第16話 セッション

 ――数日後。

 

 午前中、あたしの家に鍵の交換業者が来て、新しい鍵に替えてくれた。

 そのあと、昼にアロンが買ってきてくれたパンを食べる。


「これで安心して出かけられるね」

「たぶん、盗聴器を仕掛けられることもないと思うよ」


 アロンの腕に頬を寄せる。あたしがくっついても変化がなくなった。

 

「この前、アロンが酔っ払った時は激しすぎたから、今度は普通のデートがしたい」


 アロンが笑う。

「どこか行きたいところある?」


「あたしは定番しか思いつかないな。動物園とか、ウィンドウショッピングとか、映画館とか……」

 

「僕はどこでもいいよ」

 そう言うといつものようにあたしを膝の上に乗せる。


「念のため、人が少ないところのほうがいいのかな? 変な意味じゃなくて、万が一襲われても、アロンが変身できるし」

 あたしはアロンの上に横たわった。


「そうだね。ひらけた場所より隠れるところがあるほうがいいかも」

 アロンがあたしの髪を指でいじりながら言う。心臓の音が心地よくて、眠くなりそうだ。


「アロンの好きなもの、教えて」

「食べ物以外で?」

「うん。趣味とか」


 アロンは少し遠い目をした。

「芸術関係が好きだよ。スポーツ観戦も」

「例えば?」

「音楽。ピアノやってたし、絵画を観るのも好きかな。描くのは下手だけど」


「ピアノ弾けるんだ?」

「最近は弾いてないから、辛うじてね」

「聞いてみたいなあ」

 顔を近づけると、アロンが軽くキスをした。


「どこで習ったの?」

「母方の家にいた時だよ。放浪してからもたまに弾いていた」

「じゃあ、きっと上手だね」

「どうかな」


「優子は? 好きなもの何?」

「あたしは……高校のときバンド組んでた」

「いいね! どんなバンド?」

「オリジナル曲で演奏してて、あたしはボーカル」

「かっこいいね。優子の歌声、聞いてみたいな」


 今度はあたしが上からキスした。キスを続けているうちに、アロンのスイッチが入り、そのままベッドへ――。


 ◇


「タバコ吸い始めてから、声が出にくくなっちゃったの」

 あたしはアロンの腕枕でタバコを吸っていた。


「勿体ないな」

 アロンがあたしの額にキスをする。


「デートはライブとかコンサートにする? ジャンルは?」

「なんでもいいよ」

「じゃあクラシックから始めてみようか」


 スマホで探すが、いい席は埋まっている。

「高いな……そんなに近くない席でも一万円以上する」


 しばらく考え、ふと思いついた。

「駅にピアノ置いてあるよね。あそこでアロンが演奏するのはダメ?」

「えー、ずっと弾いてないし、古い曲しか知らないよ」


「ピアノ買う?」

「高いからやめといたほうがいいよ」


「……なんかつまんない!」

 まるでわがままな子どもみたいに言ってしまう。


「練習もせずにいきなり人前はハードルが高いよ」

 アロンの正論に、あたしは口を尖らせた。

 

「じゃあスタジオ借りる?」

「それならいいよ」

「ピアノ付きスタジオある……予約した!」


 あたしが喜ぶと、アロンが優しく微笑む。

「いつ予約したの?」

「今日。今から行こう!」

 アロンは珍しく苦笑した。

 

 ◇


 都内某所のスタジオ。

 途中、楽譜を買ってから到着した。


 小さな個室にはピアノとエアコンだけ。二人までしか入れず、それ以上は追加料金がかかるらしい。


「久しぶりだな」

 アロンが鍵盤に触れると、軽やかな音が響く。


「アロン、バッハ弾ける?」

「弾けるよ」

「『G線上のアリア』好きなの」

 ゆったりした旋律が部屋いっぱいに広がる。胸がいっぱいになる。


「『主よ、人の望みの喜びよ』も好き」

 情緒ある響きに、心が和んでいく。


「アロン、上手すぎ」

「ありがとう」

 アロンがにこっと笑う。


「優子は『アヴェ・マリア』歌える?」

「歌えるわけない……でもメロディはわかる」

「歌詞を見ながら試してみよう」


 アロンが伴奏を始める。

「歌詞わからなければハミングでもいいよ」

 心を込めて歌った。うまく歌えたか自信はないけど、音は外していないと思う。


 アロンの顔を見ると、なんとも言えない表情をしていた。

「感動したよ」

「ありがとう」

 あたしは恥ずかしくて顔が赤くなる。


「もっと演奏聴きたい」

「『悲愴』はどう?」

「この曲も好き」


 (ベートーベンの『悲愴』って、まんまアロンのイメージだな。優しくて寂しげで――)

 (なんか涙が出てきた)


 アロンが演奏をやめ、優しく抱きしめてくれる。

「そろそろ帰ろうか」


 ◇


 あたしはなんで泣いたのか、自分でもわからなかった。

 帰りに夕飯を買って、家で食べることにした。


 食べながら、ずっと聞けなかったことを聞いてみる。

「アロン、変なこと聞いてもいい?」

「なに?」

「セシル……とあたしって違う?」


 アロンはしばらく考え込んでから口を開いた。

「少し違うかな」

「セシルの話、聞いても大丈夫?」

「うん。話聞きたくなってきた」

「どういう心境の変化?」

 アロンが笑う。


「どこで出会ったの? というかそもそもどんな人?」

「彼女の名前は、セシル・クレマン。隣の城主の娘だった」


「僕は蝙蝠に変身して夜な夜な城を抜け出していた。

 彼女は眠れない夜、湖のほとりを散歩していて、蝙蝠の姿の僕に出会った。

 動物好きだった彼女は、僕を可愛がってくれた」

 

「彼女の方から血を吸わせたがった。僕はつい吸ってしまい……一か月ほど続けた頃、彼女は倒れてしまった」

 

「あたし、変な人ねって思う」

 つい割り込んでしまう。

 

「僕は変身を解いて彼女を小屋のベッドに寝かせて助けた。

 それから人間の姿で会うようになり、お互い素性を明かしていった。

 母方の城に行くとき、一緒に住むようになった」

 

「そのお城、夢で見たわ」

 また割り込んでしまう。

 

「けれど、彼女は出産のとき、赤ちゃんと一緒に命を落とした」

「……アロンは辛かったでしょう? 一人残されて」

「仕方ないさ。もう遠い昔のことだ」


「……確かにあたしとは少し違う。人生が違うからなのかはわからないけれど」


 チャーハンを食べながら言う。

「聞いてよかった。知らないよりスッキリした」

「ならよかった」

 アロンが優しく微笑んだ。


 そのとき、キッチンに置きっぱなしのスマホが鳴る。

 病院からだ。母の容体が悪くなり、救急車で運ばれたという。スマホを持つ手が震える。


「お母さんの容体が悪化したみたい……病院に行くわ」

「ついていくよ」


 ――あたしは最悪なことを覚悟した。

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