第27話 観光(中編)
トイレから出ると、アロンが食い入るように見つめていた。
あたしは無言で検査薬を渡す。
「これって……?」
アロンはそれを手に取り、店員にも見せた。
店員が微笑んで言う。
「Sunt însărcinată.」
「赤ちゃんできたよ。線、出てるし」
アロンは両手であたしの脇を持ち上げ、嬉しそうに叫んだ。
「ヒャッホー!」
そのままあたしを抱き上げ、何度もキスをする。
あたしは顔が熱くなった。
店員さんもにこにこと拍手している。
アロンはルーマニア語で何か叫んだ。
そのまま抱っこされたまま、車まで連れて行かれた。
「いやあ、嬉しいよ、優子。ありがとう」
「アロンがそんなに喜ぶなら、あたしも嬉しい」
思わず笑ってしまう。
「寒いし、早くホテル行こう」
「今日はどこに泊まるの?」
「シビウの予定」
アロンの表情が少し真剣になった。
「やっぱりちゃんと説明しておくべきだった。サプライズで行き先を言わなかったの、ごめん」
――アロンは、自分の生い立ちを語り始めた。
「僕はトゥルゴヴィシュテの城で生まれた。父方の祖父ヴラド三世がワラキア公だったからね。けれど、ヴラド三世は僕を《呪いの子》としてポエナリ城に幽閉した。幽閉中、蝙蝠に変身していた時に湖でセシルと出会ったんだ」
「その後、ヴラド三世が亡くなり、僕は自由の身となった。フネドアラのコルヴィネシュティロル城に住ませてもらって、セシルと結婚し、共に暮らした」
「でも、セシルは出産で亡くなって……。その後、僕は父に城を追われ、放浪の身になった」
「ヴラド三世には憎まれたけど、母方の叔父マーチャーシュ一世には好かれてたんだ」
「母方の祖父は、守護霊になってくれたものね」
「ああ、そうだね。――明日、そのコルヴィネシュティロル城に行く予定だったけど、どうする?」
「体調がよければ行きたい」
「わかった。ゆっくり運転するよ。とりあえずシビウへ向かおう」
運転中、アロンがふと口を開いた。
「セシルの話、してもいい?」
「変な話じゃなきゃいいよ」
「変なって?」
「いやらしいこととか」
「言うわけないよ!」
「あはは、ごめん、話の腰折っちゃった。どうぞ」
「優子とセシル、やっぱり似てるなと思ってね」
「どんなところ?」
「探究心旺盛なところ。優子ってよく僕に質問するでしょ。セシルも学者を目指していたんだ。動物が好きでね。でも当時は、女性が表に出るのは難しかった」
「なるほどね」
少し間をおいて、あたしは尋ねた。
「アロンって、本当に宮殿で生まれたの?」
「そうらしいよ。記憶はないけどね。乳母と一緒に幽閉されたから、幼少期の記憶はそれだけなんだ」
「本当に呪いって憎いわね。それさえなければ、王子様のまま幸せだったのに」
「何が幸せかなんて、わからないさ。でも、今は幸せだよ」
アロンは穏やかに笑った。
「ねえ、男の子と女の子、どっちがいい?」
「元気ならどっちでも。優子は?」
「あたしも同じ」
窓の外を見ながら話す。
「寒くない?」
「大丈夫」
心配してくれるアロンの声が、妙に嬉しかった。
「少し寝るね」
「いいよ、ゆっくりおやすみ」
うとうとしたまま、目的地に着いたらしい。
「昨日より高めのホテルにしちゃったよ」
「いいよ」
あくびをしながら答える。
今日のホテルは、街の高台に建つ大きな建物だった。
「体調悪くても眺めのいい部屋にしたから」
「ありがとう」
シャワーを浴びると、すぐに眠ってしまった。
◇
朝までぐっすり寝た。アロンはもう起きていた。
「おはよう」
「おはよ」
まだ眠い目をこすりながら答える。
「体調はどう?」
「いっぱい寝たから元気」
朝食のあと、歯磨きをしながら外を見ていると、アロンが言った。
「屋根に目がついてるよ」
よく見ると、確かに屋根に《目》のような窓がある。
「本当だ、面白い!」
あたしは笑った。
「この街、ドイツ語も通じるんだ」
十二世紀にドイツ人が入植して作った街らしい。
「今日はフネドアラに行くよ」
「コルヴィン城があるんだっけ?」
「そう。別名フネドアラ城とも呼ばれる」
アロンの守護霊であるおじいさんが現れる。
『懐かしいのう。わしの城じゃからな、ホッホッホ』
「楽しみね」
「車で一時間半くらいかな」
「感覚麻痺して、近く感じちゃう」
アロンは笑った。
「休み休み行こうか」
◇
昼前に現地到着。駐車場に車を停める。
「昼飯はあとにする?」
「見学に時間かかりそうなら先にしようか」
「じゃ、先に食べよう」
寒いので屋内のレストランに入った。
ピザとサラダ、それにパパナシを頼む。
パパナシは、揚げドーナツにサワークリームとジャムをかけたルーマニアのデザート。
ピザの匂いが少しダメで、あたしはサラダとパパナシだけを食べた。アロンは「うまい」と嬉しそうに笑う。
食後、城へ歩く。あまりの大きさに息を呑んだ。
「オーナーが定期的に手入れしてるから、形が保たれてるんだ」
アロンが言うと、妙に説得力がある。
中庭に入ると、胸の奥がざわついた。懐かしい感じ――。
隣のツアーガイドの声が響く。
「幽霊が出るらしいって言ってる」
アロンが小声で教えてくれた。
(もしかして、守護霊のおじいさんのこと?)
二階の回廊の奥、暗がりに、女の幽霊が立っていた。
「アロン……。あそこに女の人がいる」
「どこ?」
アロンには見えていない。
その女は、紺地に白の縁飾りの男物の服を着ていた。長い栗色の髪を左右で束ね、ブーツを履いている。そばかすの多い顔。
あたしがその様子を説明すると、アロンが口を押さえた。
「セシルだ……」
「えっ?」
「学者になりたかった彼女は、活動に不向きなスカートを嫌ってた。あんな服を着るのは彼女くらいだ」
なぜか、彼女の気持ちが流れ込んできた。
「アロンが心配で、ずっと待ってたって……」
「ずっと……?」
アロンの目に涙が滲む。
(なんで? 私、ここにいるのに……)
アロンはセシルが立っている場所に向かって話しかけ、泣いていた。
あたしは彼女にそっと言葉をかける。
「もう待たなくていいんだよ、セシル……」
その瞬間、彼女はあたしの中に入ってきた。
「あっ、セシルが……」
アロンが振り向く。
あたしの目の前には、幼い頃のアロンが立っていた。彼は明るく笑っている。
優子に乗り移ったセシルはアロンに駆け寄った。
「Aron……」
その声に、アロンの瞳が揺れる。
「Cecilia……」
抱きしめ合った瞬間、優子の身体から力が抜けた。
アロンはそっとその身を抱きとめ、離さなかった。
◇
目を覚ますと、ホテルのベッドにいた。
アロンが心配そうに覗き込む。
「ここは……?」
「近くのホテル。病院に連れて行こうか迷ったよ……。でも、ほんとに良かった」
アロンはうなだれていた。
「あたしの中にセシルが入って、そこから記憶がないの」
「そうか……」
「あたし的には、きっと成仏したんだと思う」
「成仏?」
「うん、天国に行ったと思う。……確認しに行ってみようか?」
「いや、いい。優子の方が大事だから」
アロンはあたしを抱きしめた。
「でも気になるから、やっぱり行く」
あたしが笑うと、アロンは苦笑した。
「明日にしよう。今日はゆっくりしよう。ここ高いし」
「高いの? じゃあ勿体ないもんね」
「城の目の前だから、部屋からも見えるよ」
「本当だ……」
窓の外には、夕陽に染まるお城。
「素敵……ロマンチックだわ」
アロンが肩に手を置く。
「明日、案内するよ」
あたしはアロンの肩に手をかけ、キスをした。
アロンも応える。
ベッドに戻り、二人は静かに寄り添った。
「体調は大丈夫?」
「うん」
あたしが微笑むと、アロンは熱いキスをする。
二人は、ゆっくりと、二人だけの世界に沈んでいった。
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