第13話 断絶の刻、衣のほつれ
王都の朝は、光に薄い埃が混じっていた。
昨夜のうわさが石畳に沈みきらず、足音に踏まれて舞い上がる。市場の呼び声は半拍遅く、神殿前の水盤につけられた指は、いつもより長く水に留まっていた。「沈黙の魔導師」と「勇者の失墜」、そして「クロード侯爵家」。三つの言葉が、まだ口に出される前の重みで街の肩にのしかかっていた。
宿の窓を押し開けると、風が一度だけ部屋を撫でて抜けた。
アレンは**
「使者」
階下からオーナーが息を切らせて呼ぶ。「クロード侯爵家の使いだ」
沈黙が一度、落ちた。
アレンは頷いただけで階段を下りた。黒衣の若い従者が立ち、手紙を胸に抱えている。封蝋は家の紋、だが布で半ば覆われている。従者の耳の横で汗が乾ききらずに光っていた。
「旦那様より。……“家へ戻れ。家名を守れ。王都の前で誤解を解き、兄弟の義を示せ”」
従者は定められた文言を、正しく、しかしどこか震えて読み上げた。
アレンは封を割らなかった。
「伝えてくれ。――俺の名は、俺が守る」
従者の喉が細く鳴った。膝がわずかに折れる。
リサが口を開きかけ、閉じた。セレナは視線で“今は言葉を置かないで”と告げ、カインは柄を握り直し、オルフェンが従者に水の杯を差し出した。ティアは窓を少しだけ開け、風の向きを確認した。
従者は深く頭を下げ、足音を乱さないよう気をつけて宿を去った。
扉が閉じたとき、王都のざわめきがひとつ、近くなった。
──
王宮の客間。
重ねられた絨毯は足音を吸い、壁の刺繍は海を抽象に還している。光は斜め、空気は乾いている。
アレンは招かれて、座らなかった。
やがて扉が開き、クロード侯爵と夫人が入ってきた。夫人は薄い灰の衣、侯爵は礼装の上に家の外套を羽織っている。二人とも眠れていない目をしていた。
「……アレン」
母が先に口を開いた。声はかすれて、すぐに泣きそうな音を含む。「戻っておいで。家へ。――王都は怖くて、冷たくて、でも家なら……」
父は手袋を外し、卓に置いた。「家名を守れ。お前の力で。――あの試練は……誤解だ。兄弟が対立していると思われた。お前が家の下に入ってくれれば、どれほど秩序は――」
アレンは首を横に振った。
言葉は短いほど傷が深いことを、彼は知っている。だから慎重に、最小限で切る。
「俺は、家の下に入らない」
母の目が揺れた。「どうして。……母の願いよ。あなたの無事だけを――」
「無事だけ、を?」
アレンは穏やかに重ねた。「俺は、家の“衣”の下で呼吸できなかった。王都は怖い。家は、もっと怖い。――声が“正しさ”を名乗るから」
父の手が卓に置かれたまま固まる。「家は人を守るためにある」
「守ったか?」
返事はなかった。
アレンは腰の小袋から、細い銀の輪を取り出した。家紋が刻まれた指輪。いつか、父が無言で置いたもの。幼い頃、意味を理解しないまま嵌め、やがて外したまま忘れていた。
それを、卓に置く音は驚くほど小さかった。
「俺はクロード家ではない」
母が椅子の背に片手をつき、息を飲む。父は目を閉じ、開いた。「……お前は、家を捨てるのか」
「違う。家が、先に捨てた」
沈黙。
言葉をもう少し続ければ、刃は骨に触れる。だがここで止めるほうが、深く入る。
アレンは頭を下げなかった。礼は、形だ。今は、形より重いものを置く場だ。
扉の外で衣擦れの音。
ミリア・ローゼンが、躊躇いののちに入ってきた。薄い青の外出着。眉は整っているが、目の下に影。
彼女は一歩だけ進み、止まった。
「……アレン様」
呼び方が、過去のままだった。それを彼女も理解して、言い直す。「アレン。――わたくしは、謝罪を言いに来たのではありません。言葉は軽いから。行いで示すと陛下に言われました。……それでも、一度だけ、言わせてください。『わたくしは、あなたを捨てました』」
アレンは頷きも否定もしなかった。
ミリアは続ける。「今日から神殿の施療所に行きます。物資の配り手から始めます。誰に見られなくても続けます。……そして二度と、“勝ち馬”を探す目で人を見ない。――それが今のわたくしの行いです」
彼女は深く頭を下げ、音もなく退いた。
母は扇を握りしめ、父は卓の端を指で叩いた――音は出ない。
「……絶縁だ」
父が言った。口にすることで、やっと形が持てる種類の言葉。
「クロード家は、長子アレンとの縁を切る。家名も、庇護も与えない。――それでいいのだな」
「うん」
ひどく軽い音で、重いものが床へ落ちた。
母は、泣かなかった。
泣くことが許されない場所があると、ようやく知ったように、目に水をためたまま、落とさなかった。
アレンは踵を返し、扉へ向かった。
扉が閉まる一瞬前、父の声がかすかに追いかけてきた。「……生きよ」
「必要なら」
それは愛想ではない。約束だ。
──
昼過ぎ、王都の広場。
噴水の縁に、紙札が新しく貼られた。
“クロード侯爵家、家務の一部停止・神殿奉仕へ”
“勇者ライル、再訓練”
“宮廷魔導士院、沈黙式の記録を公開”
読み上げ係の声が高く、そして途中で少し揺れた。
人々は足を止め、紙札へ寄り、顔を寄せ、囁いた。
「家は切られたのか」「いや、家が切った」「どっちでも同じだ。――“沈黙の魔導師”に捨てられた家だ」
「商いは? クロードの倉は、もう買わないほうが安全だろう」
「婚約者さまは、神殿で汁を配るんだってよ。えらい心掛けだが、もう遅え」
商人たちは肩を寄せて短い相談を交わし、帳簿を閉じた。
クロード家の紋を刻んだ木箱は一晩で“重い荷”に変わり、馬丁は馬をつなぎ直し、倉庫番は鍵を持ったまま空を見た。
奉行所の端では、記録官が「差配の見直し」と書きかけて、筆を止め、首を捻って別の言葉を探した――「連絡待ち」。
神殿の施療所の前には、人の列が少しだけ長く伸びた。
ミリア・ローゼンが籠を抱えて立ち、スープと包帯を黙って手渡した。両手を差し出す老人の手に、自分の指を添えて、震えを受け取った。
「お嬢さん」
老人が言った。「見てるよ」
ミリアは頷いた。
彼女は振り返らない。
誰が見ていなくても、今日を積む。――それだけが、失敗を少しだけ未来へ繋ぐ方法だと、ようやく知ったから。
──
夕刻、クロード侯爵邸。
門前の石段は洗われ、紋章の旗は布で巻かれ、玄関の柱は布で覆われた。
家令は来客の記録台帳の表紙を閉じ、そこへ薄い灰の紙を差し挟む。「本日より、家の印を伏せる」と書いた。
台所では古参の料理人が食器を数え、配膳の順を半分に減らし、残りを施療所へ送る段取りを決める。
女中頭は「着る物は粗衣で良い」と言い、若い侍女が「はい」と答えながら、鏡を見ないようにうつむいた。
侯爵は書斎で書類に目を通し、ため息をついて窓を開けた。
中庭の隅、枯れかけたオリーブの鉢に、午前中に夫人が水を差した跡がしみている。
夫人は静かに入ってきて、机の端に古い木箱を置いた。「あなたが若い頃に集めた旅の石。……売りましょう」
侯爵は首を横に振った。「残す。――思い出で食べる日が来たら、食べればいい」
夫人は薄く笑い、椅子に腰を下ろした。「ねえ。……わたくしたち、いつから“衣”だけ見ていたのかしら」
「王都に住み始めた日からだろう」侯爵は指で机を叩き、今度は音が出た。「家は衣だ。人を守る。でも、締めれば殺す」
夫人は瞼を伏せた。「あの子は、よく息をしていたのね」
「今日、初めて知った」
扉が控えめに叩かれる。
神殿からの使いが小箱を差し出した。「奉仕の割当、施療所の墨と紙の支給です」
夫人は両手で受け取り、深く頭を下げた。
“貰う側”の礼の角度。
それは、彼女が生涯で初めて覚える角度だった。
──
夜。
王都の酒場のいくつかでは、歌が止まった。
代わりに、話が続いた。
「勇者ライルは再訓練だと」「兄は家を捨てた」「いや、家が捨てられた」
「王女殿下がね、神殿と一緒に“協調”の手順を作るんだって。沈黙でも祈りが通るやり方」
「じゃあ詠唱は役立たずか?」「役に立つ。けど、声だけでは立たないって話さ」
別の酒場では、もっと辛辣だった。
「クロード家のワインは置かない」「看板も外せ」「店の親父は勇者贔屓だったからな、こないだまで」
「親父、うちは味で勝負する。看板の名前は客の舌には入らねえ」
言葉は刃ではない。だが、細く長く、人を切り続ける。
王都は、それをよく知っている。
そして今夜は、刃の向きが、家へ向いていた。
──
同じ頃、王宮の塔。
薄い灯が高窓で一度だけ瞬き、夜風に千切れた。
セルゲイ・ハイドリッヒは窓辺に立ち、香の匂いの浅い室内で一枚の報告を読む。
“クロード家、長子アレンと絶縁”
“家の商務、複数の契約が延期・再交渉”
“街の風、衣より行いに傾く”
彼は無表情に口角を寄せ、黒曜の欠片を指で転がした。
(秩序は揺れ、だが崩れていない。……問題は、“中心”が家から個へ移ると、王都の統治は手を変えねばならぬこと)
窓外に視線を滑らせると、遠くに王女の塔が暗い。
(殿下は“個”を正しく使う。私は“秩序”を守る。――沈黙が秩序に従わぬなら、いずれぶつかる)
机上の鈴がひとつ鳴り、影が現れる。
灰の外套。
「……王都の底は封じられたまま」
セルゲイは頷く。「上は?」
「観測は細い。名ではなく、形で“見る”試み」
「誰だ」
影は答えず、霧のように消えた。
セルゲイは灯を指でつまみ、少しだけ絞った。「明日、人で測る」
──
宿の部屋では、遅い簡素な夕食が終わりかけていた。
硬いパン、薄いスープ、二切れのチーズ。
カインが杯を半分持ち上げ、「絶縁、おめでとう」と言って、すぐに言い直す。「いや、なんだこれ。祝いか?」
リサが笑った。「式で言うなら“最適化”。要らない結び目をほどいた」
オルフェンは静かに頷く。「身軽」
ティアは窓の外を見て、「風、北。冷える」と言った。
セレナは祈りの結びを解いた。「言葉は置かないほうが良い夜もあります」
アレンは窓辺に立ち、夜気を吸って吐いた。
「……家は衣だった」
言葉が空気に出たあと、驚くほど軽く落ちた。
彼は**
祈りは、個から個へ。式は、個から個へ。
家でも、看板でもなく。
必要なだけ。
遠く、神殿の鐘が一度、間を置いて一度、また一度。
どれも短く、深い。
アレンは指先で風の骨を撫で、**
セレナが背に立ち、同じ場所を見た。
「行きますか」
「明日」
「必要なら?」
「今夜でも」
部屋の灯を落とす前、アレンは静守環を宿の外縁に軽く置き、寝台の脚に**
眠りは、戦いだ。
明日に届くための、最初の戦い。
──
翌朝、王都の壁新聞に、ひとつの小さな書き付けが増えた。
“クロード家、神殿奉仕にて街路清掃に参加”
“侯爵夫人、祈祷の筆写を担う”
“若きご令嬢、施療所にて配食”
文字は小さく、端に寄せられている。
だが、それを読む者がいた。
読むとき、人は立ち止まり、周りの音を一度だけ止める。
その一度が、街を少しずつ変えていく。
市場の角で、少年が友だちに言った。「家が偉いんじゃなくて、やることが偉いんだってさ」
友だちは肩をすくめた。「俺の母ちゃんは最初から知ってたけどな」
二人は笑い、走り去った。
足音は軽く、石畳は今日も固い。
王都は、衣のほつれ目から、ようやく人の形を見始めていた。
沈黙は、責めない。
だから、人を立たせる。
置かれるべき場所に、置かれるべきだけ。
そして衣は、少しずつ、人に合わせて縫い直される。
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