12.私が女神エルスよ
「……よし」
俺は状況を冷静に分析した。
目の前には、広場を半壊させた女神エルス。
周囲は混乱の渦中。
そして俺たちは、その女神の仲間だと周知の事実である。
つまり——
「逃げよう」
いや、待て。これは逃げではない。戦略的撤退だ。
大事なのは、今この瞬間、俺がここにいないことだ。
「俺、あの女神とは面識ないんで」
小声で呟きながら、群衆の中に紛れ込もうとする。ああ、そうだ。俺はただの通りすがりの一般市民。祭りを楽しみに来ただけの、何の変哲もない青年。あの緑髪? ああ、この世界じゃ珍しくもなんともないさ。
「ちょ、ちょっと! タンタン! どこ行くのよ!」
背後からペルフィの声が聞こえたが、聞こえないふりをした。ごめんペルフィ、君のことは嫌いじゃないが、今は自分の身が大事なんだ。
「ど、どうしよう……ペルフィまで……」
エルスの困惑した声が遠ざかっていく。
いいぞ、このまま俺の存在は風のように消え去るんだ。
そして明日には、この街を出て——
「あっ、デュランはまだ一緒にいてくれるのね! ありがとう、そうよね、仲間なら——って、えええええ!? なんで胴体だけなの!? 頭は!? 頭はどこ行ったのよ!」
エルスの絶叫が広場に響き渡った。
振り返らない。絶対に振り返らない。振り返ったら最後、巻き込まれる。俺はロトの妻じゃない。塩の柱にはならない。
ダメだ、もうこの街はダメだ。
心理カウンセリング店? そんなもん知るか! 今から遠東の国に行こう。あそこは確か、日本に似た文化だって聞いたことがある。
そうだ、そこで新しい人生を始めるんだ。「異世界転生からの異世界国内移住」。なんだ、まだまだ人生やり直せるじゃないか!
俺の脳内では既に、遠東の国で温泉旅館の経営者として第二の人生を謳歌している未来予想図が出来上がっていた。ああ、いい。毎日温泉に入って、米を食べて、平和に暮らすんだ。魔王? 勇者? 女神? そんなの関係ねえ!
「——おおおお!」
その時、背後から歓声が上がった。
「よくやった! あの野郎、いつも偉そうにしやがって!」
「そうだそうだ! コーヒーに砂糖入れたくらいで、あんな怒らなくてもいいじゃないか!」
「かっこよかった!」
……え?
俺の足が止まった。
「あのお嬢さん、本当にすごかったよね! 俺たち市民のために戦ってくれたんだ!」
「クラークの奴、前から気に入らなかったんだよ。ざまあみろだ!」
待て待て待て。
「——あ、あははは! そうなんですよ、俺たち、あのエルスの仲間なんです!」
俺は光の速さで踵を返していた。
「えっ!? 但馬さん!?」
「いやー、心配しましたよ、エルス! さすがは俺たちのリーダーだ!」
俺は満面の笑みで、エルスの隣に立った。ペルフィもタイミングよく隣に並ぶ。デュランの胴体も、なぜか頭を抱えて戻ってきた。
ああ、素晴らしい。これが俺たち、「心理カウンセリング店一同」の絆だ。いつでも仲間を見捨てない、そんな——
「で、でも……あの国家執行官を敵に回して、大丈夫なのかしら……」
ペルフィが小声で囁いた。
「そ、そうよね……責任問題とか……」
エルスも顔を青ざめさせる。
俺も周囲を見回した。確かに、広場はクレーターができたように破壊されている。噴水は跡形もなく、石畳は砕け散り、屋台はいくつか倒れている。
これ、修理費いくらかかるんだ……?
「……逃げよう」
次の瞬間、俺たちは再び群衆の中に消えていた。
遠東の温泉旅館経営案、復活である。
「——でも、本当にかっこよかったよね!」
「うんうん! あの緑色の髪の人、実は結構なイケメンじゃない!?」
「あのエルフのお嬢さんも、クールで素敵だったわ!」
「それに、あの騎士も……って、あれ? あの頭、さっきまでなかったよね?」
……ん?
俺の足が、また止まった。
ペルフィも、エルスも、同じように立ち止まる。
「……まさか」
「……もしかして」
「……あの、吾としては……」
デュランの頭が、申し訳なさそうに俺の手の中で言った。
「——俺たち、英雄なんじゃね?」
「あははは! そうなんですよ、俺たちはあのエルスの仲間で——」
「タンタン、顔」
「顔がゲスすぎる」
ペルフィとエルスが同時にツッコんできたが、気にしない。今の俺は、遠東の温泉旅館から一転、「広場の英雄」という新しい肩書きに酔いしれていた。
ああ、これはいい。民衆の称賛。これこそが俺が求めていたものだ。借金? カウンセリング店の赤字? そんなもの、この名声があればどうにでも——
「あなたたち、さっきから何やってるんですか!」
エルスの怒声が響いた。
「但馬とペルフィはまだいいとして、デュラン! あなた、頭だけでどうやってあっち行ったりこっち行ったりしてるんですか! いくら本体が頭だからって、胴体を放置しすぎでしょう!」
「あ、えっと……その……吾の身体というのは、実はそこまで重要ではなく……極端な話、鎧さえあれば、どれでも……」
デュランの頭が、俺の手の中で申し訳なさそうに答えた。
ちなみに、今のデュランは完全に元のデュラハンの姿に戻っている。先ほどの美形バフは、エルスの魔力が戦闘で消耗し尽くされたため、あっさりと解除されてしまったのだ。
「どれでもって! そういう問題じゃないでしょう!それに、あなたたち、本当に無責任すぎるんですけど! 私が困ってる時に逃げて、評判が良くなったら戻ってきて、まずいと思ったらまた逃げて、また戻ってきて——」
「まあまあ、エルス。これも一種の戦略だよ。孫子も言ってるだろ? 『風林火山』。風のように素早く動き、林のように静かに隠れ、火のように激しく現れ、山のように動かない——」
「全然当てはまってないし、最後の『動かない』は完全に無視してるじゃないですか!」
その時だった。
「あ、あの……! もしかして……」
人混みの中から、一人の少女が飛び出してきた。
栗色の髪に、清楚な修道服。年齢は……十代後半くらいか? 顔を紅潮させ、息を切らせながら、彼女は——
エルスを指差した。
「あなた様は……!」
「……え?」
エルスが首を傾げる。
「あなた様は、エルス女神様ですよね!?」
「ええええええええ!?」
エルスの声が、広場中に響き渡った。
やばい。やばいやばいやばい
俺の脳内に警報が鳴り響いた。
エルスが女神だということは、俺とペルフィ、そしてデュランしか知らないはずだ。いや、クラークも薄々気づいているかもしれないが、あいつは今頃どこかで黒コーヒーを飲みながら憤っているだろう。
つまり、この少女は——
『ど、どうしよう!? 但馬さん!』
突然、エルスの声が脳内に響いた。
『えっと、その……落ち着いて、まずは——』
『ペルフィ! どうしたらいいと思う!?』
エルスの声が、今度は別の方向に飛んだ。
……ん?
『ちょ、ちょっと待ちなさいよ!』
突然、ペルフィが声を上げた。
『今、私にもテレパシーが聞こえたわよね!? ねえ、エルス! 今まで散々タンタンとだけコソコソ話してたでしょう!』
『え、あ、その……これは、色々な事情が……』
『事情って何よ! あんたたち、今まで私の知らないところでどれだけ悪口言ってたのよ! 『ペルフィは酒飲みすぎ』とか、『ツンデレめんどくさい』とか、『すぐ怒るから扱いづらい』とか!』
『……いや、その……否定したいところなんだが。お前、自己認識は結構正確なんだな』
「正確とかそういう問題じゃないのよ!」
『あ、あの……あちらの少女だが……昨夜、吾が出会ったシスターのような……』
『え!?』
エルスの声が、脳内で跳ね上がった。
彼女は慌てて少女の方を向き直る。少女は、相変わらず虔誠な眼差しでエルスを見つめていた。
そして、その視線が一瞬だけデュランに向けられた。
少女の表情が、わずかに揺れる。何か言いたげに口を開きかけたが、結局何も言わず、再びエルスに視線を戻した。
「エルス様……私、ドリア・スランデルと申します! エルス様の信徒でございます!」
「い、いえ、その……どう言えばいいかしら……ドリアさん、あなた、絶対に人違いを……」
エルスが慌てて手を振る。
『エルス、ここは素直に女神だって認めちゃえばいいじゃん』
俺は気楽に提案した。だって、もうバレてるんだし。
『え、ちょっと待って』
突然、ペルフィの声が割り込んできた。
『今、タンタン「女神」って言わなかった? ちょっと、エルスが女神って、どういうこと!?』
しまった。ペルフィには、まだエルスの正体を明かしていなかった。
『あ、えっと、これは……説明すると長くなるんだけど……』
『天界の規則で、女神が下界に降りる時は、自分の正体を明かしちゃいけないことになってるの……特別な事情がない限りは……しかも、もし明かしたら、報告書とか色々面倒で……』
いや、お前、さっきクラークとの戦闘で完全にバレてただろ……
『で、でも、それも仕方なかったというか……』
エルスの声が、どんどん小さくなっていく。
『ねえ、デュラン』
エルスが突然、話題を変えた。
『さっき、あの子が昨日の夜出会ったシスターだって言ったわよね?』
『は、はい……』
『……ちょっと』
エルスの雰囲気が、急に変わった。
彼女はゆっくりとドリアの方を向き直り、低い声で言った。
「……ねえ、あなた、夜中にゴールデンアップルパイを盗み食いしてたって聞いたんだけど、本当?」
ドリアの顔が、一瞬で真っ青になった。
「そ、それは……」
「あれは女神様への捧げ物なのよ? あなた、そんなことしていいと思ってるの? ああ、ちなみに私はエルストリア女神じゃないからね」
「も、申し訳ございません……! エルス様が既にご存知だったとは……で、でも、その……あれは、その……人生の必需品というか……食べないと生きていけないというか……」
人生の必需品って何だよ……
「ああ、それはすごくよく分かるわ。ちなみに私はエルストリア女神じゃないからね」
また繰り返したよ! しかも理解するなよ!
「そ、それに、エルス様……! 実は、その……私が最初にこの教会の信徒になったのも……ゴールデンアップルパイが理由だったんです……」
「え?」
「周りの人は誰も理解してくれなかったんですけど……聖典に書いてあったんです。『エルストリア様は、何よりもゴールデンアップルパイを愛される』と……それを読んだ時、私、思ったんです。この神様なら、私の気持ちを分かってくれるって……!」
「……いい子ね。許す。ちなみに私は女神じゃないけど」
「そ、それに、実は……他のみんなも、こっそり少しずつ食べてたりして……」
お前ら全員そうなのかよ!
『タンタン、なんか言いなさいよ! ツッコミ入れなさいよ!』
ペルフィの声が脳内に響いた。
『いや、もう俺、何をツッコんだらいいのか分かんねえよ……』
『ねえ、エルス。女神って、みんなそれぞれ好きなもの違うの?』
『そ、そうよ。例えば、ペルフィが信仰してるトトル様は、クリスタルアップルパイが好きなの』
『クリスタルアップルパイって何だよ! めっちゃ高級じゃん! つーか、黄金をクリスタルに変えただけじゃねえか!』
『ちょっと! 私たちエルフの神様を侮辱しないでくれる!?』
「あの……エルス様……私、本当に困ってるんです……もしエルス様のお知恵をお貸しいただけなければ、教会が大変なことに……」
「え? 何?」
「このままでは、教会が潰れてしまうんです……そうなったら、ゴールデンアップルパイも、もう供給されなくなって……」
「——私が女神エルスよ。さあ、行きましょう」
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