第25話 特訓
あたしが「ルーマニア語を勉強したい」と口にしてしまったことから、アロンの猛特訓が始まった。
「じゃあ、今から日本語禁止で!」
「えーっ! いきなりは無理だよ」
「喋れないときはジェスチャーで!」
あたしは何か食べる仕草をしてみせる。
「Vrei să mănânci micul dejun?」
アロンがパンの乗った皿を持ち上げながら、何か言う。
「ダ」
(こんなんで覚えられるんだろうか……)
「Este delicios?」
また何か聞いてくる。
「ダ」
(はい、しか言えないんだけど……)
あたしはスマホの翻訳アプリで文章を作り、アロンに見せた。
「Te rog să o pronunți cu propria ta gură.」
アロンが眉をひそめた。
「ダ……」
「ポツ サ ヴェリフィク ペ テレフォン?」
(スマホで確認していいですか?)
「Asta e ok.」
アロンは親指を立てた。
「Dar te rog să porți căști.」
イヤホンを指す仕草をした。
(自分で発音しろってことね)
「Te rog să repeți ce am spus.」
アロンが指差して単語を教えてくる。
(私に『どうぞ』のジェスチャー……真似してってことだな)
――早くも「あたし、なんで勉強したいなんて言っちゃったんだろ」と後悔し始めていた。
「休む?」
アロンが聞く。
あたしはスマホで変換して発音した。
「ウンカ エ ビーネ」
(まだ大丈夫)
「Să facem tot posibilul.」
「ダ」
書くのは難しそうなので、まずは音だけで覚えようと思った。
「Vreau să te sărut」
「ダ」
アロンがふっと笑って、軽くキスをしてきた。
「あっ……」
(わからないと思って……)
あたしはまたスマホで変換して発音した。
「ヴレアウ サ クンパル オ カルテ デ トゥリズム デスプレ ルマニア」
(ルーマニアの観光ブックを買いに行きたい)
「いいよ」
(お、通じた!)
◇
あたしたちは都内の大きな書店に行った。
ビルまるごと本屋だ。
「アロンはルーマニアわかってるけど、あたしはなんも知らないから、予備知識入れときたい」
「いいね」
アロンは微笑む。
旅行コーナーには『地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア』や『ルーマニア、遥かなる中世へ』、『ゼロから話せるルーマニア語』など、関連本が並んでいた。
お城、山、赤い屋根の街並み……どれも綺麗だ。
アロンが「ここは〇〇」「これは△△」と説明してくれるけど、地名が覚えられない。
「実際に目で見てみたい」
あたしが言うと、アロンは「ぜひ行こう」と笑った。
本を三冊ほど選んで会計を済ませようとしたとき、年配の女性店員が声をかけてきた。
「市長さんに探されている方ですよね?」
「え? ……あ」
戸惑うあたしの横で、店員はどこかへ電話をかけた。
「こちらにお越しになっています……。はい、わかりました」
電話を切ると、店員は言った。
「市役所に来て欲しいそうです」
あたしとアロンは顔を見合わせた。
「わかりました。行きます」
アロンが答えると、店員はほっとしたように笑った。
「毎日テレビで報道されてましたから、みんな気になってたんですよ」
そして、紙とペンを差し出した。
「サインください」
アロンが嬉しそうにサインしているのを見て、あたしは思わずニヤニヤしてしまった。
◇
都内某市役所。
受付を済ませると、あたしたちは会議室のような部屋に通された。
やがてカメラや照明を持った数人が入ってくる。
「広報課の山口です。まもなく市長が来られます。表彰と撮影をお願いします」
市長らしい男性が秘書を連れて入ってきた。見覚えのある顔だ。
「長田です」
「アロン・ドラクレシュティです。ドラクルと呼んでください」
「ドラクルさん、いやあ、会いたかった!」
市長は握手しながらアロンの腕を軽く叩いた。
「本当にすごいことをしてくれた。誰一人けが人が出なかった! ……ちょっと腕触ってもいい?」
「どうぞ」
「意外と普通の太さだねぇ」
軽口を交わしていると、広報課の山口が声をかける。
「そろそろ表彰と撮影をお願いします」
市長が表彰状を読み上げ、カメラのシャッター音が響いた。
「アロン・ドラクレシュティ殿
……略……
その勇気ある行動と迅速な判断は、他の模範となるものであり、深く感謝の意を表するとともに、その功績をたたえ、ここにこれを表彰します。
〇〇年〇月〇日 長田弘光」
拍手。
記念品を受け取ったアロンに、山口がマイクを向ける。
「何か一言お願いします」
アロンは少し緊張した面持ちで言った。
「人として当たり前のことをしただけです。危険を感じたら助け、困っている人がいたら手を貸します。愛する人の危機なら、命に代えても守ります」
「愛する人って誰ですか?」
記者の一人が尋ねる。
アロンは一瞬戸惑ったように目を伏せたが、すぐに顔を上げ、少し赤くなりながらも誇らしげに言った。
「そこに立っている優子です」
カメラが一斉にあたしへ向く。顔が熱くなるのを感じる。
アロンは微かに笑みを浮かべ、照れ隠しに腕を軽く組みながらも、誇らしさが滲んでいた。
「これはニュースだ!」
シャッター音の嵐。あたしは引きつった笑顔を浮かべるしかなかった。
◇
翌朝、あたしの『引きつり笑い』が新聞に載っていた。
梨沙ママから電話があり、スポーツ紙にも写真が出ているという。
コンビニに行って確認すると、ほんとに載っていた。
「やだー! 超恥ずかしい!」
「でも、優子が一緒にいるから、嬉しいんだよ」
アロンが少し照れながら笑う。あたしは顔を赤らめ、思わず笑ってしまった。
「記念に全部買っていこう」
アロンはそう言って、朝食と一緒に全紙を買った。
家に帰って新聞を読みながらタバコを吸う。
(最近、タバコがおいしくない……風邪? それとも花粉?)
◇
それから二週間。
あたしは日常会話くらいなら、聞き取れるようになっていた。
(喋るのはまだ無理だけど)
「愛の力だな」
アロンが得意げに言う。
(こういう言い方、日本人とちょっと違うな)と思った。
あたしはパスポートと国際免許を取りに出かけた。
「これでいつでも行けるね」
あたしが言うと、アロンは微笑む。
一週間後の火曜日出発で、飛行機を予約した。
(土日は高いし混むから)
「高っ……」
初めての海外旅行、金額に驚いた。
「今行くと雪で寒いけど大丈夫?」
「そっか、向こうは大雪か」
「大雪ってほどじゃないけどね。スキー場もあるよ」
「アロン、スキーできるの?」
「けっこう上手だよ」
「へー」
「優子は?」
「あたし? 未経験」
「じゃあ、教えようか?」
「なんかアロン、教えるの厳しそう。考えとく」
「優しく教えるのに……」
ふと気になって聞いた。
「スキーって誰と行ったの?」
「昔、仲良くなった人と」
「男?」
「男。スキーが流行り始めた頃でね、どんなものか試してみたかっただけ」
「ふーん」
「妬いてるの?」
「違うよ」
「可愛い」
アロンがキスしてくる。
(……妬いてるのかな、あたし)
◇
一週間後、成田空港。
夜出発し、朝方にブカレストのアンリ・コアンダ空港に着く。
イスタンブール経由の長旅だ。
ロビーのベンチでアロンが言う。
「道中長いから、今寝とく?」
「大丈夫。飛行機で寝る……じゃあ、ちょっとだけ寄りかかってていい?」
アロンは頷き、そっと肩を貸してくれる。重さも柔らかさも、安心感がじんわり伝わった。
少し足が冷えて、トイレに行きたくなった。
「トイレ行ってくる」
「僕も行く」
「荷物は?」
「大丈夫でしょ。ここ日本だし」
(こういうとこ、日本人ぽくないなー)
◇
同じ頃、龍田吾郎と柿崎誉も成田空港にいた。
「ちょっとトイレ行ってきます」
「おう」
柿崎がトイレから出ると、あたしとアロンとすれ違った。
一瞬、目が合う。けれど柿崎は何も言わず通り過ぎた。
あたしとアロンは柿崎の向かう先をしばらく目で追っていた。
「アロン……」
あたしはアロンの袖を掴んだ。
柿崎が吾郎のところへ戻る。
「なんかあったか?」
「別に」
「そろそろ行くか。今回は商談だけだから楽だ。途中で羽伸ばそうぜ」
「いいっすね!」
柿崎は笑って答えた。
――あたしは梨沙ママからこう聞いていた。
結局、密輸で警察に捕まったのは、幹部二人だけで、組長と息子は捕まらなかったと。
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