沈黙の匂い

引っ越してきて1ヶ月で、俺は気づいた。

エレベータの中に、必ず同じ匂いが漂っていることに。


甘ったるいようで、腐ったようで、どこか鉄の味を思わせる匂い。

三十秒から一分。

ほんのわずかな時間なのに、狭い箱に閉じ込められると逃げ場がなく、息を止めるしかない。


最初は誰かの香水かと思った。

だが違う。

朝も夜も、ほぼ同じ時間にだけ現れ、決して消えない。

建物に近づくとふっと鼻をかすめ、扉が閉まると決定的に濃くなる。


気になって、ある日ほかの住人に聞いた。

「変な匂い、しませんか」

少し間を置いてから、にこやかに首を振られた。

「いえ、特には」

そう言って、奥の扉へ消えていく。


その笑みは硬かった。

そして必ず、鼻をかすめるような仕草が添えられる。

俺はその一瞬を見逃さなかった。

──やはり、感じているのは俺だけじゃない。


それなのに、誰も決して言葉にしない。

挨拶すら交わさないのに、すれ違うときの貼りついた笑みは「分かっている」という合図のように思える。


家に戻っても、服に匂いは残る。

布団に潜っても鼻を突き、息を止めたはずなのに染みついている。

だが俺が吐き気を覚えているあいだ、他の住人たちは、あの笑みを保ち続けているのだろう。


この建物に漂うのは、ただの香りではない。

全員が知りながら、口を閉ざし、当たり前のように受け入れている“共通の秘密”だ。


──俺はまだ馴染めていない。

皆のように、何も言わずに、笑えるようになる日が来るのだろうか。

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