The beginning of|あかり★






__こんなはずじゃなかった。

  何度、思ったことか。




__どうして自分だけが。

  何度、憎んだことか。




__どこで間違えたのか。

  何度、後悔したことか。




 自分には人として決定的な何かが欠落しているのだろうか。

 欠陥商品。そんな言葉が頭を過ぎる。

私はいつからこのような私になってしまったのだろう。生まれたときから決まっていたのだろうか。遺伝子が決めたプログラムの結果なのだろうか。なぜ、何度も繰り返してしまうのだろう。


 分からない。

 分からない。

 分からない。


 もう何も分からない。


 考えられない。

 考えたくない。


 逃げたい。

 どこか遠いところへ。


 私を知らない遠いところ。

 私も知らない遠いところ。


 遥か西の果てへ。

 その果ての、そのまた果てへ。



__もう全部終わりにしたい。





 あかりは地方都市の郊外で生まれ育った。日本のどこにでもある町のひとつといえる。後継者不足で荒れ果てた耕作放棄地と、農地に挟まれた家屋が散在している金太郎飴のような風景が続く。朝夕の時間帯はバイパス道路に車両が集中し、その役目を担っていない国道。夜になると、寂しいばかりの県道を申し訳ないと言わんばかりの街灯が照らしている。


 生家はごく普通の家だ。

 大工として工務店に勤める職人気質の父、快活な専業主婦の母、謙虚で優しい祖母、そして、あかり。四人家族。別段仲が良い訳ではないが折り合いが悪い訳でもない。各々で仲違いは時々あるが、尾を引く訳ではない。普通の家族、とあかり自身も感じている。



 感じていた。



 過去形になったのは、祖母に認知症の症状が出始めてからだ。

 最初は物忘れから始まった。昔のことを頻繁に話すようになった。おかしいと気づいて専門外来を受診したとき、病態はかなり進行していた。すでに、かつての祖母の面影はなくなっていた。

 誰かれ問わず家族を激しく罵った。

 早朝深夜の徘徊を繰り返した。

 所かまわず汚物を撒き散らした。

 はてに幻覚と幻聴が現れ、暴れた。

 祖母にしか見えない敵が家の中を彷徨いていた。

 静止しようとする者は容赦ない暴力を振るわれた。老体と言えど手加減のない暴力は、その名に相応しい結果を齎した。家族の顔や身体からは痣が絶えなくなった。それでも施設に入れることに反対した父の意向で、母とあかりは忍耐を強いられた。転倒が原因の骨折で入院すると、祖母は砂時計の落下速度が増したかのように衰弱した。そして誤嚥による肺炎が致命傷となって逝った。

 それまでの苦労が嘘だったかのようなあっけない最期だった。



 あかりの心はとうに壊れていた。



 誰に強制された訳ではない。家族の一員として役に立つことは当たり前だとおもっていた。だから、あかりは黙って祖母の介助を手伝った。手伝わなかったとしても、文句を言う者はいなかっただろう。その一方で、家族を労う余裕も消えていた。高校生活最後の日、ほかの多くの同級生が胸に抱いて校舎を後にする学生生活の思い出が、あかりには、ひとつも残っていなかった。まぶしい青春時代という代物があかりの人生に届けられることはなかった。配達人が宛先を間違えたのかもしれない。



 程なく、あかりは美容師の専門学校へ進学するために上京した。

 逃げ出す場所はすでに無くなっていた。しかし、逃げなければならないという濁流のような強迫観念から、あかりは逃れることができなかった。





 閉ざされた場所を離れたあかりは、ようやく、息ができるようになったと感じた。それまでは、常に息苦しかった。深呼吸しようにも、胸がつかえて十分な空気が入って来なかった。東京の空気は、喧騒と砂埃と排気ガスと人工的な匂いに塗れていたが、あかりは以前よりもずっと楽に息をすることができた。



 高い志を持ち上京した訳ではない。だから学費以外の生活費は自分で賄うことを決めていた。それまで祖母の介護しか経験していなかっため、アルバイトの内容も、相場も、碌に理解していなかった。時給だけで申し込んだ最初の面接で採用が決まった。あかりは、賑やかな繁華街のビルにあるクラブのホステスとして働くことになった。クラブのママは採用した理由を「見た目」と断言したが、自分では華やかさとは縁のない容姿だとおもっていた。片田舎の生娘に、世間と、夜と闇の世界と、作法と、忖度と、良くないことと悪いこととしてはいけないことの境界線を教えてくれたのが、ママだった。


 どこかに置き忘れていた母性を思い出させてくれたのも、また、ママだった。

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