レンズの向こうに
62
レンズの向こうに 第0話 湖畔の町
長野県の山あいを抜けると、湖面が突然ひらけた。
九月の光はまだ夏の名残を抱えながらも、空気の奥に冷たさを含んでいる。
木崎湖の水は、風が止むと鏡のように山を映し、漕ぎ出したボートの波紋がゆっくりと広がっていった。
湖畔の商店街は、観光シーズンを過ぎて人影もまばらだ。
古びた看板の下に「写真館」と墨書きされた木札が揺れている。
引き戸を開けると、乾いた木の匂いと、現像液のかすかな残り香が鼻をかすめた。
「いらっしゃい」
奥から現れたのは、白髪を後ろで束ねた館主だった。
壁一面に額装されたモノクロ写真が並び、その中には、湖畔の桟橋や、雪に覆われた山道、祭りの夜の提灯があった。
「撮らせてもらってもいいですか」
許可を得て、店内を歩きながらシャッターを切る。
棚の奥、埃をかぶったアルバムの中に、一枚の集合写真があった。
湖を背景に、十数人が並んでいる。中央の女性は、少し俯き加減で笑っていた。
その背後、遠くに観覧車の輪郭がかすんで見える。
ファインダー越しに、その観覧車を切り取った瞬間、胸の奥に胸の奧で何かがかすかに軋む感覚が残った。
何かを思い出しかけているような、しかしまだ形にならない感覚…。
撮影を終えて外に出ると、湖面は夕陽を受けて金色に揺れていた。
商店街の端に、小さな食堂が灯りをともしている。
暖簾をくぐると、湯気の立つおやきと、香ばしい五平餅の匂いが迎えてくれた。
焼きたてのおやきを頬張ると、甘じょっぱい味噌の香りが口いっぱいに広がる。
この味もきっと忘れないだろう…。
窓の外では、湖面がゆるやかに暮色へと溶けていった。
この町の名前を、湊はまだ深く覚えていなかった。
ただ、ファインダー越しに見た光と、口に残る味だけが、確かに心に刻まれていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます