光の記憶 第4話 みずの記憶
オフィスの空調は少し強すぎて、澪はカーディガンの袖を引き寄せた。
デザイン会社のフロアには、モニターの光とキーボードの音が絶え間なく響いている。
澪はクライアント向けのプレゼン資料を整えながら、同僚の声に顔を上げた。
「昼、久しぶりに外に食べに行こうか?」
昼休み、澪は同僚と二人でオフィス近くのカフェに入った。
窓際の席に腰を下ろすと、ランチプレートの香りが漂ってくる。
「最近さ、またどっか行ってるでしょ? 写真も増えてるし。……まさか彼氏?」
同僚はにやりと笑い、ストローでアイスコーヒーをかき混ぜた。
澪は慌てて首を振った。
「ち、違うよ!」
思わず声が強くなり、気まずさを紛らわせるように手帳を取り出す。
「ほら、これ……前に話したでしょ。母が残した写真を辿ってるの」
(これは誠さん写真だけど……)
同僚は身を乗り出して覗き込む。
「……岩畳? 長瀞かな?」
「うん、そうだよね」
「でもこれ、ちょっと古い写真っぽい。撮りに行くの?」
澪はフォークを持ったまま、少し黙り込んだ。
「……うーん」
答えは曖昧なまま、視線は窓の外へと流れていった。
街路樹の葉が風に揺れるのを眺めながら、心はすでに別の場所にあった。
週末、澪は電車に揺られていた。
窓の外を流れる景色は、都会のビル群から次第に山の稜線へと変わっていく。
手帳を膝に置き、写真のコピーをもう一度見つめる。
> 流れの中で、
> 光はかすかな時間を捕まえる。
> それは瞬きにも似た永遠。
誠さんが残した言葉と写真。
その意味を確かめるように、澪は小さく息をついた。
長瀞駅に降り立つと、観光客のざわめきと荒川の流れの音が迎えてくれた。
岩畳の上には結晶片岩が陽を浴びて鈍く光り、川面にはきらめきが走っている。
澪はカメラを構えた。
シャッターを切る。
画面に映ったのは、ただの水面。
もう一度、角度を変えて切る。
光は確かに揺れているのに、写真にすると平板で、どこか死んでしまう。
「……違う」
削除ボタンを押し、また構える。
何度も繰り返すうちに、指先に力が入らなくなった。
「……やっぱり、撮れない」
小さく呟き、カメラを下ろす。
(母なら、この光をどう切り取っただろう――)
その少し離れた場所で、別の人物も同じ川面にレンズを向けていた。
湊だった。
だが二人は互いに気づかない。
観光客の影と川の音に紛れ、ただすれ違うようにシャッターを切っていた。
名物のかき氷を口にしたが、澪の心は満たされなかった。
やっぱり私にはまだ撮れないかな、でも次の写真は――そんな思いが胸をかすめる。
> 水は息づく。
> 岩に触れ、草を揺らし、
> 再び流れは光を連れていく。
キャプションを読み返しながら、澪はもう一度カメラを構えた。
だが、やはり母の……湊の写真に比べると何かが足りない気がする。
「……違う、これじゃない」
ため息とともにカメラを下ろしたとき、風に揺れる草が目に留まった。
その瞬間、背後から声がした。
「……その角度、悪くない」
振り返ると、湊が立っていた。
互いに一瞬、言葉を失う。
湊はカメラバッグを開け、一本のレンズを取り出した。
「これ、使ってみろ。広角だから、草と水面の呼吸がもっと映るはずだ」
澪は黙って頷き、レンズを受け取った。
装着してファインダーを覗くと、風に揺れる草と川面の光が一枚の画に溶け合っていた。
シャッターを切る。
画面には、今までにない鮮やかな息づきが刻まれていた。
――生命が再び流れ出す。
そんな言葉が、自然に浮かんだ。
夕暮れ。
川面は橙に染まり、影が長く伸びていく。
湊はしばらく黙っていたが、ふと口を開いた。
「……あのときは、つい強く言いすぎた。悪かった」
澪は驚いたように目を瞬かせた。
湊が自分から謝る姿は、少し意外だった。
湊は視線を川面に落とし、続けた。
「でも……今日、自分が撮ったどの写真よりも、君のさっきの一枚が二枚目にふさわしい」
声は静かだったが、言葉には確かな熱があった。
澪は胸の奥が温かくなるのを感じた。
湊は少し間を置いてから言った。
「また……協力してほしい」
澪はゆっくりと頷いた。
二人は並んで夕陽を見つめる。
川面に映る二つの影は、揺れながら一つに重なっていった。
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