第7話 観察者、測りに来る

 夜は砦の石を薄く冷やしていた。

 見張り台の火は低く、南境の風は北から東へと浅く曲がる。

 角笛は鳴らない。代わりに靴底が石を一度だけ打った。伝令の合図だ。


「北の峠、狼煙一本。符文付き――“観察者、接近”。」


 支部長ガイウスは短く頷いた。「小隊A、五分で出る。門外集合。背嚢は軽装、補給は帰路でいい」


 アレンは手袋の縁を整え、外廊の風を一度吸った。湿りは薄い。音は軽い。――置ける。


 鎧紐を締めるオルフェン、矢羽を撫でるティア、符袋を検めるリサ、大剣を肩に回すカイン、祈りの布を肩に掛け直すセレナ。六人の準備は短かった。

 門が開くと、朝の前の灰色が一行の影を丸ごとのみこんだ。


──


 北の峠は岩肌が露出し、低い灌木が風を蓄える。

 夜明け前の風は冷たく、匂いは薄い。だからこそ、異物が浮き上がる。


 ティアが指を立てた。停止。

 弦にかけた指は弛まず、視線は谷の底へ浅く落ちる。

「……音、吸われてる」

 セレナが祈りの布に触れ、息を吸い直す。「祈りの“響き”が返ってこない」


 アレンは足裏の微振動を拾い、骨組みに並べる。

 (局所――断詠陣サイレンス・フィールド

 詠唱の共鳴を奪い、韻律の柱を空洞化する野外陣。

 祈りは削がれる。詠唱は剥がれる。

 ――そして“沈黙”だけが、素通りする。


 谷の底に、灰色の幕が薄く揺れた。

 幕の向こう側、黒い剪影が五つ。人ほどの背丈で、顔は仮面のように平たい。

 目の部分だけが光っていた。

 灰面測術士グレイ・サーベイヤ。魔族の記録係。

 その中心に、ひときわ細い影。杖も剣も持たない。微風に溶けるような輪郭。


 セレナが囁く。「あれが――観察者」

 リサが符袋を握る。「あいつ、いやな目……測ってる目だ」

 カインが歯を剥く。「測られる前に、ぶっ壊す」


 アレンは首を横にも縦にも振らず、短く言った。「順番、置く」

 六人の視線が彼に集まり、すぐに散る。動線が静かに組み上がった。


──


 最初に動いたのはオルフェンだった。

 盾を前に、足の角度を一段落として谷へ滑り込む。

 断詠陣の縁に足をかける瞬間、アレンの**無響障壁サイレンス・シールド**が薄く沿った。音も衝撃も楔の角度で外へ逃がす。

 ティアは左の岩陰に跳び、**霧壁フォグ・ヴェールに矢を紛れ込ませる。

 リサは中央後方で光標ライト・マーカー**を四隅に置き、動線の可視を確保。

 カインはカーブを描いて右へ回り込み、低い姿勢から上へ斬り上げる角度を探す。

 セレナは一歩後ろ――祈りの響きが削がれる域の“外”に身を置き、**祈標札グレイス・タグ**を両掌に一枚ずつ。

 「アレンさん、**詠路架チャント・ブリッジ**を使えますか。響きの“橋”を」

 アレンは頷く。

 彼の指が空に二本の細線を引く。祈りの波が渡れるだけの、細い梁。

 セレナはそこへ祈りを載せた。

 **癒光祈ヒール・グレイス**が削がれず、オルフェンの足に届く。

 断詠の谷で、祈りが生きる。

 灰面の目が、わずかに見開かれた。


 観察者がはじめて動いた。

 腕でもなく、杖でもなく、影に“言葉の形”を置く。

 周囲の空気が乾いた音で薄れ、地面の小石が内側からほどけた。

 記録裂レコード・スプラット――対象の“縁”を採るための微弱な断面。

 カインの足元、砂が崩れる。

 彼は踏みかえる。オルフェンの盾が遮る。

 ティアの矢が一つ、観察者へ――

 矢は、当たらない。

 空気の一部だけが“数値”に変わって、矢の角度を逸らした。


 「……角度、盗まれてる」

 ティアの声が低く落ちる。

 アレンは**遮相鏡ミラー・ヴェイル**を薄く置いた。

 姿は隠さない。角度だけを僅かにずらし、戻す路を偽装する。

 観察者の“目”に入る数値は、遅延した別の角度になる。


 灰面測術士が左右に散り、石の杭に薄い符を打ち込んだ。

 谷の底に細い線が走る。

 分解矩ディスバンド・グリッド――結界でも陣でもない、ただの“罫線”。だが、その線に触れた祈りや詠唱は、韻律の節で微妙に噛み合いを失う。


 セレナの祈りがわずかに咳き込む。

 「……やり方が悪質」

 彼女は静祈ミュート・プレイヤで心拍と呼吸をさらに落とし、詠路架の梁に祈りをすべり込ませる。

 リサは治癒符を空間に“後打ち”し、ズレを埋める。

 オルフェンは盾をわずかに寝かせ、罫線の角度に対して斜めを作る。

 カインの足は重心を落として“数え”の外で踏む。

 ティアは矢羽に爪先で触れ、羽根の偏りを自分の呼吸と揃え直す。


 観察者の首がわずかに傾く。

 測定値が狂いはじめている――と、あの目が告げた。


──


 「――前!」

 ティアの声と同時。

 岩陰から、獣の形をした影が滑り出した。

 獣魔ではない。影の中に骨の角度が見える。

 影骸犬シェイド・ハウンド。観察者の護衛機。音と影に敏い。


 カインが飛ぶ。

 大剣の刃が影を裂き――裂けない。

 影は刃の角度を測り、すべる。

 「チッ、いやらしい!」

 オルフェンの盾が低く突き上げ、影の顎を“支点”から外す。

 その瞬間にティアの矢。

 矢は羽根の偏りを敢えて狂わせてあり、観察者の“数え”を抜ける。

 影の目が一つ、沈んだ。


 アレンは観察者へ視線を置く。

 氷葬花ではない。

 ここで“消す”のは、まだ早い。

 必要なのは、測らせないこと。

 乱相糸ノイズ・スレッド

 空気の微弱な相を細い糸で撫で、計測が拾う“最小の揺れ”をノイズで埋める。

 観察者の目が、ついにわずかに細くなった。


 灰面測術士が次の手を打つ。

 彼らの仮面の額が開き、薄い符が吐き出される。

 捕式環キャプチャ・リング。式そのものの輪郭を記録し、後追いで再現する罠。

 アレンの乱相糸を一つ、嚙み千切る。

 セレナが反応した。

 聖禁咎ホーリー・バーン――低く、短く。

 捕式環の“記録”だけを焼いた。

 灰面が驚いたように仮面を上げる。目の奥が初めて生き物の色を帯びた。

 祈りが届いた。断詠の谷で。

 ――祈りと式の橋の上で。


 観察者が、笑った。

 唇は動かない。ただ、目が細く。

 次の瞬間、谷の底の空気が“段”を作った。

 多層面ステップ・プレーン

 足場が急に一段増え、体重が無意識に“次”を踏むよう誘導する測術。

 リサが転びかけ、カインが支える。

 オルフェンは膝を抜いて落ち、盾で滑って衝撃を無にする。

 ティアは階段の“段差”に矢を一本打ち、段そのものを壊す。

 セレナは祈標札を二枚、地に置いた。祈りは地の“段差”に対して垂直に流れ、段の表皮だけ剥がれる。


 アレンは観察者と目を合わせ、初めて言葉を置いた。

「――こっちを見るな」

 視線折ゲイズ・ベンド

 観察者の“見る角度”を半拍分だけ、わずかに外す。

 測る者は見る。見る者は数える。

 数えの最初の“1”がずれれば、その後はすべて歪む。


 観察者の肩が、はじめて一つだけ上下した。

 怒りか、興味か。

 彼は足元の影を持ち上げた。

 影は“形”を得て槍になり、断詠陣の中心を突き上げる。

 祈りの橋が軋む。

 セレナの喉がかすかに詰まり――それでも崩れない。

 アレンが橋の“梁”に縫結式の針を二つ打ち、角度だけを補強した。


 「今!」

 ティアの声。

 カインが笑い、走る。

 オルフェンの盾が観察者の正面へ滑り込み、半歩斜に立つ。

 リサが防護光ルーメン・ヴェイルを薄く重ね、衝撃を抜け道へ導く。

 セレナの聖光槌グレイス・ハンマーが観察者の足元の影へ“祈りの重み”を落とす。

 アレンは最後に、観察者と自分の間に遮相鏡を一枚。

 ――そして**封鎖環シール・リング**を、観察者の足首の影に合わせて置いた。


 観察者の目がわずかに大きくなる。

 動きは止まらない。けれど、影の“戻り道”だけが封じられた。

 瞬間、カインの刃がその“戻れない”影を踏み台にして高く跳ね、仮面の横を掠める。

 仮面が薄く割れ、灰色の下に黒い肌が覗く。


 観察者は退いた。

 退く動きは速い。影の“戻り道”が閉ざされても、進むための路は無限にある。

 ただ、彼は置いていった。

 黒い小珠――指先の節ほどの大きさ。

 符核珠シグナル・ビーズ。測定記録の核。


 ティアが矢で小珠を跳ねた。

 アレンが氷糸罠で拾い上げ、無響障壁の内側に封じ込める。

 灰面たちは距離を取り、観察者は霧のように薄くなって谷風へ紛れた。

 追うか――

 アレンは首を横に振った。

 必要なのは、戻ること。持ち帰ること。


 谷は静かになった。

 断詠陣の線は力を失い、霧のように消える。

 セレナが深く息を吐き、祈りの布を胸に押し当てた。

 「……橋、ありがとう」

 アレンは短く。「必要なだけ」


 カインが大剣を肩に担ぎ直す。「逃げやがったな。でも、獲れた」

 リサが目を輝かせる。「この符核珠、記録を読めれば“目的”が分かるかも!」

 オルフェンは盾の縁を指で確かめ、一言。「戻る」


──


 砦の作戦室。

 ガイウス、砦長、教会の副祭司、そして小隊A。

 机の上に置かれた符核珠は、灯火に照らされても黒のままだった。


 セレナが慎重に手をかざす。「無理に開くと記録が壊れる。……アレンさん、詠路架で“読み口”を」

 アレンは頷き、無響障壁の内側に細い橋を一本置いた。

 リサが**光紋陣ルーメン・サークル**を弱く敷き、読み取りの“下地”を作る。

 オルフェンは扉の前。ティアは窓の影で外を観る。カインは……落ち着かず、でも邪魔はしない。


 セレナが低く唱える。「記憶開示祈メモリー・グレイス

 珠の中に薄い光。

 映像ではない。数列と角度と、時間の印。

 リサが紙に落とす。「……“静かなる構造”――“沈黙のエンジン”……“王都対象、二”?」


 小さな静寂。

 ガイウスが身を乗り出す。「二?」

 リサが指で追う。「“静かなる魔導師”……“王女エリシア”」

 セレナの目の色が変わった。「王女殿下?」

 アレンの呼吸は変わらなかったが、目の奥で何かが薄く折れた。


 砦長が低く唸る。「……魔族の観察対象が“王女”。政治じゃない。構造だ」

 ガイウスは顎を撫で、硬い声で言う。「王女は、勇者行軍の祝祭で“沈黙”に目を向けた唯一の人間だった――と報告にある。魔族は“見る者”を数える。……つまり、王都の中に“構造を理解しうる目”が残っている、ということだ」


 リサが続ける。「“灰面の測術士、三日後に増援。測域拡張。王都側の“査問”と同期”」

 カインが舌打ちした。「連動してやがる……」

 オルフェンは短く。「王都から、また来る」

 ティアが窓から外を見て、「今日、風、北。三日で東」とだけ言った。


 セレナは符核珠から手を離し、アレンを見た。

 「……殿下を、守ることになるかもしれない」

 アレンは目を閉じ、開いた。

 「必要なら」


 ガイウスが机を叩く。「よし、決める。三日後に測域拡張が来る。王都の査問も多分、同調する。――俺たちは“先に動く”。測域の核を叩いて、観察者の足を止める。同時に、王都の内へ“結果”を通す線を作る。南境のやり方で、だ」


 「線?」とリサ。

 「セレナの祈りと、アレンの詠路架。王都の神殿の支線を一本借りる。……正面からぶつかるだけがやり方じゃない。向こうの“理”に、こっちの“現場”を通す。数字と救命記録で」


 セレナは大きく頷く。「やります」

 カインが歯を見せた。「叩く方は任せろ」

オルフェンは盾を軽く叩く。「守る」

 ティアは矢羽を整え、「行く」と短く言った。

 アレンは、言葉を作らなかった。ただ、置くべき形を胸の中でひとつ増やした。


──


 準備は夜に始まり、夜に終わらなかった。

 詠路架の試作――祈りの支線を砦から王都の支部教会へ通す練習。

 セレナは呼吸を落とし、韻律を削ぎ落とし、ただ“意味”だけを細く流す。

 アレンはその“意味”の骨組みに縫結式の針を打ち、節の位置を修正する。

 リサは記録を束ね、数の並びを見える形にまとめる。

 オルフェンは門の内外で交代の配置を組み、カインは砦の外に“挑発”の目印を三つ置いた。

 ティアは峠の三地点に光標を低く埋め、逃げ路でもあり追い路でもある“線”を作る。


 砦の石は夜を吸い、灯が点り、消え、また点る。

 アレンは最後に、砦の外周に**静守環クワイエット・ガード**をもう一重置いた。

 眠る者の息がそろい、夜が“眠れる”形を得る。


──


 夜の終わりに、セレナが礼拝室の前でアレンを待っていた。

 灯は低く、蝋の匂いは薄い。

 「……王女殿下の件。彼女は“見た”だけ。あなたを“測った”のではない。だから、怖れないで」

 アレンは頷かなかったが、否定もしなかった。

 セレナは小さく笑って続けた。

 「あなたの沈黙は、怖れる相手を選ばない。――だから、私も選ばない」

 「……必要なだけ」

 「ええ。必要なだけ」


 廊下の向こうで、カインの笑い声とリサの叱る声。

 オルフェンの低い「静かに」。

 ティアの足音は軽い。

 砦の夜は、眠りやすい。


 遠い闇の底で、鈴が一度、鳴った。

 風は北から東へ。

 三日後、測域が広がる。

 その前に、こちらが“置く”。


 アレンは目を閉じ、次の形――**断測楔メジャー・スパイク**の輪郭を、胸の内に静かに並べた。

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