[2]

 かわはし中央総合病院の特別病棟集中治療室。

 それは、演度四以上の演算手が、専門の治療を受けるための施設である。

 パーティーが終わった後、ひとみが重傷を負ったと連絡を受けた梓は、着替えもそこそこに家を飛び出し、病室へと駆け込んだ。

「ひとみ!?」

 真っ先に目に飛び込んできたのは、ベッドに寝かされたひとみの姿だった。

 頭に白い包帯が巻かれ、頬には大きなガーゼ。シーツの上に出た細い手には点滴のチューブが伸び、その手にも包帯が巻かれていた。

「え、エルデ先輩! ひとみの容体は!? 大丈夫なんですか!? 一体誰がこんな事を!? 犯人はどうなってるんですか!?」

 ベッドの脇にいたエルデに詰め寄り、その肩を掴んで揺する。

「ちょっと、梓、落ち着きなさい!」

「これが落ち着いてられますか!? ひとみが、ひとみが……!」

「失礼いたします」

 ネイの冷静な声と同時に、梓は額に衝撃を受けてのけぞった。視界が真っ黒に染まる。

「進上様。少しは冷静になっていただけましたでしょうか?」

 梓は、うずくまって額を押さえながら、小さく頷いた。あまりの苦痛に声が出せない。

「助かったわ、ネイ」

「いえ」

 冷静なやりとりが頭上で行われ、次いでため息が降ってきた。

「気持ちは分かるけれども、少し動揺し過ぎよ。よく見なさい。呼吸も心電図も安定している。意識こそ戻っていないけれど、命に別状はないわ。頭に怪我をしているから、しばらくは演算に不自由するかもしれないけれど、日常生活に深刻に響くほどではないようよ」

 梓は、痛みの引いてきた額をさすりながら、ゆっくりと立ち上がる。

 エルデの言葉通り、ひとみの胸は規則正しく上下しているし、病室に響く医療機器の音も示す数値も正常の範囲内だ。

 状況を飲み込み、梓は思わず少しだけよろけてしまった。

「良かった……」

「……そうも言ってはいられないのだがな」

 スーツを着こなした年かさの男性が、眉間にしわを刻んで呟いた。

「館長……?」

 意外な人物がいた事に、梓は目を瞬かせる。

 この男性は、魔人館の総責任者だ。普段は市長と行動を共にすることが多く、梓のような下っ端が、直接言葉を交わす機会はほとんど無い。

 課長がおらず、館長がこの場にいるという妙な状況に、梓の胸がざわめく。

「樫見屋の命に別状が無かった事は、確かに喜ばしい事だが……問題は、その原因だ」

「そ、そうです! 一体何があったんですか!?」

「倉庫街の警戒任務中、樫見屋は発光器に工作をしている不審な人物を発見、これを追跡。その際、戦闘となり負傷。エルデへの直通通信で現状を報告し、救助されてここへ搬入された」

「え? ちょ、何を……え?」

「組織的な犯行、場合によっては内通の可能性もあり。月也に確認してもらったら、確かに発光器には工作の跡が見られたそうよ」

 混乱していた頭の中で、徐々に情報が整理されていく。梓は自分の体温が下がっていくような錯覚に陥った。

「それって……」

「演算テロね」

 梓が口にできなかった言葉を、エルデはあっさりと言い放った。

「お、落ち着いてる場合じゃないじゃないですか!? まだ犯人は逃走中って事ですよね!? 早く捕まえないと……わたし達だってこんなのんびりしている場合じゃ!?」

 梓は慌ててきびすを返そうとするが、次の瞬間、館長が信じられない事を口にした。

「いや、犯人はもう捕まっている」

 梓は一瞬理解が追いつかず、固まった。意味を理解してもうまく納得できず、眉を寄せる。

「樫見屋とエルデの動きが的確だったお陰で、すぐに特定できた。もっとも、見つかったというのに、次の標的を探して街中をうろつく愚か者だったというのもあるが」

「そ、そうですか……」

 勢いのある感情を持っていく場所を失い、梓はモヤモヤとしながらも体から力を抜いた。

 医療機器の電子音だけが無機質に響く、居心地の悪い沈黙。

 エルデがそれを破って梓の名を呼んだ。

「ちょっといらっしゃい」

 固い声でそう言ったエルデは、返事も聞かずネイの押す車いすで病室を後にした。

 怪訝に思いながらも、梓は病室を出る。館長が眉間にしわを寄せた渋い顔で送り出してくるのが、なんだかやけに気になった。

 人気のない廊下を進むネイの背中越しに重苦しい雰囲気を感じ、梓は三歩ほど離れて歩く。

 やがて、イスの置いてある休憩所のような場所にたどり着くと、ネイが足を止めた。

 車いすがターンし、梓は、厳しい表情を浮かべたエルデと真正面から向き合う。

「あ、あの、どうか……したんですか?」

 喉がひりついて、うまく声が出なかった。嫌な予感が、じわりと肩にのしかかってくる。

「あなたのまっすぐな感情には……私は、好感を持っているわ」

 エルデは、ゆっくりと言い含めるように、そう告げた。だが、表情は相変わらず厳しい。

「それがあなたのいい所だし、それを悪いと言うつもりもない」

 そう言って目を閉じたエルデは……まるで何かを断ち切るように間を取り、ゆっくりと目を開く。鋭く射貫くような瞳の輝きに、梓は、綺麗だな、と頭の片隅で思った。

 だが、それもエルデの次の言葉がもたらした衝撃に、すべて砕け散った。

「ひとみを窮地に追いやったのは、あなたよ、梓」

「………………え?」

 梓は、自分の口が、小さくそう漏らすのを、まるで他人事のように聞いていた。

「まっすぐすぎるあなたの感情は、時として、短絡的な言動を引き起こす。考える前に体が動くと言えば聞こえがいいけれど、度が過ぎれば、それは思考停止と視野狭窄よ。そして、まっすぐすぎるあなたの感情は、他人にも強く影響する」

「ちょ、ちょ、ちょっと待って下さい……!?」

 梓は、内側でふくれあがる熱に突き動かされて、エルデの言葉を遮った。

「それは、ひとみの怪我が……わたしの、せいだって……言って、るんです、か?」

 ええ、とエルデは頷いた。一瞬、梓は目の前が白くなるような感覚を覚え……次いで、かぁっ、と頭に血が上っていくのを、確かに感じた。

「冗談は止めて下さいッ!! 何なんですか、それ!?」

「冗談なんかじゃないわ」

 だが、エルデは冷徹に言い切った。

 梓は、その冷気に体の熱が奪われたような気がしたが、すぐに怒りが再燃する。その熱を視線に乗せて強く睨みつけるが、エルデの表情はまったく変わらない。

「普段のひとみなら、単独での敵の捕縛を考えたりはしなかった。ひとみは、まだ自分が未熟である事を十分に理解していた。状況に応じて安全と思われる相手に連絡を取って、連携したはずよ。けれど、今回は違った。梓、あなたとの演助契約があった」

「なんでそれが原因なんですか!? いくら何でも乱暴です! 第一、ひとみをここまで痛めつける相手なんですよ? 何とか逃げ切れたのだって、演助契約で演度が上がっていたからで」

「逆よ」

 梓の言葉を、エルデは端的に遮った。

「ひとみの怪我は、硬い投擲物による頭部骨折と裂傷、内臓の強打、手足の裂傷、多出血による体温低下と意識混濁……。こんな直接的な打撃を受ける距離に、普段のひとみが不用意に近づくはずがない。仮に相手に気づかれたとしても、相手の死角をついて逃げる……それができる実力と判断力が、普段のひとみにはあった。それを抑え込んだのは、あなたよ、梓」

「それは……そんな事は……」

「無い? 無いならいいわ。私のひとみに対する評価が間違っていたという事だから。でも、ベッドに横たわるひとみを見た後で、本当に言い切れる?」

 冷たく鋭い瞳が、言葉が、梓を刃のように貫く。

 エルデは、こう言っているのだ。

 ――自分の正しさを証明するために、演助契約をしたのではないか、と。

(そんな事は……そんな事は、ない……)

 拳を握り、必死に顔を上げようとする。

 だが、その時になって初めて、梓は自分がうつむいている事に気づいた。自分の中にある疑念が、ちくりと刺さる。まるでそれが毒となったように、顔を上げられなくなってしまった。

「梓。自分で引き起こした事を受け止める事すらできないなら……自分で決めた姿勢を貫く意志すら持てないようなら、あなたは本当の意味で、誰も笑顔にする事なんてできない。その思いで振るう演算を持つべきじゃない」

 すぅ、と何かが体から抜けていったような気がした。顔を上げようとする気力も無くなり、ただ嵐が過ぎ去るのを待つ事しかできない。

 だが、ゆっくりと視線が持ち上がっていた。反射的に下を向こうとするが、言うことを聞かない。嫌だと心の中で叫んでも、ゆっくりとエルデの顔が目に入ってくる。

「あ……」

 真正面から見た、エルデの冷たい視線。

 そこに浮かぶ失望の色。

 気づけば、梓は背中を向けて駆け出していた。



 街が深夜へと足を踏み入れていく頃。

 十代半ばくらいの少女が、時折、車のヘッドライトを浴びながら、リードにつながれた犬の後を静かに歩いていた。

 ヘッドフォンでお気に入りの音楽を流し、演算で宿題の解答を見つけ出していく。普段から演算光の節約を心がけているので、ちょっと気分が乗らない時に、こうして楽ができる。

「あれ……?」

 ふと、意識の端にノイズのようなものが走った。少女は思わず足を止める。

(なんだろ……?)

 ほんの一瞬の事だったが、やけに気になった。演算を使い始めてもう十年近くになるが、こんな事は初めてだ。

 一度接続を切り、再び繋げる。異常は無い。演算塔もいつも通りきちんと光っている。

「気のせいかな……」

 そう呟きつつ、少女は首を傾げている事を自覚していた。しかし、何が問題か分からない。

(うーん……一応、報告だけはしておこうかな)

 素早く文面を演算領域に起こす。ただ、これでどうなるとは思っていない。自分自身でもうまく説明できないのだ。何となくそういう気分、というだけである。

(なるべく深刻にならないように……)

 文面を調整し、後々で面倒にならないようにしておく。

 魔人館宛に送信しようとして――ふと意識の一部が闇に塗りつぶされた。

「え……!?」

 瞬間的に眠りから覚めたように、少女は辺りを見渡す。

 住宅街は、いつも通り外灯がしっかりと道を照らしていて、足下には困らない。意識の一部では、自分で起こした文面が送信を待っていた。

(何だったの……?)

 急に寒さに襲われたような感覚を覚えて、少女は自分の体を抱く。

「あ……!?」

 自分の手が、空になっている事に気づいた。慌てて辺りを見渡すが、飼い犬の姿は無い。

「ああ、もう! なんなのよ!?」

 少女は自分の中に忍び込んでくるものを振り払うように声を張り上げ、駆け出した。



 梓は、あまりの息苦しさに足を止めた。

 壁に手を突き、身体操作能力を向上させて、痛む胸に効率良く酸素を送り込もうとする。

 しかし、いつもなら即座に起動する演算が、なかなか成立しない。何度か起動を試みるが、その度にベッドで眠るひとみの姿がちらついて、演算の成立を妨げていた。

 結局、梓は肩が上下するに任せる事にした。荒い呼吸を繰り返し、何とか平静を取り戻す。

「はぁ……」

 大きく息をついて、梓は体を起こした。足がまだ少し震えていたが、ゆっくりと歩き始める。そうして、梓は自分が住宅街にいる事に気づいた。

(ああ、どうりで……)

 演算の補助もなく、病院から数キロを一気に走り抜けたのだ。体が悲鳴を上げるのも当然だった。落ち着いても、体に残るだるさはなかなか拭えない。

 寮に戻ろうかと考えて、梓は首を振る。今はエルデとの鉢合わせは避けたかった。

「これからどうしよう……」

 空を見上げて呟く。

 ――今のひとみの姿を見て、本当に言い切れる?

 エルデの言葉が、まだ胸の痛みになって残っている。

(何も……言い返せなかった……)

 自分のやった事は、誰かのためになっている――そう抱いた自信は、ベッドで眠るひとみを前にして、あっさりと砕け散った。

「人の笑顔を……守れる人に、なりなさい」

 祖父の言葉を、口に出してみる。

(ねぇ、お祖父様……人の笑顔を守るって、どういう事なの?)

 そう空に問いかけるが、いつまで待っても答えは返ってこない。その事に思いの外落胆している自分を、梓は心底から情けないと思った。

 首を支える気力もなくなり、視線が足下に落ちた直後、

「わっ!?」

「きゃっ!?」

 角から駆けてきた人影と衝突してしまった。

 梓は咄嗟に足に力を入れて転倒を免れたが、相手は後ろにひっくり返ってしまった。

「あ、大丈夫ですか!?」

 梓は慌てて駆け寄る。相手は、かなり小柄な少女だった。

「だ、大丈夫です。あたしの方こそすみません、よそ見してて……って、進上先輩?」

「え? えっと……あれ、えっと……ご、ごめん、会った事……ある子?」

「あ、い、いえ、ないです。初対面です」

 少女は、ふるふると首を横に振る。それから、「ごめんなさい」と謝ってきた。

「なんで謝るの?」

「その、やっぱり迷惑ですよね、知らない人に一方的に知られてて、声かけられたりしたら」

「あー……それはね、むしろわたしの方が積極的に声かけてるから。よくある事だし、気にしないでいいよ。それより、大丈夫だった?」

 梓は、少女の手をすっと引いた。地面を踏んでいる自分の足を見て、少女が目を丸くする。

「す、すごい。あたし何もしてないのに……これも演算ですか? あ、でも、演算光が……」

「うん。これは単に力の使い方。で、怪我とか無い?」

「あ、はい、それは大丈夫です」

「そ。良かった。それで、なんだか急いでたみたいだけど、どうかしたの?」

 梓が問うと、少女は、「あっ!」と途端に焦ったような表情になる。

「じ、実は、ウチの犬がいなくなっちゃって! うっかりリード放しちゃって……探してるんですけど、どこに行ったのか……」

「そうなの? それなら――」

 わたしも手伝うよ――そう言いかけた瞬間、ベッドで眠るひとみの姿がよぎった。

「進上先輩……?」

 気遣わしげな少女の視線に、梓は、「何でもない」と首を振る。

「支援要請を出した方がいいと思う。こんな時間でも、外にいる人はいるだろうから。一緒に探してあげられればいいんだけど、ちょっとこれから外せない用事があって……ごめん」

「あ、い、いえ、そんな……進上先輩が都市のために働いているのは知ってますし。あたしも、そろそろ出さないとダメかなーって思ってたところなんですよ」

 だから全然気にしないでください、と言う少女の笑みに、梓の胸がちくりと痛む。

 梓は少女に気をつけるようにと形を取り繕って――逃げるようにその場を後にした。

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