだ」
「足を……掛ける?」
職人は目を丸くした。
「そんなものを作って、いったい何の役に立ちましょう」
馬超は微笑み、拳を握って膝を叩いた。
「素早く乗り降りできる。立ち上がって弓を射れる。馬の背で矛を突き出す時、姿勢を崩さずに力を乗せられる。長く走っても落ちにくい」
馬岱も図を覗き込み、首を傾げる。
「……従兄上。まるで西方の椅子のような鞍ですな。だが、もしこれが本当に役立つなら……」
「試してみればいい。まずは俺の分だけ作らせる。実戦で示せば、誰も文句は言わぬ」
職人はしばし図を睨みつけ、やがて重く息を吐いた。
「……承知いたしました。ただし見たこともない形ゆえ、仕上げには日数をいただきます」
「構わぬ。丁寧に作れ」
その瞬間、馬超の胸は熱く高鳴った。
現代で培った記憶と技術が、この
(これで……俺はただの猪武者じゃない。歴史に抗う一手を、ここから始める!)
◇◇◇
数日が過ぎ、革職人が汗と誇りを込めて作り上げた鞍と鐙が、天幕に運び込まれた。
馬超は包帯を巻いたままではあったが、疼く傷を押さえつつ立ち上がり、馬岱を伴って愛馬のもとへ向かう。
天幕の外、厩舎の柵内で待つのは、いつも戦場を共にしてきた栗毛の駿馬だ。
馬岱が首を撫でて宥めながら、新しい鞍を載せてみせる。
重厚な革の座面は深く、鐙は両脇に下がって陽を受けて鈍く光っていた。
従来の簡素な木鞍とは、もはや別物である。
「……従兄上、本当にこれに跨がるのですか?」
馬岱は半ば呆れ、半ば興味深げに問いかけた。
「見たこともない形です。馬が驚かぬかと心配ですが」
「慣れさせればいい。馬は賢い。俺を信じろ」
馬超は鐙を確かめるように手で掴み、ゆっくりと足を掛けた。
鞍に腰を下ろすと、深い座面が背を包み込み、腰がぐらつかない。
「……これは……」
思わず息が漏れる。
体重を鐙に預け、軽く立ち上がってみる。膝と腰にかかる衝撃が、これまでとは比べ物にならぬほど安定している。
愛馬は最初こそ耳を絞って落ち着かなかったが、主の重みに慣れると、徐々に呼吸を整えた。
「よし……歩ませてみるか」
馬岱が手綱を引いて導く。馬超は鐙を踏み、上体を前に倒しながら姿勢を変える。
従来ならば不安定で落ちそうな動きが、鞍と鐙の支えによって難なくこなせる。
「これは……すごい!」
馬岱が声を上げた。
「立ち上がったままでも矛を振れますぞ! まるで地に足をつけているようだ!」
馬超は頷き、胸の奥から湧き上がる確信を噛みしめた。
「これなら、突撃の勢いをそのまま矛に乗せられる。戦場で必ず生きる……」
愛馬が一声嘶いた。
その響きは、まるで新たな時代の幕開けを告げるかのようだった。
(これだ……鐙と鞍。これがあれば、涼州の騎兵は変わる。俺は必ず、この地で未来を切り拓く!)
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