06:追放講師と見えざる敵

 アイリスから大学の不正調査への協力を依頼され、彼女が『マギクラフト社』の令嬢であるという衝撃の事実を知ったバジルは、その夜、なかなか寝付けずにいた。


 母校を救いたいという想い、そしてアイリスの真摯な眼差しに応えたいという気持ちは確かにある。


 しかし、相手は大学の最高権力者たちと、そして何よりも底の知れないアンブロシアという謎の女性講師だ。


 自分に一体何ができるというのだろうか…。


 対抗できそうな手段が見つからず、バジルは自分の無力を嘆いていた。

 ――数日後、アイリスから再び連絡があり、彼女の『家の手の者』によるさらなる内偵の報告が上がってきたので共有したい、と告げられた。


 場所は先日と同じく、高級レストラン『クロード・シャグラン』の個室。

 重々しい雰囲気の中、アイリスは二人の男女を伴って現れた。一人は初老の執事風の男性、もう一人はメイド服を品良く着こなした若い女性。


 しかし、その佇まいには、ただの従者ではない、鍛え上げられた者の鋭さが感じられた。


「バジル先生、こちらが、先日お話しした我が家の手の者です」


 アイリスに促され、まず男性のスカウトが沈痛な面持ちで口を開いた。

 彼の声には、まだ微かな混乱と恐怖の色が滲んでいる。


「…先日、自分はアンブロシア様の尾行任務に就きました。

 彼女が学内の人気のない資料室へ入られたのを確認し、後を追おうとした刹那、突如としてアンブロシア様が目の前に現れ、自分に穏やかに微笑みかけられました。

 その瞬間、脳の奥底に直接流れ込んでくるような、甘く心地よい声に包まれました。

 得も言われぬ幸福感が全身に広がり、抗う間もなく意識が溶けていくような感覚に襲われたのです。

 次に気づいた時には、自分は全く別の場所で、アンブロシア様のためと称して、本来の任務とは無関係な文献を漁っておりました。

 その間の記憶は、まるで他人の夢でも見ていたかのように曖昧で…ただ、アンブロシア様のお言葉が疑う余地なく正しいと、心の底からそう思い込まされていました。

 あれは、ただの魅了魔法や話術ではありません。

 人間の思考と記憶を直接操ってしまうような、恐るべき未知の術でした。抵抗訓練を受けていたはずの自分が、こうも容易く…面目次第もございません」


 男性スカウトは、悔しさに顔を歪ませた。その報告を聞くバジルの眉間に、深い皺が刻まれる。

 訓練されたプロのスカウトが、これほど容易く意識を操作されるとは。


(アンブロシア**”様”**か…多少抵抗はしているけれど、あの女の支配下にあるみたいだな…)


 次に、女性のスカウトが、緊張した面持ちで報告を続けた。


「…私は、男性スカウトの報告を受け、最大限の警戒をもってアンブロシアの監視にあたりました。

 彼女が学外の怪しげな商店へ入っていくのを確認し、少し離れた場所からその出口を見張っておりました。

 数刻後、彼女が出てきたのを確認し、慎重に追跡を開始したのですが…角を曲がった瞬間、ふと背後に妙な気配を感じ、反射的に振り返りました。しかし誰もおりません。

 再び前を向くと、ほんの数歩先に、アンブロシアがこちらを向いて、妖しく微笑んでおりました。

 私が驚きで声も出せずにいると、彼女はただ静かに微笑んだまま…次の瞬間、まるで陽炎のようにその姿が揺らぎ、跡形もなく消え失せてしまったのです。

 周囲には何の痕跡も、マナの残滓さえもございませんでした。

 まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように…あるいは、私自身が白昼夢でも見ていたかのように…。

 あれは、我々の知る《隠形術》や《幻術》の類ではありません。

 もっと根本的な…対象の存在そのものを、こちらの『認識』から消し去り、人間の感覚を狂わせるような未知の術としか言いようがありませんでした」


 女性スカウトは、心身ともに疲弊しきった様子で、悔しさに声を震わせた。


 彼女の報告は、アンブロシアの術が、人間の五感や記憶そのものを直接操作する、常識を超えたものであることを示唆していた。

 報告書にも、

 ――アンブロシアは、高度な《スニークスキル》に加え、我々の魔導学の常識では説明のつかない、人間の知覚や記憶を直接操作し、認識を歪める未知の術を複数使用している可能性が極めて高い。

 現状、人間の感覚と経験則に基づく追跡・監視では、対象の行動を正確に把握することは不可能に近い――

 と結論付けられていた。


 それ以外にも、

 ――アンブロシア自身が《スカウト》を超えるような、人の感覚を欺き、影に潜むことに特化した未知の上位クラスの技能を有しているのではないか――

 という推測もあった。


「…つまり、彼女がいつ、どこで、誰と会い、何をしているのか、その具体的な悪事の証拠が、全く掴めないのです」


 アイリスの声には、深い憂慮と、そして隠しきれない焦燥感が滲んでいた。

 彼女の『家の手の者』という精鋭中の精鋭ですら、アンブロシアの術の前には手も足も出ないのだ。


 バジルは、二人のスカウトの生々しい証言を聞きながら、以前大学で感じたアンブロシアの底知れない不気味さを思い出していた。

 彼女の周囲だけどこか空気が歪んでいるような、現実感が希薄になるような、奇妙な感覚…。


(訓練されたスカウトの鋭敏な感覚さえ、こうも容易く欺かれてしまうのか…)

(そういえば僕は彼女の術にかからなかったな・・・考えてみれば僕は彼女を『見る』ことを避けていたような…)


 だが、バジルは、人々の感情的な反応や主観的な認識から一歩引いた、どこか冷静な観察眼でアンブロシアの術の本質を捉えようとしていた。

 絶望的な状況に、バジルの眉間に深い皺が刻まれる。


 しかし、このまま諦めるわけにはいかない。

 母校を、そして何よりもアイリスの真摯な願いを守るために、自分にできることは何かないのか。


 その時、彼の脳裏に一つの光明が差し込んだ。


(…そうだ。もし、人間の目や耳や『脳』が、こんなにも容易く欺かれるのなら…?)


 彼の思考が、これまでの魔導学の常識とは異なる、全く新しい方向へと走り出す。


(…そもそも『脳』を持たないものに、客観的に記録させればいいのではないか…?どんな巧妙な認識操作も、感情も先入観も持たない、純粋な機械の目ならば…)


「…アイリス。もし人間の感覚が通用しないのなら、いや、むしろ人間の感覚そのものを利用されているのなら、それに頼らない方法で彼女を捉えられるしかないかもしれないよ」

「え…?と、申しますと、先生…?」


 不思議そうな顔をするアイリスに、バジルは静かに、しかし確かな熱意を込めて語り始めた。


「僕に…いただいた称号。『マギクラフト・マイスター』に恥じない発明のアイデアがあるんだ。」


 その説明を聞いたアイリスの瞳は、一瞬の驚きの後、やがて大きな期待の光に満ちて輝き始めるのだった。

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