中学校回想②
「分かればいいのよ。それで、その男の子がどうしたの?」
松本先生は、先ほどとは変わって明るい声で僕たちに聞いてくる。僕はまだ少し、ビビりながら答える。
「バレーボールのボールがおでこに当たってしまって……」
「そうなの。少しこっちに来て見せて見てくれる?」
先生は窓際から椅子を一つもってきて、その椅子を叩いている。この椅子に座れと言うことだろう。僕は促されるまま、その椅子に座っておでこを見せる。
「うーん。ちょっとたんこぶ出来てるね。とりあえず冷やしておこうか」
僕の手からじわっと汗が出てきた。松本先生との距離は20cm程度しかない。松本先生は近くで見ても、美人だった。さらにはいい匂いがする。思春期の男子中学生には少し刺激が強い。
「は、はい。お願いします」
松本先生はすぐに氷嚢を取りに立ち上がり、僕から離れていった。僕は安心して、呼吸を思い出したように「はあ」と一つため息を吐く。
「で、どうして千秋がまだ居るのよ。もう戻っていいわよ」
松本先生は冷蔵庫から氷を取り出しながら、僕の後ろに居る千秋に指摘する。僕が千秋の方に振り向くと、彼女はどこか怒ったような表情をしていた。
「ゆかりちゃ、中野先生、私付き添いだよ? 別に居てもいいでしょ。そんなことよりさー、陽介にボールぶつけた奴がさ、坂本大雅って奴なんだけど、そいつ謝りもしないで陽介に『貧弱』とか言ったの。あり得なくない?」
「そうねえ、謝れない男はクズよね」
僕はこの時、胸の中に溜まっていたものが解消されるのを感じた。できることならもっと言って欲しかった。ただ、同時に悔しくもなった。千秋は本来、曲がったことが嫌いでこんなところで愚痴を吐くようなタイプではない。
体育館を出る時、僕は何も言えなかった。千秋は何も言わなかった。きっと僕に気を使ったのだ。僕の面子を保つために何も言わなかったのだ。僕が弱いせいで、彼女の気持ちを曲げさせてしまった。
「大体、最近坂本調子に乗ってるんだよ。ちょっと頭が良くて、バレーボールが出来て、顔がいいからって何しても許されるわけじゃないのに」
「……」
松本先生は何も言わずに氷嚢を持ってくる。
僕は右手でその氷嚢を受け取り、おでこに乗せる。僕は怒る千秋に何も言えなかった。千秋が僕に気を使っていることを理解しながら、自分の事がかわいくて何も言えない。そんな卑怯で浅ましい人間が僕だった。
「バレーボールじゃなくて陸上だったら、陽介だって坂本なんかに負けないのに」
当時、僕は陸上部に所属していた。千秋の言う通り、陸上ではそれなりの結果と自信があった。しかし、この時の僕は中二の春に大きな怪我をし、思うように走れなくなっていた。それに部活以外でも坂本には輝ける場所が沢山ある。僕の方が坂本よりもスクールカーストが低いことは、誰が見ても明らかだった。
「僕は大丈夫だよ。坂本の事も何とも思ってないから」
僕は出来る限りの笑顔を顔に張り付けて、千秋に訴えた。これ以上、惨めになりたくなかった。千秋の優しさが僕の卑しい部分を浮き出してしまう。僕の弱さを浮き彫りにしてしまう。しかし、これで胸の中に溜まっている物が解けることはない。それが残念に感じた僕が居た事は見なかったことにした。
「……そっか、わかった」
千秋はそのまま、保健室を出て行った。千秋の背中は寂しそうだった。バタンと言う音と共に、ドアが閉まり、千秋の背中は見えなくなる。もう二度と会えないような気がした。
「あの子は意外と気難しいのよね」
松本先生はドアが閉まったことを確認して立ち上がり、相談するような口調で僕に言う。僕は氷嚢をおでこに乗せたまま松本先生の話に耳を傾ける。
「千秋はいつもパワフルで、大胆に自分の言いたいことを言うでしょう? でも彼女は人一倍繊細な子どもなのよ」
先生はコンロに火をつけ、お湯を沸かし始めた。
「千秋は中学生なのよ。多感な時期だし、ご両親には言えないことだってあると思う。だから、君にはちゃんと千秋を見ておいて欲しい。人の痛みがわかるような君なら彼女が間違えそうになった時、助けてくれるでしょ?」
僕の額に乗る氷嚢が頭を冷やしてくれるような気がした。
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