第5話 祈りと沈黙、そして誓い
砦の朝は、石に戻る。
昨夜の雨が薄く残り、石畳には細い光が貼りついていた。鍛冶の槌音は昨日より少し低く、食堂では温い粥が湯気をあげている。
アレンは塔の外廊で風の向きを数え、北から西へと回る弱い渦を読み取った。湿りは残るが匂いは澄んでいる。――悪くない。
そこへ伝令が駆け上がってきた。靴底が石を二度打つ。
「砦長殿の命! 南西の小村リーヴからの早馬、“発熱と咳の流行”――疫病の恐れ!」
食堂から飛び出してきたリサが、手に持った木匙をそのまま腰の袋に突っ込んだ。
「……疫病?」
セレナは席を立ち、祈りの布を肩にかける。「症状の伝聞は?」
「高熱、乾いた咳、皮下に黒い斑点。幼子と老人が重いとのこと」
セレナの横顔が引き締まる。「斑点……呪的な毒素が絡んでいる可能性が高いです」
カインが肩を回しながら口笛を鳴らした。「病は斬れねぇが、斬るべき“元”がいるなら話は早え」
オルフェンは無言で盾の縁をチェックし、ティアは弓弦の張りを指で確かめた。
アレンは短く頷く。
「行く」
砦長は地図を差し出し、道程を簡潔に示した。
「半日で着く。街道から外れた畑道が泥だ。巡礼者の搬出は済んだ。……小隊A、出てくれ」
ガイウスも別室から顔を出した。「教会と連携しろ。セレナ、現地での判断は君に一任する。アレン、式は必要最小限――だが遠慮はするな」
二人は無言で頷き合い、六人は門をくぐった。
──
砦から南西へ。
畑はまだ湿っており、刈り残した麦の匂いが重く漂っていた。風は雲の切れ目をなぞり、陽は出たり隠れたりする。
隊列はティアが前衛、中央にリサ、セレナ、カイン、やや前にオルフェン、後衛にアレン。
ティアが指で短く合図を出し、歩速をわずかに上げる。
「畑の土、柔い。車輪跡、三。往復じゃない。……訪問者が少ない村」
リサが地図を折りながら応じる。「砦の補給が回ってこない立地だもんね。だから病が出ると脆い」
セレナは祈りの布に指を置いて目を閉じた。「匂いに“湿った甘さ”が混ざっている……腐敗の匂いではない。霊性が絡む――嫌な感じ」
アレンは風の分岐に目だけを置く。湿りの手前に薄い“ざらつき”。
(……術式の残り香。古い。単体では弱いが、繰り返されている)
小一時間進むと、木柵の村が見えた。
戸は閉ざされ、洗い桶が裏返しに転がっている。犬の吠え声も途絶えがちだ。
オルフェンが盾を一度だけ叩き、音の返りを確かめた。
リサが門へ駆け寄り、名乗りを上げる。「冒険者ギルド南境支部、小隊A! 疫病と聞いて来ました!」
内側で閂が外れ、痩せた村長が顔を出した。目の下に濃い影。
「……ようやく来てくれたか。中へ、頼む」
門をくぐると、空気は閉じていた。
家々の戸口には草束が吊られ、灰の鉢が置かれている。祓いの真似事だが、形ばかりだ。
村長は先に立って一番大きな家へ案内し、囲炉裏の煤けた梁の下で深く頭を下げた。
「今朝だけで三人、熱が上がった。咳は夜になると悪化する。薬は尽きた。教会へ使いも出したが――道で戻った。魔物が出ると聞いて……」
セレナは静かに頷く。「すぐ診ます。水と清潔な布を」「出す……が、洗う水も底をつきかけだ」
「私の**
彼女は祈りの布を広げ、臨時の処置場所を整えた。
奥の部屋から呻き声。
案内された床几の上には、やせた若者がうなされていた。額は焼けるように熱く、首筋と胸に黒い斑点。乾いた咳が喉を裂くようだ。
セレナは手をかざし、**
淡い光が皮膚の下をなぞり、斑点に細い紋が浮かび上がる。蛇のように歪んだ線。
「……呪的毒素。自然な病ではありません」
隣の籠では幼子が泣き、その母親は青ざめて震えていた。
セレナは女の肩にそっと触れた。「大丈夫。やれることはあります」
アレンは部屋の隅に目をやる。炭と灰の匂いに、別の匂いが薄く混ざる。
(印香……粗悪。誰かが“祓い”を売っている)
ティアが顎で外を示す。
「柵の向こう、足跡。軽い。何度も出入り」
カインが目を細める。「“薬売り”の顔した厄介って線か。後で詰める」
──
治療が始まった。
セレナは**
黒い斑点はじりじりと退き、しかし完全には消えない。毒素が深く絡み、根を移動させて逃げるのだ。
セレナの額に汗が浮いた。
「……強い。ここまで深いと、祈りだけでは追いつきません」
彼女は一瞬だけ目を閉じ、決断の息を吸う。
「アレンさん。あなたの
アレンは無言で頷き、患者の喉から鎖骨、肋骨の縁に沿って、空気へ見えない輪郭を三つ置いた。
輪郭が一瞬、光を撓ませる。
セレナの光がそこに吸い込まれるように流れ、黒い筋が霧となって溶けた。
患者の呼吸は浅い荒さから深い眠りのリズムに変わる。
母親が息を飲み、手を合わせた。「神よ……!」
セレナは首を振る。「神も、式も、ここでは同じ方向を向いています」
隣で幼子が泣き止まない。
リサが膝をつき、**
「大丈夫。苦いけど、すぐ楽になるよ」「……にがい」「えらい、強いね」
幼子は咳を二度ほどして、力が抜けたように横になった。
床のきしみ。
扉の向こうで誰かが立ちすくんでいる気配。
ティアが視線で合図し、戸口をふっと開けた。
痩せた若者が薬籠を下げて立っていた。
「し、神官さま……印香を、お届けに……」
セレナは香に鼻を近づけ、微かに眉を寄せた。
「この配合を誰に教わりました?」
「し、師匠から……狼谷の祠の行者さまに」
ティアとカインが目を合わせる。
アレンは灰の鉢に落ちた小さな“粉の角度”を見た。
(……斑。香料に混ぜられた“印”――誘引の術。病の“核”を呼び込む)
「それは祓いではない。呼ぶ香だ」
若者の顔から血の気が引いた。「え……」
リサが優しく言った。「あなたのせいじゃない。知らなかっただけ。――でも、使うのはやめて」
若者は必死に頷き、薬籠を置いて走り去った。
セレナは短く息を吐く。「狼谷の祠……」
オルフェンが盾の革紐を締め直す。「源、そこ」
ティアの弦が低く鳴る。
アレンは患者を見回し、残りの“根”に小さな**
「行くべき場所が、見えた」
──
村長に外周の見張りと水の配分、幼子の寝かせ方を手短に指示し、小隊Aは狼谷の祠へ向かった。
畑道はぬかるみ、斜面の草は雨を含んで重い。
谷は狭く、風は下から上へ低く這い上ってくる。
ティアが指を立てて停止を示し、膝をついて地の匂いを嗅いだ。
「……獣臭い。けど、獣じゃない。鉄と土。古い祠」
やがて二本の朽ちた柱が現れ、石段が苔に埋もれていた。
祠はつぶれ、屋根の梁が崩れ、中央に小さな石の台座だけが残っている。
台座の上には、灰に埋もれた**
周囲には灰の鉢と、粗雑な木札。
セレナが木札を手に取り、目を細めた。「……これは祈りではありません。祈りの形をした“呼び札”です」
アレンは台座の周りの空気を撫でた。微かな“ざらつき”が指先に引っかかる。
(誘引術式。弱いが、繰り返し焚けば“核”はここに寄る。――病の獣を呼ぶ)
リサが唇を噛む。「誰かが“儲け”に使ってる……」
カインが剣の柄を鳴らした。「そいつは後回しだ。今は核だな」
周囲の空気が、ゆっくり重くなった。
風の向きが音を変え、谷の底から湿った冷気が這い上がる。
ティアが矢羽を撫で、「来る」と一言。
オルフェンが盾を前に、セレナが杖を握り、リサが光標を四隅に置く。
アレンは台座の縁に**
灰の鉢が一つ、内側から崩れた。
黒い霧がこぼれ、匂いが喉を刺す。
霧は塊になり、毛皮と牙を得て、四つ足の獣の形へまとまっていく。
――
目は赤く濁り、体毛の間から瘴気が泡のように吹き出す。
獣は口を裂いて笑いの形を作り、祠の残骸に爪を立てた。
カインが一歩、前へ。
「斬る前に叩く。分かった」
オルフェンが低く答える。「受ける」
ティアは無言で弓を引いた。
セレナは祈りの律をわずかに早める。「――
祠の上に薄い燐光が咲き、霧の外皮が一枚剥がれる。
アレンはその隙に**
獣の動きが半拍、鈍る。
オルフェンが踏み込み、盾面で顎を打ち上げた。裂けた喉にティアの矢が吸い込まれる。
カインの一閃――硬い音。
「外皮はまだ硬ぇ! 中を斬らせろ!」
アレンは頷き、
動きが止まる半拍。
セレナが浄祓祈で瘴気の層を薄く剥ぎ、アレンが封鎖環を核の位置に合わせて“輪”へ育てる。
「――今」
短い合図。
セレナの光が核を炙り出し、アレンの輪が核を閉じ込め、カインの大剣がその輪の縁を叩き落とした。
霧は裂け、叫びは風に散った。
獣は塵になり、祠の灰が静かに沈む。
……だが、谷は静まりきらない。
風の底で、もう一つの“沸き”が笑った。
セレナの瞳が僅かに揺れる。「もう一体……いえ、“影”が残っている」
ティアがすでに方向を捉えていた。「上。右の岩棚」
岩の陰で、半透明の影が揺れる。核を失った残滓――“寄る”だけの意志。
アレンは前に出ない。
代わりに、祠の周を一周するように**
連ねた紋に、セレナの祈りが重なる。
「行く場所は、ここではない」
祈りは命令ではなく、帰路の提示。
影は一度だけ揺れ、霧にほどけた。
谷の風が変わる。重さが一段軽くなる。
カインが剣を肩に載せ、息を吐いた。「よし。斬る回数が少なくて済むのは助かるぜ」
オルフェンは短く頷き、「戻る」と一言。
アレンは祠の“呼び札”と灰の鉢を一つずつ拾い、袋に収めた。
「証拠。支部へ」「うん、追及しよう」リサが頷く。
──
村に戻ると、空気は朝より明るかった。
一番熱の高かった若者は穏やかな寝息を立て、幼子は汗をかいて眠っている。
セレナは次々と診て、浄祓祈と癒光祈、アレンの毒抜環で根を抜き、リサは治癒符と水分管理で体力を戻し、ティアは外周で見張り、オルフェンは崩れかけの柵を**
カインは井戸から水を汲み上げ、ついでに重い戸板を担いで回る。「こういう時、体力は正義だ!」
「うるさいけど役に立つ!」リサが笑い、ティアは小さく「賑やか」と呟いた。
日が傾き、村人の頬に血の色が戻るにつれて、泣き声は笑い声に変わった。
村長が震える手で杯を差し出す。「粗末な酒だが……受け取ってくれ。あんたらは神の使いだ」
セレナは首を横に振った。「神の使いではありません。人です。だから、飲みます」
彼女は少しだけ杯を口にし、温い笑みを浮かべた。
アレンも杯を受け取り、唇を湿らせる。麦の薄い甘さ。
(――求められる音が、戻る)
胸の奥の乾いたところに、また一滴、温かいものが落ちた。
焚き火のそばで、老人が言う。
「昔、この谷に鎮魔碑が立っての。折れてから、悪さが増えた。……お前さんらが来て、風が変わったよ」
アレンは返事をしない。代わりに、火の縁へ薄い**
火のはぜる音が柔らかくなり、眠りやすい夜の輪郭が広がる。
──
夜半。
セレナは村の小さな祈祷所で一人祈っていた。
アレンは戸口に立ち、しばし沈黙を守る。
祈りが結びに向かうと、彼は小さく言った。
「――助かったのは、祈りだ」
セレナは振り向き、首を振る。「助かったのは、命です。祈りでも式でもなく。……でも、あなたの沈黙が、祈りを“速く”しました」
彼女は少しだけ微笑み、真顔に戻る。
「お願いがあります。明日、村人に“式の名”を教えてください。毒抜環、冷却封……影ではなく形であることを。人は、知らないまま恐れるから」
「……分かった」
「ありがとう」
セレナは祈祷所の灯を落とし、扉を閉めた。
外の風は、朝より柔らかい。
──
翌朝、村の広場で簡単な講習が行われた。
リサが声を張り、絵札で病の経路を示す。「手を洗う。水を替える。器は陽に当てる。咳は布で隠す。――難しいことはないよ」
セレナは浄祓祈の“形だけの手順”を村の女たちへ教える。「祈りの言葉を知らなくても、要は“清潔に整える所作”です」
アレンは男たちへ“式の名”を短く教えた。
「
言葉は少ないが、目の前で子どもが笑っていることが何よりの証拠だった。
オルフェンは柵の補強の仕方を教え、「重いものは低く」「縄は乾かす」と簡潔に言う。
ティアは見張りの交代と合図の仕方を身振りで示し、カインは薪の割り方を子どもたちに見せた。
「こうやって足を開いて――せーの!」
子どもが一斉に真似をし、歓声が上がる。「カインおじちゃん、すごーい!」「お、おじちゃんはやめろ!」
空は高く、雲は薄い。
村の匂いから、湿った甘さが消えつつある。
セレナは腕を組み、広場の端からその光景を見ていた。
アレンが隣に立つ。
「……祈りは、影ではない」
「ええ。私の言葉です」
「式は、骨。言葉は……影だ。だが、影が“道しるべ”になることはある」
セレナは横顔を見て、柔らかく笑った。
「あなたの沈黙は、道しるべを消す沈黙ではなく、道の“邪魔をしない”沈黙。――それが分かりました」
そこへ、走ってくる影が三つ。
村の若者たちが肩で息をしながら報告した。
「狼谷の祠で“行者”を名乗る男を見たって……」「焚き残しの香を集めてた」「逃げた」
リサの目が鋭くなる。「証拠、残してるはず」
ティアが頷き、オルフェンが盾の革を締める。
カインがにやりと笑った。「説教より早いのは足だ。行こうぜ」
セレナが手を上げる。「待って。村の安定を見届けるのが先。今日は戻って報告、支部長の許可を得ましょう。――“行者”は逃げ続けますが、誘引の術はもう機能しません」
アレンも頷いた。「香は止めた。根は、薄い」
村長が立ち会いの書付を差し出した。
「命の恩人方。どうか受け取ってくれ。――この村は、あんたたちの名を忘れん」
リサは笑って受け取り、サインを添える。
セレナは両手を合わせ、短く祈った。
アレンは村の外周にもう一度静守環を軽く撫で、音の角を丸めてから、背を向けた。
──
砦へ戻る道は行きより軽い。
ティアが「風、変わった」とぽつりと言い、オルフェンは「匂い、良い」と短く答えた。
カインは「腹が減った」と三度言い、三度目でリサに干し果物を投げられた。
セレナは歩きながら、アレンの横顔をちらと見る。
「――私からも、誓いを。祈りは、あなたの式を否定しません。あなたも、私の祈りを遮らない。互いに“最短”で命を助ける形を選ぶ。……いいですね」
「最短で、助ける」
それは、二人にとって同じ言葉だった。
砦の門が開き、衛兵が迎える。
報告のため支部長室へ入ると、ガイウスが地図の上から顔を上げた。
「顔色で分かる。やったな」
リサが書付と証拠の呼び札、灰を差し出す。「誘引の術を確認。祠は仮清め、核は破壊」
セレナが続ける。「呪的毒素は祈りと式の併用で浄化。村は回復に向かいます」
ガイウスは満足げに頷いた。「よし。行者の件は追う。……お前ら六人、よくやった」
彼は書状に印を押し、報酬袋を六つに分け、最後に一言加えた。
「王都へ送る報せに“無詠唱が祈りと干渉せず機能する事例”を加えておく。向こうは渋い顔をするだろうが、南境の実例だ」
セレナは小さく微笑み、アレンは目だけで頷いた。
──
日暮れ前、砦の外壁の上。
空は琥珀色に薄まり、影が長く伸びる。
小隊Aは並んで風に当たった。
リサが腰の袋から薄い杯を取り出す。「やった仕事の分だけ、乾杯しよう」
カインが即座に手を上げる。「賛成!」
ティアは小さく頷き、オルフェンは腕を組んだまま「少量」と言った。
セレナは杯を両手で受け取り、祈りの言葉を一つだけ落とす。「感謝」
アレンは杯を持ち、短く言う。
「――生きて、戻る」
六つの杯が軽く触れ合い、薄い音が風に溶けた。
沈黙が降りた。
誰も喋らないが、誰の沈黙も孤独ではない。
石壁が夜の気配を吸い込み、砦の灯が点り始める。
風の底で、遠い鈴が一度だけ鳴った。
ティアが首だけ動かす。
「遠い。明日は来ない」
カインがニヤリと笑う。「なら今日は飲める」
セレナは軽く咳払い。「節度」
オルフェンが珍しく口端を上げた。「同意」
アレンは空を見た。
呪文式は世界を飾る。式は世界を組む。
祈りは、飾りではない。
影ではない“言葉”が、骨に沿って流れれば――世界は、早く整う。
(最短で、助ける)
彼は目を閉じ、砦の外周に薄い静守環を重ねた。
眠りやすい夜が、またひとつ形になる。
六つの影が、夕闇の中で一つの“隊”の形を取る。
静かなる魔導師を中心に、祈りと盾と矢と剣と声が並ぶ。
王都の伝令がこの名を知るのは、もう少し先のことだ。
だが南境では――今日、確かにその名が生まれた。
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