第21話 沈黙の王国 ― 北の高原に旗を
北の高原は、風の器だった。
雪の名残を削っていく乾いた風が、広い凹地を鳴らし、音の底に低い鼓動をつくる。草はまだ色を決めきれず、土は春の前で立ち尽くしている。
亡命団の先頭が尾根を越えたとき、誰かが小さく息を呑んだ。凹地の中央に、古い祈祷塔の残骸がある。石は膝の高さで折られ、円形基壇だけが残り、苔の輪が薄く刻まれていた。
「ここだ」
バーロが荷車を止め、片足で地面を踏んで沈みを確かめた。「土は悪くねぇ。風は強い。……背を預けられる崖がある。湧水は?」
エルノアが手帳をめくる。「南東の沢筋に湧き口。距離は五百歩、落差あり」
セレナは医療箱を下ろし、「まず仮医務。衛生動線を分ける」
レオナは凹地の縁に上がって視界をとり、指で風の向きをなぞった。
ガイルとオルフェンは無言で縄を張り、荷の山を「食」「医」「資材」「寝床」に四分する。
ティアは祈祷塔の輪にそっと手を置いた。「……あたたかい」
エリシアが一歩、前に出た。青い外套が風に鳴り、髪を帯で束ね直す。
「ここを、新しい“都”にする」
バーロが鼻を鳴らす。「祈りで腹は膨れねぇぞ、王女さま」
エリシアは頷いた。「祈りは、空腹の上に落ちない。けれど、空腹の手を放さない“火”になる。――燃やすものは、あなたたちの技だ」
アレンは祈祷輪の縁に指を浮かせる。土と石の“通り”を確かめ、短く言った。
「祈りは火種。燃料は技術。風は人だ。……始めよう」
──
第一節 再建会議・初日
その日の夕刻、折れた祈祷塔の基壇が臨時会議卓になった。
集まったのは、亡命団の中核と、東部七家の使者たちだ。
• 代表:アレン・クロード
• 調停:エリシア・アズーラ
• 治安:支部長バーロ
• 医療:セレナ
• 行政書記:エルノア
• 斥候・弓隊:レオナ
• 野戦・工兵:ガイル/オルフェン
• 祈り・民生:ティア
• 連絡・外務:フェリア
• 東部七家:
リュミエール侯フェリクス/オルデン公ヴァルター/ハーベル伯ミリア/セリオン辺境伯リオネル/アルティナ侯ローレンス/ノルディア子エステル/グレイフォード男ガレス
エルノアが簡素な目録を掲げる。「不足:食料・塩・布・釘・板材・家畜・薬草。防衛:見張り台・火点・外周柵・水路。制度:避難者台帳・配給票・簡易司法」
ローレンス・アルティナ侯が指を一本立てる。「信用札を刷る。物々交換は流れが詰まる。商隊と合意済み、最初は一割上乗せの返札で回す」
ガレス・グレイフォード男爵が頷く。「釘と金具は俺の工房で叩く。炭が足りねぇ、林地の伐り方を決めよう」
ハーベル伯ミリアは袖をまくる。「畝を刻むのは今じゃない。まず畑の骨組み。風除け柵と土留め」
ヴァルター・オルデン公は地図に拳。「武は引く。外周の“動く壁”に徹する。攻めは要らぬ」
一方、ノルディア子爵エステルが静かに言う。
「“祈りの塔”を建て直したいのです。交互祈りで心が立つ。心が立てば、手が動く」
工と商の側からため息。
バーロが乱暴に笑う。「塔より炊き出しだ。塔は腹が満ちてからでも立つ」
エステルは首を振る。「逆です。腹が満ちる前に折れる心を、塔が支える」
視線がアレンへ集まる。
彼は少しだけ考えて、短く言った。
「両方、要る。だが順序は――同時だ」
会議卓に小さなざわめきが走った。
フェリクス・リュミエール侯が口角を上げる。「“矛盾を並べる”と書いて王道、と読めるなら良い」
エリシアが小さく笑い、「書体を揃えましょう」と座をなだめた。
その夜、方針が決まる。
• 外周:オルデン公+ギルド(動く壁)
• 物資:アルティナ侯(信用札・商隊線)
• 工:グレイフォード男(釘・金具・簡易炉)
• 民生:ハーベル伯(粥・寝床・子守り)
• 祈り:ノルディア子(交互祈り小堂)
• 情報線:セリオン辺境伯(風伝令)
• 司書館:リュミエール侯(学と記録)
• 総合調整:エリシア
• 最終の“沈黙”:アレン
──
第二節 動く街
翌朝。風が早くなる前に、凹地は動きだした。
ガイルとオルフェンが削土板で土を押し、輪郭を四角に変える。子どもたちが石を拾い、年寄りが縄を綯い、若い女が鍋を預かる。
ハーベル隊の粥鍋が最初の湯気を立て、ティアが手の合図だけで行列を整える。
レオナは斜面に点を打ち、見張り台の位置を決め、若い弓手に「息と視線の間」を教える。
グレイフォード工房は朝から火花が雨のように散った。
ガレスが舌を巻く。「……こいつは、いい静けさだ」
アレンは頷いただけだった。
ノルディア子爵は祈祷塔跡の脇に、交互祈り小堂を建て始めた。壁は半分、屋根は薄い帆布。
「声の祈り」「無言祈唱」を時刻で交互に回す。
セレナがそこで**“心の救護”**を担当し、言えない悲鳴を抱えた母親たちの手を両手で包んだ。
「言葉はあとでいいよ」
その一言で、肩が落ちて、呼吸が戻る。
昼、アルティナの商隊が小さな旗を掲げて入ってきた。
ローレンスが笑う。「価値を流せば、人は残る。残れば、店が立つ」
バーロは「税はうまく取れ」と笑い返し、エリシアはその間に配給票を置く。
エルノアは台帳に線を引き、名前のない者には仮名を与えた。
「名があると、戻る場所ができる」
──
第三節 “祈り”と“技術”、そして禁
日が傾くころ、アレンは祈祷輪の中央に立った。
人が手を止め、風の鳴りだけが残る。エリシアが一歩引き、見守る者は距離をとった。
アレンは掌を下ろしたまま、指先の内側で形を組む。
祈りは声ではない。方向だ。
技術は手ではない。骨組みだ。
その二つを、ひとつの器に流し込む。
「……創る」
地の薄い水分が集まり、土の粒が列を成す。
粘土の脈が立ち上がり、乾きすぎない速度で硬化し、柱が生える。
柱は一本ではない。輪郭に沿って十二本。
梁が渡り、屋根の形が沈黙のうちに載った。
小さな共同小屋が、三つ、続けて生まれる。
風が通り、小屋は軋まず、音は柔らかく返る。
誰かが泣き、誰かが笑い、バーロが口笛を飲み込んだ。
「禁じゃないのか」
リュミエール侯が目を細める。
アレンは首を振る。「禁は、奪うための言葉だ。これは返すために使う」
ノルディア子爵が膝に手を置く。「祈りの触媒としての形……なるほど」
セレナが小屋の壁に掌を当てる。
「温度が優しい。眠れる壁です」
エリシアはアレンを見た。
「これで、ようやく“祈りが落ちる場所”ができた」
アレンは肩の力を抜き、短く息を吐いた。
創祈は、魔力というより心力を削る。
消耗の色を見たセレナが、無言で暖かい湯を渡した。
──
第四節 小さな亀裂
夜。焚き火の輪が三つに増え、人の輪も三つに分かれた。
一つは工と商の輪、一つは祈りと民生の輪、もう一つは若い連中の輪。
工の輪で、ガレスが言う。「創祈があるなら、俺らの仕事は半分で足りる。だが、その半分に腕が要る」
ローレンスが笑う。「売るのは俺の半分だ」
リュミエール侯は火に棒をかざす。「創祈は尺度を決める。建てられる量と、心が耐えられる量」
祈りの輪で、エステルが呟く。「塔を高くしたい。見上げる場所は、人の心をまとめる」
ティアが首を振る。「見上げる首は、疲れるよ」
セレナが間に座る。「高い塔と低い小屋、交互に。首の角度に、優しさを」
若い輪では、レオナが弓の紐をほどき、少年たちに風読みを教える。
「矢は声より速くて、沈黙より遅い。だから、手前で息を止める」
少年が笑って真似をする。
ガイルがその後ろで刀身を磨き、「剣は嘘をつかない。嘘をつくのは人だ」とぼそり。
オルフェンは盾紐を締め直し、「守る」とだけ言った。
輪が分かれ、火が増えたとき、エルノアは手帳に短い行を足した。
“私たちは、もう“同じ”ではない。だから、同じ場所にいる必要がある。”
──
第五節 旗の朝
翌朝。
セリオン辺境伯の伝令が夜明けとともに戻る。「西の国境から外商隊。援助の名で“監督官”を送りたいと」
ローレンスが呆れ、「援助に値札が付くのは世の常だ」
バーロが肩を竦める。「こっちの値札は“うるさい命令はお断り”だ」
人が集まる前に、エリシアは丘に登った。
手に掲げたのは、淡い二色の布。上が白、下が青。
白は声、青は沈黙。境界の縫い目は見えない縫いで繋いである。
縫い目が見えないことが、いちばん伝わる。
エリシアは布を竿にかけ、風に渡した。布が一度だけ鳴る。
アレンが隣に立つ。
「ここに置こう」
アレンは地に印を置く。**
集まった人々が輪を作り、声を出す者も出さぬ者も、同じ高さに立つ。
エリシアが短く言う。
「私は王女としてではなく、人としてここに立ちます。――二つの祈りを、同じ椅子に座らせるために」
アレンが続ける。
「ここに沈黙の王国を始める。
祈りで魂をつなぎ、技術で命を守る。
声と沈黙、剣と筆、血と知を、同じ席に並べる。
違いは、敵ではない。差は、手順だ。
殴る者だけが、両方の敵だ」
誰も歓声を上げない。
ただ、胸に手を置く者と、手を組む者と、目を閉じる者が、同じ空気を吸った。
風が旗を押し、二色の境目が空の青に溶ける。
その時、遠見台からレオナの合図。二矢が空に沈む。
「来る」
セリオンの伝令が走る。「西より外商隊。監督官旗」
バーロがにやり。「最初の外交だ。うるさくしない見本を見せてもらおう」
アレンは頷き、丘の旗を一度だけ見上げた。
声に頼らず、沈黙に溺れず、置いて進む。
それが、この国の最初の決まりだ。
──
第六節 初の交渉
正午前。
外商隊は礼儀正しくも音が大きかった。旗手が槍で地を叩くたび、音が高原に跳ねる。
監督官は銀糸の肩掛けを整え、「支援と指導を」から話を始めた。
エリシアは笑って、指導の「指」を軽く折る。「支援は歓迎します。指導は、不要です」
監督官の眉が動く。「秩序、法、徴税、軍の指揮――」
バーロが被せる。「秩序は暮らし、法は貼り紙、税は鍋の分け方、軍は壁だ」
監督官は言葉を飲み込む。
ローレンスが紙を差し出す。「交換条件は明瞭に。物資・金・人の三票で決する。あなたが一票持てば、発言は重くなる」
監督官は周りを見渡し、祈り小堂の列、工房の火、共同小屋の壁、子どもの笑い、旗の二色を見て、小さく頷いた。
「では、まず医薬を」
セレナが前に出て、品目を読み上げる。
「声で頼み、沈黙で働く」
監督官が苦笑いを浮かべたのを、レオナは見逃さなかった。
──
第七節 夜の相談
夜、風が弱まり、旗の布が空に吸い込まれるように静まった。
アレンは祈祷輪の縁に腰を下ろし、遠い星を見た。
セレナが湯を持って隣に座る。
「祈りと技術だけで、立て直せると思う?」
アレンは首を横に振る。「祈りと技術は道具だ。立て直すのは、人の手順だ」
「手順」
「順番を間違えると、いいものも刃になる」
セレナは湯を両手で包み、「じゃあ、あなたはその順番を置いていく」
「うん。俺は、置くことしかできない」
少し離れた焚き火で、エリシアが地図に細い赤線を引いていた。
フェリアが覗く。「それ、何の線?」
「学校。読み書きの場所と、祈りの場所と、工房の場所を交互に並べる」
フェリアが笑う。「人が迷うよ」
エリシアも笑った。「迷って、覚える」
ガイルは剣を帯から外し、オルフェンは盾を枕にして横になり、ティアは子どもの寝息を数え、エルノアは手帳を閉じる。
“今日の厚みは、明日の土台になる”。
彼女はそう書いて、火の粉を指で払った。
──
第八節 小さな事件
三日目の朝。
工房の銅釜が一つ、盗まれた。
グレイフォード男爵が怒鳴りかけ、すぐに口を噤む。怒鳴るのは簡単だ。簡単は、癖になる。
エリシアは板を一枚持ってきて、祈り小堂の前に置いた。
『盗った者へ:怒鳴りません。返すか、働いて返して』
たった一行。
夕刻、その釜は小屋の影に戻っていた。縁に新しい鉸が打たれて。
板の裏に、乱暴な字が残っていた。
『怒られないほうが、つらい』
バーロが鼻を鳴らす。「よし、合格だ」
──
第九節 小さな軍
一週が過ぎるころ、外周の見張り台は七つに増え、隊列が生まれた。
レオナが「走る祈り」と呼ぶ訓練。
掛け声は出さない。足音で合わせる。
ガイルが先頭、オルフェンが最後尾。合図は石と指。
バーロが見て唸る。「うるさくない軍は、いい軍だ」
オルデン公が言う。「攻めの稽古もいる」
アレンは首を振る。「まだ早い。奪い返すより、返せる場所を増やす」
ヴァルターは短く笑った。「武は引き際が力だ」
──
第十節 建国記
リュミエール侯が司書館の棚に**『建国記』**の板を差し込んだ。
第一行は、エルノアの手で記された。
『沈黙は敗北ではなかった。
立って黙ることは、選ぶことだった。
だから私たちは立ち、まず暮らしを置いた。』
その板は軽く、けれど棚は重かった。
棚は、これから積む言葉の重さを知っている。
──
終章 風の国名
夜半、風が一度、東から西へ向きを変えた。
旗が鳴り、空の色が薄く揺れる。
エリシアが丘の上で、布にそっと指を置く。
「国の名、決めないとね」
アレンは考えずに答える。
「サイレンティア」
エリシアは目を細める。「沈黙の国」
「声の座もある」
「ええ。二つの椅子を並べた国」
遠くで子どもが泣き、すぐに笑いに変わる。
鍛冶の火は細く、祈り小堂の灯は低い。
風が草を倒し、すぐに起こす。
アレンは旗を見上げ、短く言った。
「祈りだけでは立て直せない。技術だけでも、立て直せない。
でも、置き場があれば――人が、立て直す」
エリシアは頷く。
「置き場を守るのが、私たちの“王権”ね」
「うるさくない王権」
二人は、少しだけ笑った。
北の高原に、二色の旗が静かに立つ。
声と沈黙が、同じ風で揺れていた。
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