針子

市街地

第1話

 会う女会う女にいい顔をするものだから、どうやら恨まれていたらしく、気づいたらわたしは頭と身体にすっかり二分されていた。

 どうやらわたしは殺されたとみえる。痛みはないので、相当に神経かなにかがやられているのだろうか。思いのほか意識が続くものだと他人事のように思っていた。目の前で泣き崩れる女はおそらくわたしの首を切ったのだろうけれど、そうとは思えないほどにかわいらしい容姿をしている。生成いろをしたやわらかそうな生地のワンピースを赤く染めて、わたしを力なく抱き寄せた。苦しそうに嗚咽を漏らしながら、ほっそりとしたその腕は、子猫のような、壊れやすくいとおしいものを触れるように動いた。涙がわたしの額にこぼれてあたたかかった。この細腕がよくも成人した女の首を切れたものだと思う。

 女はその場にうずくまって泣いていたが、しばらくすると泣き止んだ。すっくと立ちあがると、手提げから出した黒地のおおきいコートを羽織って、空いたスペースにわたしをしまいこんだ。思いのほか計画的だったのかと恐ろしい気持がした。視線を下ろしてみると、わたしに使われたとみえる、いかにも鋭利そうな刃物が、ハンカチやらイヤホンやら、ほかの荷物と一緒に乱雑にしまわれている。

 うーむ。ほんとうに彼女がやったのか。

 わたしは肯いてみるが(頭だけなので、厳密にはまったく肯くような動作はできやしないのだが)、わたし自身それほど身体に執着はないものだし、特に痛みが伴っているわけでもないものだから、しかたがないことだと思うばかりだった。むろんわたしにも悪いところが多分にあったのだろう。多少生活に不便が伴うだろうし、もっともいつまで意識が保つものかわからないのだけれども、彼女が大それた行動に出るくらい、わたしは彼女を傷つけたのだろうと思った。

 彼女の歩調は足早で、人を殺した日にはそうもなるかと得心した。

 帰り際にわたしの身体が見当たらず、どうしたものかと思ったのだけれど、わたしみたいなばかに愛想を尽かしたまでだろう。彼女は彼女で元気にやってくれるといいと思う。血まみれの服を着て、頭のない姿で、どうしたものかやや心配には思うのだけれども、なんとかやっていくのだろう。おそらく過度に楽天的なのは、わたしの短所であり、長所でもあった。


 そう時間が経たないうちに、何度か訪れたことのある彼女の室に辿り着いた。二階建ての小さなアパートの、二階奥の角部屋である。むろんオートロックなどはなく、彼女は足音をひそめ、ちゃちな門をくぐるとコンクリートの無骨な階段を上る。そういえば彼女がスニーカーをはいているのはなかなか見ないものだと面白くなった。こんど彼女の靴棚をのぞいてみよう。ただ、わたしひとりで動くことはおそらく難しいため、彼女が許せばということになる。

 彼女は無言のまま室に入り、静かに鞄をおろした。わたしの室もそうだけれど、単身者用の物件に脱衣所などないので、彼女はその場で服を脱いだ。そして、赤く染まったそれをほんの少し眺めて、首を傾げたのち、クローゼットから取り出した紙袋にいれて、テープでぐるぐると厳重に封をしたのちごみ袋にいれてしまった。彼女によく似あうかわいらしい服だと思っていたから、すこしだけ惜しい気持がした。けれども、彼女はしみや毛玉、ほつれのできた服なんかはすぐに捨ててしまう、神経質な女だったので、そういうものかと思った。

 それよりも、彼女があまりにあっさりと服を脱いでみせるので、わたしは動揺した。

 普段寝床を共にするときはいやに恥じらってみせたものだけれども、大分様変わりして、羽虫を払うように鬱陶しそうにすべてを払いのけた。薄暗がりでしか見たことのない彼女の裸身があらわになった。恥じらう必要がまったくないくらいきれいだった。デコルテにはクッキリと鎖骨が浮いて、胸元は若々しく上向いている。腹は臓のうえに申し訳程度に肉をつけましたと言わんばかりで、おそらく不摂生ゆえと思われるが、すんなりとした細さをしていた。頼りない腰と小ぶりな尻に続く腿は、彼女の身体のなかではわりあい肉がついて見えるものの、皮膚が張って未成熟な果実のようだった。あまり歩かなさそうな脛は、わたしは観賞用にありますのでといったようなすました面立ちである。足は骨のかたちがよくわかり、指が長くて恰好良かった。

 思わずほうとため息をつくと、彼女がびくりと肩を震わせ、わたしを振り返った。

「え、なんで。」

「えーと……まず、ごめん、こんなに明るいのに、裸を見てしまって。」

彼女は慌てたようすでバスタオルを引っ掴むと、その身体を覆い隠した。もったいなくて、ああと声を漏らすと、彼女があきれた目つきでわたしを見た。

「あー……わたしもわからないんだけど。死ってこうなんだね。」

「ばかじゃないの。」

ちょっとシャワー浴びてくるから。そういったきり、彼女は浴室に行ってしまった。

 水の音を聞きながら、そういえば彼女の身体に触れることは難しくなると悲しくなった。ただ、彼女に触れられなくなるということよりも、わたしがほかの女に触れなくなるということを彼女が重視した結果が今なのだろう。


 彼女は濡れ髪にタオルを巻いて、しっかりと寝衣を着た状態でもどってきた。以前彼女の部屋を訪れたときよりも長く浴室にこもっていたものだから、おそらく落ち着く時間も込みだったのだろうけれど、彼女のまっさらな唇には、いまだ戸惑いと恥じらいが色濃く残っている。わたしだって少なからず動揺はしているわけだから、同じく当事者の彼女もとっても無理はない話である。彼女にはしっかりと身体は残っているけれどもだ。

「髪を乾かしてくるから、ちょっと待っていて。」

「はあい。」

彼女は部屋の仕切り戸を閉めて、居室へむかう。


 しばし待って、彼女が戻ってきた。

「ええと……あの、動転しているんだけど。」

彼女はそう言いながら、変わらず優しい手つきでわたしを鞄から取り出し、すこし逡巡したのちタオルを敷いて、テーブルのうえに載せた。あまりに気遣わしげな扱いをするものだから、わたしは自らの頭にワレモノ注意のステッカーでも貼られているところを想像した。

「わたしもだよ。」

「それはそうか……。ええ、どうしよう。えー……。いや、どうするも何も……わたし、あなたを部屋に置くつもりだったから、ここにいてほしいというか。外にも出せないんだけど。」

彼女は何度も口ごもった。そも饒舌なほうではなかったけれど、きょうは特に話すのが下手である。

「うん、そうしてもらえると助かるなあ。あ、化粧落としたいんだけど、やってくれる?」

「え? うん、いいけど……。」

彼女はわたしを浴室まで抱えて連れていき、化粧を落とし、顔を洗ってくれた。苦しくないかとしきりに心配するものだから、わたしはどういう構造で息をしているものか我ながら不思議になった。ただ、身体とつながっているときでさえ、自分の生きるしくみなどなにも知らなかった。致命的に思えたことだけれど、実のところ問題はないのかもしれない。

 そして彼女は丁寧に化粧水やら美容液やらを塗り込んでくれた。洗面台は高価な化粧品でいっぱいになっており、安っぽい狭くて古いアパートに不似合いだった。彼女がそんなにも自らの容姿にこだわりをもっていたことに、今更のように気が付いた。

「ありがとう。」

彼女は童女めいてこくんと肯いた。激しい気性をした女とは信じられないくらいに幼く愛らしくみえる。

「とりあえず寝るんだけど……どこがいい? クッションのうえ?」

「ベッドはだめ?」

「いいけど……わたし、落としちゃうかも。」

「そしたら嚙みつくから、大丈夫。」

彼女は静かな笑い声を漏らしたのち、わたしをうやうやしく持ち上げて、枕のあたりに置いた。そして彼女も床に就いた。

「ねえ、怒ってないの。」

彼女はわたしのほうを見ずに問うた。困ったような不安げな声色だった。

「ううん、それよりもユキがわたしに怒っていたんでしょう。」

「怒っていたというか。……ならよかった。おやすみ。」

「おやすみ。」

彼女はぎゅうと目を瞑った。目元に力がはいって、眉根がかすかに寄っている。その姿はおばけを恐れる幼子のようで、とても眠りにつく前のようには思われなかった。

 彼女が隣で眠るときは、わたしの頬を包んでみたり、抱きしめてみたり、わたしに触れることを好んでいたことを思い出した。かつてと同じようにしてくれてもまったく構いやしないのだが、ただすべて彼女のするに任せていたものだから、いま彼女はそれを欲していないだけなのかもしれない。彼女がわたしをあまり好きではなくなったのかと思うと、すこし悲しかった。


 カーテンの隙間から差し込む日差しがまぶしくて、わたしは目を覚ました。

 ゆうべは彼女を何ともなしに眺めていたら、強い眠気に襲われて、もう目が覚めないのかもしれないと思っていた。眠りは常にないほど深く、わたしの意識だけが世界と断絶したようだった。

 しかし、わたしは当然のように目を覚まし、ほどなくして彼女も気だるげに瞼を持ち上げた。彼女は青じろい顔をして、くっきりと隈をつくっている。やはりよくは眠れなかったのだとみえる。彼女が起きてすぐにアラームがけたたましく鳴って、彼女はそれをひどく苛立たしげな手つきで止めた。

「おはよう。大丈夫? ひどい顔。」

「ひどい。……ほんとだ。」

鏡をのぞきこんで、彼女は寝起きのやや低い声で言った。ため息を吐きながら浴室にふらふらと向かい、顔を洗ってくる。そして戻ってくると、今度はわたしの顔も洗ってくれた。抱えあげられてすべてをしてもらうのは、子供に戻ったようで、悪い気がしなかった。

 そのあとは昨日と同じに、わたしはテーブルのうえに載せられた。

「コーヒーのむ?」

「やった、もらおうかな。」

「……のめるの?」

「うーん。たぶん。」

ほどなくして、彼女はストローをさしたアイスコーヒーを運んできた。位置を合わせてもらうと、問題なく吸い上げることができた。安っぽいインスタントコーヒーの味がした。不味いので、ミルクなり砂糖なりで味をごまかしたかったのだけれど、他人に世話になっている身なので何も言えなかった。黙ってグラスが空になるまで、液体を啜る作業を続けた。

 彼女はホットコーヒーを啜りながら、身支度を整えた。疲れが色濃くにじんではいたが、あどけなさの残る寝起きの顔から、整って健康的な、社会人のそれになっていた。彼女はすぐに行ってくるといって、出かけて行った。音で操作できるから、暇つぶしに使ってとわたしの前にタブレット端末を残していった。気遣いはありがたかったのだけれど、なぜか無性に疲れていたため、わたしは彼女が帰ってくるまで眠っていた。ゆうべと同じに、生きていたことを忘れるほど深い眠りだった。目が覚めなかったらと思うたびに空恐ろしい気持もするのだけれど、そちらのほうが自然で正しいものだと思う。


 部屋が薄暗くなってようやく目が覚めた。鍵の開く音と同時に、ため息と共に彼女が滑り込んできた。くたびれた様子で浴室にはいって、すぐに出てくる。わたしにか細い声でただいまと言う。

「……あ、あの……お風呂、週末でいい?」

「うん、大丈夫。お疲れ様。」

正直なところ、脂じみた頭皮が不快だったのだけれど、わたしはおとなしく首肯するばかりだった。彼女はわたしの顔を洗って、歯を磨いてくれた。他人の口腔に歯ブラシを突っ込むのにはむろん不慣れなようで、わたしは数回えずいて、静かに彼女に欲情した。彼女は帰路に買ってきたとみえる、9%の缶チューハイを勢いよく呷ると、きょうはわたしを布団の中に引きこんで、強く抱きしめて眠った。

 それから、わたしたちの生活は同じような調子で続いた。

 週末に、彼女が早起きして、機嫌のよい日には、こっそりとデートもした。わたしは彼女の鞄のなかで過ごすことに慣れて、彼女は鞄をおおきく、柔らかい材質のものに買い替えた。わずかな視界から街を歩く知らない女をのぞくたび、彼女はめざとく険のある顔つきになって、外が見えないようにわたしの向きを変えた。

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