第29話 命の始まり
大雨で見通しの悪い夜。都内の繁華街の裏通りに、一台の車が停まっていた。
車内には二人の男。運転席には刑事の原、後部座席には柿崎。
「そんでアジトはわかったんか?」
「だいたいは」
後部座席の柿崎は、運転手に書類を渡した。
「焦るのはわかるが、でかい山が片付くまでは無理すんな。マラソンだと思え」
「あいよ」
原は封筒を差し出す。柿崎は中身の一万円札を数えた。
「まいど」
「本当にお前は変わったな、柿崎」
「……」
返事の代わりに、柿崎は予定を話す。
「来月はシャブがらみが一件入ってる。また詳細わかり次第連絡する」
「頼んだぞ。くれぐれも無理すんなよ」
柿崎は傘も差さず、車を降りて足早に去っていった。
柿崎の後ろ姿を見ながら、原は一ヶ月半前の柿崎を口説いた場面を思い出していた。
◇
――一ヶ月半前。
柿崎は密漁船の一件で、直接関係はしなかったものの、アロンたちを大和組に差し出したとして容疑がかかっていた。
警察署の取調室。
「脅されたと言ったな」
「ああ。加担しないとツレに危害が及ぶと」
「あと、手伝うと金をくれるって。合わせて五百万」
「随分羽ぶりがいいな」
「知らね。もう振られたからどうでもいい」
原宗一郎は、柿崎に興味を持った。
「詳しく話してくれよ。場合によっちゃあんたのためになる」
柿崎は詳細を原に全部話した。原は、人当たりがよく、話しやすかった。
「あんたさっき、組に入るって言ってたろ」
「ああ。多分」
「チンコロ(犯罪密告者)ならねえか?」
「なんで?」
隣の刑事の佐伯が首を振りながら原に話しかける。
「原さん、こいつには無理かと。危ないですよ」
「いやあ、まあ、無理にとは言わないけどな。さっきからあんたが話してた梨沙って子の気持ちがよくわかるからな」
柿崎が原をジロリと睨む。
「話を聞いた感じ、まだあんたに未練があるんじゃないのかな。今からでも遅くないよ。人生やり直したら? あんたなら引き返せるよ。組員を辞めるときは、こっちで安全は確保するし。どうだい」
柿崎は黙って拳を握った。
「人生やり直すって? ……そこまで落ちちゃいねえよ」
「梨沙さんとやり直したくないんか」
「やり直したいけど……。どうしたらいいのかわかんねえ」
柿崎はうなだれて下を向いた。
原は一呼吸置いてから話し始めた。
「人のために生きるんだよ」
「……今までそうしてきたよ」
「いや、梨沙さんは望んじゃあなかった」
「うん、それは言われた」
柿崎は素直に認めた。
「君は赤ん坊みたいだな。人のためにと言っても固定の人じゃない」
「みんなのため?」
「そうだな、それが近いな。そうしたら見直すんじゃないかな梨沙さんも。まあ、じっくり考えてみてよ」
原はそう言って柿崎の肩をポンと叩いた。
「みんなのためって言われてもよ……」
柿崎はうつむいた。
原は少し笑って、机の上のペンを指で転がした。
「じゃあ、こう考えろよ。お前がこれから助けるのは、
『昔のお前と同じ場所にいる奴ら』でもある。助けるのは被害者だけじゃない」
柿崎の呼吸が、ほんのわずか止まる。
柿崎は目を伏せ、胸の奥に微かな温かさが広がるのを感じた。しばらくその温もりに浸り、未来の自分をぼんやりと想像していた。
誰かのために生きる。その言葉が、静かに胸の奥で息づき始めていた。
◇
人は、誰かのために生きることでやり直せる。
――あたしたちも、その途中にいる。
――そして今。成田空港。
アロンとあたしは、日本に帰ってきた。
外に出た瞬間、湿った風と街の匂いが胸に沁みる。
(やっぱり……日本が落ち着く)
電車を乗り継ぎ、ようやく帰宅した。
母の家だった今の我が家。今はだいぶ家具も揃った。
あたしはソファに倒れ込んだ。
アロンは丁寧に荷物の整理をしている。
あたしの方を見て言う。
「疲れてる? 休んでていいよ」
うつ伏せのまま、あたしは呟く。
「時差ボケで眠い」
アロンは小さく笑った。
「移動も長かったからね」
「ねえ、アロン。あたし、夢を見たの」
「夢?」
「セシルのあたしと、アロンの夢。……血を吸われてた」
アロンの手が止まった。
「アロンは……ずっと我慢してるの?」
「ずっとではないけど」
「あたし、別にいいよ」
アロンは目を伏せ、静かに言った。
「軽く言わないで。……甘えたくなる」
「何がまずいの?」
「僕が欲求を抑えなかったら……優子は死ぬ」
その言葉に、息が止まる。
「……ごめん」
「いいよ。わかってくれたら」
「あたしは何をしたらいいんだろう」
「優子はそのままでいいよ」
アロンは優しく笑った。
「あたし……セシルに嫉妬してる」
「え?」
「アロンのこと何もかも知ってるから」
「もう過去のことだよ」
それでも、あたしは言っていた。
「あたしも吸われたい。一回でもいいの」
あたしは起き上がり、アロンを見つめた。
「……あたしもアロンの全部を受け入れたいの」
その一言で、空気が変わった。
アロンはゆっくり近づいてくる。
目が赤く光っている。
体は硬直して動けない。
アロンの髪が肩をかすめた。
首筋に、冷たい唇が触れる――痛みと恍惚が、同時に走った。
「アロン……」
涙が溢れた。
アロンの苦しみと悲しみが、血の流れに溶けてあたしの中に広がっていくようだった。
と同時に血の気が引いてくる。
アロンはあたしを突き放し、苦しそうに胸を押さえた。
そして、何かから逃げるように家の外へ飛び出して行った。
あたしの体の硬直が解けた。ソファーに両手をついて荒くなった呼吸を整えた。
「ごめん……アロン」
涙が止まらなかった。
その日は夜になってもアロンは帰ってこなかった。
◇
深夜。
ドアの開く音で、あたしは顔を上げた。
アロンが静かに戻ってきた。
「おかえり」
「ただいま」
その声に、張り詰めていた何かがほどけた。
あたしは泣きながら抱きついた。
「ごめんなさい……もう帰ってこないのかと……」
「僕はどこにも行かないよ……落ち着くまで離れてただけだ」
そう言うとあたしの涙を指で拭った。
「アロンが戻って嬉しい」
「優子も大丈夫?」
「うん」
――ようやく、いつもの二人に戻った。
明かりを消し、二人で同じ布団に入った。
アロンの腕の中で、あたしは小さく息をついた。
彼の胸の鼓動が、静かに伝わってくる。
「明日、病院行くんだよね」
「うん。アロンも一緒よね」
「もちろん」
そう言って微笑んだアロンの顔が、暗闇の中でも優しかった。
あたしはそのまま、安心したように目を閉じた。
アロンは静かに優子の髪を撫でた。
――不安定なのは、いろんなことが重なったからだ。
けれど、そのすべてが愛おしい。そう思いながら優子のおでこに軽くキスをした。
◇
都内某産婦人科。
「高木さん」
あたしは名前を呼ばれた。
尿検査をお願いされた。アロンはソワソワしている。
また名前を呼ばれた。中に入ろうとするとアロンもついてきた。
「ちょっと」
あたしは笑いながら押し戻そうとすると、看護師が声をかけた。
「あら、ご主人も入ります?」
「僕も聞きたいです」
アロン同伴で超音波検査を受けることになった。
看護師が
「仲良いわねえ」
と言ったのであたしは顔を赤らめた。
「これが心臓ですね」
先生が説明してくれる。アロンは真剣に画像を見ていた。
「妊娠週数は八週だね。つわりはどう?」
「最初は辛かったけど、最近は軽くなってきました」
「じゃあ、食べすぎないように注意だね」
「はい」
あとは体重と血圧を測って終わりだった。
「順調だって。良かったー」
あたしがほっとしていると、アロンも微笑んだ。
「毎回一緒に来るよ」
あたしは少し恥ずかしくなったが素直に感謝した。
「ありがとう」
「あとは、母子手帳貰いに行かなきゃ」
市役所にアロンもついてきてくれた。
母子手帳、こんな感じなんだ。一ページ一ページ眺めた。
これがあると母親に正式になった気分だ。
アロンも眺めて感心していた。
「世界中に広まるといいね。コレ」
「広まってきてるみたいよ」
「さて、次は僕の用事だな」
「就労ビザもらいに行く? もらえるのかな? 調べたら難しいこと書いてあったよ」
「まあ、試してみるよ」
以前訪ねた、駐日ルーマニア大使館に出かけた。
三十分ほど待つと、アロンが書類を手にして戻ってきた。
「成功?」
アロンが親指を立ててウインクした。
「やったあ」
あたしは拍手してしまいそうになる。
「今日はいいことばっかりだあ」
あたしは笑顔でアロンの手を握った。
――この日から、あたしたちの新しい日々が始まった。
「じゃあ今度は、お土産持って梨沙ママの店に行こう」
あたしがアロンの方を見ると、アロンがキスしようとするので止めた。
「ここは日本だってば」
あたしはアロンに抱きしめられて顔を赤くした。
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