ほらほら短編集

ほらほら

意味

「楽しそうでいいね」って、俺、毎日言ってる。


 死なないから生きてる。

 それが、俺の生き方なんだって。誰かに言えたら楽になれたんだろうか。


 人生は選択の連続だ、なんて言うけれど……それはきっと、選択の結果として捨てられた物が、人生の意味になるに違いない。


 午前三時の職安通り。

 山手線の高架下、騒々しい沈黙。

 人の居ない歩道。鳩のフンと煙草の吸殻。そして、くっついたガムを塗りつぶしたタールの跡が、主の逃げ出したアンモニア臭い段ボールを包囲している。


 街頭はオレンジ色。すべてを染めている。

 それでも、俺には、世界がモノクロに見えた。中央分離だけが、世界を白く切り裂いている。


 昔、絵を描いてた。誰に見せるでもなく、ただ線を引いてた。


 意味とか、そんなのじゃない。引いてないと、消えそうだった。

 それもやめた。疲れたとかじゃない。何が何だったか、もうどうでもよくなった。

 今は、ただ中央分離帯の白線を眺めている。


 線路脇のJRの変電所。

 仕事を終えた軌陸車が立体駐車場に吸い込まれていく。

 それを見て、監督が職長に何かを怒鳴った。

 職長は乱暴に見えて、誰よりも早く手を動かしていた。


 まぁ、俺には関係ない。

 俺はただのカラーコーン。車よけの、ガードマン。

 少し離れた歩道橋が、こちらを見て、笑った。


 山手線の始発が、高架を揺らして新宿駅に滑り込んでいく。

 産廃を積んだパッカー車だけが、血管内の赤血球のように動き回っている。


「おい洞井、お前次の勤務、今日の夜またここだっけ?」


 監督から伝票を受け取った片割れのカラーコーン。小林さんが、リュックサックに道具を詰め込む俺に近づいてくる。


「ええ、小林さんは?」

「このあと8時から品川。

 少し、車で寝れるよ」


 俺はそれを背中で聞いた。

 ああ、小林さんはまだ、疲れているって言える場所にいるんだなと。


「……じゃあ、失礼します」

「ああ」


 小田急線の始発まで、まだある。

 コンビニでおにぎりくらいは、買える。


 小田急の始発は意外と人が乗っている。

 人を避けて乗り込んだ各駅停車。

 遊び疲れた大学生、仕事終わりの夜職、徹夜明けのサラリーマン。

 皆、何かを新宿に置き残してレールの上を運ばれていく。

 車両内には、気だるい微睡みと朝日だけが満ちていた。


 スマホを何気なくのぞきこむ。SNSはやってない。ただ、トップに表示されたニュースを眺める。


 ふと、ポケットに手を入れる。

 折れた爪楊枝が一本、折れたまま入っていた。

 俺は、それをどこで拾ったのか思い出せなかった。

 ただ、捨てられなかった選択肢がそこにあった。


 隣に座る少女のスマホから流れ出る軽快なポップス。

『未来はきっと笑ってる』って、透き通る声が歌っていた。

 イヤホンなし。そこそこの音量。だが周りは反応しない。見やりもしない。

 明るい車両内には、優しく残酷な無関心が漂っていた。


 無表情にスマホを見つめる少女。きっと、彼女はまだ叫んでいるのだ。世界に向かって。

 何も捨てたくないと。


 分かるよ。

 俺はもう、カラーコーンだが。


「未来は笑ってるってさ……うるせぇよな」


 そう呟いたつもりの言葉は、「……うるせぇよ」しか声にならなくて。


 少女はチラリとこちらを見て。視線を落とす。少し微笑んで、世界に絶望しながら。


 いや、違うな。絶望しないために、絶望して、微笑んでいる。

 絶望している限り、人は死なない。

 死なないために、絶望して、生きていく。


 手を伸ばしたのに届かなかった。

 声を出したのに伝わらなかった。

 いつかまた、絵を描けたらな……なんて。あの白線のように、またどこかに消えていった。


 だから俺は、まだここにいる。

 捨てきれなかったものと一緒に、ただ、朝を迎えた。

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