令和能楽五番綴本

夔之宮 師走

初番目 相生の松(謡曲『高砂』より)

 妻の認知症が大きく進んだのは昨年の冬に買い物の途中で転倒し足を骨折してからであった。


 もともと耳が遠くなってしまっていたことが悪い影響を与えた。ベッドに寝たきりとなったことで、坂道を転げ落ちるように様子が変わっていくのを把握しきれていなかった。今でも私はその時のことを強く悔やんでいる。


 最近では会話も成り立ちにくくなり、妻は窓の外を眺めてぼーっとしていることが増えている。

 私は妻に寄り添い、静かに読書をすることが増えた。


 窓を開けた時の空気。部屋に飾った花。茶や珈琲の香りなどには反応する為、部屋の様子、そして茶や珈琲の銘柄を気にするようになった。僅かでも妻の表情が変わるのは嬉しい。


 朝起きて「おはよう」と声をかける。返事をしてくれることもあれば、にこにこと笑っているだけのこともある。全く表情が動かないこともあれば、心底怯えた様子で「貴方は誰」と聞かれることもある。おおよその反応には慣れた。何事も回数を重ねれば受け入れることは容易い。


 今のところ食事や排せつ、入浴などには介助を必要としていないが、いつどうなるかは全く分からない。

 日々、妻の中から何かがゆっくりと零れ落ちていくのがわかるが、それをどうにかすることはできない。ようやくそれなりに受け入れることができるようになってきたが、それでも抗いたい。それなのに、何をやっても引き戻すことができない。立ち止まらせることはできても、こちらに向かって歩かせることができない。

 私は日々、自分の無力を痛感する。そんな泣き言を聞いてくれていた妻は、ゆっくりと私を認識しなくなってきている。


 フルカラーの風景が日々白黒に近づいているように感じる。私の鼻腔に届く香りは弱々しくなり、舌を転がる味はどんどん砂に近づいている。妻に触れることはできる。だが、私の思ったような反応は返ってこない。

 だが、私は思い返す。私の想像通りに応えてくれる妻。そんな者はそもそもいなかっただろう。些細な瞬間に私の想像を少しだけ超える言葉、動き。

 それが私の妻だ。

 妻だった。


 私の期待など簡単に超えてくれ。バカバカしいと言い放ってくれないか。何を言っているのと笑い飛ばしてくれないか。私にどうして欲しいのと言ってくれ。私は大丈夫と力強く言ってほしい。お願いだ。


 私は幸か不幸か大病を患うこともなく、大けがをすることも無かった。親戚や友人たちの様子を見ていれば、それが随分と幸運だったことに気が付く。

 妻の身の回りのことは私一人で行える。今のところは子供たちには迷惑をかけずに生活できているのが私の微かな自負と矜持だ。


 先日、相変わらず窓の外を眺めていた妻が、唐突に和歌をそらんじた。


 「われ見ても 久しくなりぬ住吉の 岸の姫松いく代経ぬらん」


 古今集の一首である。それを聞いたとき、私の記憶は急速に学生時代へと遡った。


 熊本県の生まれである私は大学に通うため東京で一人暮らしを始めた。身近に同じ地方出身者もおらず、高校が男子校だった所為もあって隣の席に女性がいるだけでも大変に緊張した。 

 ちょっとした興味本位で和歌に関する一般教養の授業を取ったのだが、古典がそんなに得意でない上に、周囲は女性ばかりの授業だった。

 しばらくは緊張するだけであったが、好奇心は抑えられず、気がつけば性別などを気にせず他人と話せるようになった。

 この授業で知り合ったのが妻である。


 私も妻も学生生活でそれなりに悩み、学生生活をそれなりに謳歌して就職した。その後、紆余曲折というほどのドラマを経験することなく、順当に付き合いを重ねて無事結婚し、気がつけば50年もの間を一緒に歩んでいる。


 そして今日。妻の口から零れ出た和歌をきっかけに大阪の住吉大社に来ている。妻と参拝するのは、実に40年ぶりだろうか。


 妻の車椅子を押しながら境内を巡っていると、若いカップルから写真撮影のお願いをされた。

 二人で初めての旅行とのことである。初々しい二人に向けてシャッターを切ると、 妻との参拝の折、自分達も老夫婦に写真撮影をお願いしたことを思い出した。この場所で。


「そうだ。相生の松って知ってる?」

 妻は私にそう聞いた。首を振る私。優しい笑顔を浮かべながら老夫婦が言った。

「大丈夫。知らなくても、いずれ成るものだよ」


 車椅子の妻を見下ろすと、彼女はカップルを眺めて微笑んでいた。ふと、本殿の方より風が一陣。


 空を見上げれば青空。そして梅の香。


 もう春か。

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