あいまいな時間帯に関するあいまいなる議論

文学少女

小説 作:湯川孝

 夕方を過ぎ、今か今かと夜になろうとしている、微妙な時間だった。そのとき、ぼくは、今自分がいるこの世界が、どこか、通常の時空から逸れている、異界のように感じた。世界線が揺れているとでも言うべきだろうか。つまり、今ぼくがいるこの世界が時空間の中で描く世界線は、かすかに揺れていて(それは、本当にかすかな揺れであって、自分が風を感じていなくても、梢の葉がかすかに揺れているのを見るような、ささやかで、静かな、妖しい揺れである)、本来触れることのないもう一つの世界(どこか霊的で、この世ならざる世界)に、そっと触れているように思える。夜に染まり切っていない、青藤色の快晴の空(この空の色を反映するように、ぼくの眼に映る街の景色も、青藤色に染まっていて、そして、その街を歩くぼく自身の体も青藤色に染まっていて、歩いているぼくの足は、地面に接していないのではないかという浮遊感があった)は、透き通っていて(この雲一つない青藤色の空も、ぼくにこの空間が異常だという何かを感じさせる。透明な青藤色は、幽玄で、その幽玄さが、ぼくを恐ろしくさせる。あらゆる透明な幽霊の複合体?)、そこに、黄金色に輝く半月が浮かんでいた。灰色の鉄塔の尖端、その横に半月(半月という形も、なにか奇妙なもののように感じた。満月でも、三日月でもなく、半月という、端正な半分の形は、異常なものだとぼくの本能に訴えかけてくる──半眼の月の力に支配されている──。満月という球体の形は、表面上のすべての点が中心から等距離であるが故に、完全な形であり──神は可知的球体である──、三日月というのは、ミロのヴィーナスがそうであるように、欠けているがゆえに完全であり、欠けているがゆえに美しい。半月は、そのどちらでもないが、均衡のとれた形をしていて、気持ち悪いとさえ思えてしまう)は浮かび、その半月の輝きは、非情に美しく、絢爛だった。その絢爛たる月光は、半月とは思えないほど、あまりにも眩しく、美しく、魅惑的だった(魅惑的、という言葉は、どこか危険性を帯びていて、まさに、その月光は、何か人を惹きつけつつ、危険なものを孕んでいた。人を惑わせるような、人を狂わせるような、そういった類の、美しくも、禍々しい、グロテスクなもの)。だからぼくは、視線が思わずその半月に吸い寄せられ、半月から目をそらせないまま、ぼくは青藤色の世界を歩いていた。ぼくの目玉に、半月の眩しい月光が焼きつく(ふと、我に返って、視線を半月から外した時だった。ぼくは周りから人の姿が消えたことに気がついた。いや、人だけではない。いつもは道路を行き交っている車や、ぼくの隣を走り抜けていく電車、空を羽ばたいているカラスも、その姿を消していて、ぼくは喉を締め付けられたような恐怖を覚え、背筋が凍った。空気は冷たく、不穏で、ぼくの皮膚に染み込み、指先が冷たくなっていく。ぼくは、まず、落ち着こうと思い、近くの公園のベンチに座り、たばこに火をつけた。最初に大きく吸い込んだ煙が、騒ぐぼくのこころに少しの落ち着きを与えた。たばこの煙は、青藤色の空に向かってひゅるりとのぼり、緩やかに広がる。夏の青空のような水色だった。公園に生えている木の梢の葉が、かすかに揺れていた(世界線の揺れの比喩で用いた、あの揺れである)。しかし、その揺れ方は、とても奇妙だった。再生と逆再生を繰り返しているような、どこか、因果律が満たされていないような、そんな揺れだったのだ。公園の時計の秒針は、一つ進んで、一つ戻るのを、ひたすらに繰り返している。今ぼくがいる時空間は、原因が結果になり、結果が原因になる、時間順序違反集合───I^+ (q)⋂I^- (q)…(q∈M)───のようだ(ホーキング・エリス共著「時空の大域的構造」を参照)。ここは正常な世界ではない。ぼくは異界に来てしまったようだ。ぼくと、燃えるたばこだけが、この異常な時空間の中で因果律を満たしている。地面に擦り付けて、たばこの火種を消す(この挿入文がいつ終わるのだろうかと、この奇妙な文章を読んでいる人は思っているだろう。だが、この挿入文はまだ終わりそうにない。ぼくはナボコフの「賜物」のような文章を書こうとしていただけなのに、いつの間にか、この異界、いや、挿入文に閉じ込められてしまったようだ。挿入文というのは、物語空間の語りを逸脱した、作者の作為の世界だ。ぼくは今、挿入文の挿入文という地点にいる。作為の作為という地点まで来ると、物語世界はより背面へと押しやられ、作者がより前面に出てくる。少なくとも、作為の時点までは、物語空間の中にいたように思えるが、作為の作為となると、それは物語空間を逸脱してしまう。ぼくは、なんとかこの作為から逃れたかったのだが、いつの間にか、作為に捕まってしまったようだ。ぼくがこうして作為に閉じ込められてしまったのは、諏訪哲史の「アサッテの人」を読んだせいだろうか。私につづけ、読者よ)。火種を消した、そのとき、青藤色の空にのぼらずに、かすかに残った煙が、徐々に凝縮されていき、ひとつの塊になっていった。現れたのは、二次元的な、おぼつかない黒い線で描かれた天使だった(パウル・クレーの「天使の危機Ⅰ」)。天使は、微笑みながら、上を向いていた。その視線は、あの、禍々しい半月に注がれていた(気持ち悪く、美しい半月)。天使は、静かに、ぼくに語り掛けた。「このよのなかのほかにもうひとつ、べつのよのなかがあって、そこからてんしはきた」(天使は、谷川俊太郎の詩を吐き出した)ここは、天使がいる、もう一つの世の中(挿入文)なのだろうか。「きみは、そうにゅうぶんから、でられなくなってしまったんだね」天使の声は、やさしかった。「きみは、なにをかいたらいいのか、わからなくなってしまったんだ。いくらことばをはきだそうとしても、なにがかきたかったのかわからず、そして、じぶんのかくいぎをうしなって、きみのなかにあることばが、からっぽになってしまったんだ」そうだ。ぼくは、何を書けばいいのか分からなくなってしまったんだ。いくら言葉を紡ごうとしても、それは、かつての言葉の焼き直しでしかなくて、ぼくの言葉は死んでしまっていた。ぼくには、たしかにあったのだ。書きたいものが。だが、その書きたいものの姿が、次第にぼやけていって、その書きたいものが分からなくなってしまった。極めて平凡な人間であるぼくの言葉もまた平凡であるという思いが、物語を書くことに恐怖を覚えさせる。だからぼくは、挿入文という物語世界から離れた場所に逃げてしまった(作為の中で語られるぼくの言葉を、どれだけの人が信じているだろうか。挿入文の挿入文にぼくがいる以上、挿入文の言葉はどこまでも創られたもの、まだ物語世界にいるものであって、作者の言葉と捉えることはできなくなってしまっている。太宰治の「道化の華」のように「ああ、もう僕を信ずるな。僕の言うことをひとことも信ずるな」ということだ。ぼくは物語世界で語る言葉を失ってしまった。挿入文の言葉も、虚構で、空虚だ。「きみは、そうにゅうぶんの、そうにゅうぶんにまで、にげだしたんだね」天使の声が、聞こえた。どういうことだ? 天使は、物語世界にいるはずだ。ぼくがいるこの地点にまで、天使はくることができるのか? ぼくは辺りを見回す。ぼくの眼に映るのは、本で散らかった僕の部屋だ。ベッドの上には、「巨匠とマルガリータ」と「宮沢賢治全集2」が放り投げられていて、「宮沢賢治全集2」を枕にして、猫が眠っている。そして、机の上には参考にした本「クレーの天使」「時空の大域的構造」「アサッテの人」「続審問」「晩年」「全ての聖夜の鎖」が積み重ねられている。天使の姿は、どこにも見当たらない。「きみは、ことばがどんどんからっぽになっていくのをおそれているんだ。ものがたりせかいでからっぽになっていくきみのことば。いままでたべたほん、ことばをたどりながら、じぶんのことばをさがしている」探しているぼくの言葉。ぼくは「音」を探していた。美しい「音」。それでいて、醜い「音」。ぼくは言葉の宇宙に漂いながら、言葉(宮沢賢治の、ナボコフの、梶井基次郎の、ボルヘスの、寺山修司の、太宰治の、カフカの、谷川俊太郎の、諏訪哲史の、言葉……)をぼくの体に取り込んでは、からっぽになっていった。不思議なことに、言葉の宇宙で言葉を食べれば食べるほど、ぼくの体の中にある言葉が失われていく(言葉の宇宙、それは海のように生きていて、溺れてしまいそうになる。ぼくは言葉を飲み込むブラックホールだ。ぼくは、挿入文の挿入文の挿入文にまで来てしまった。これで、ひとつ前の世界も虚構になって、今までのぼくの言葉が虚構になる。ぼくは、ここで吐き出す言葉さえも、いずれ虚構になってしまうのではないかという恐怖に襲われている。どんどん虚構の世界に押しやられていくぼくの言葉を、もう、誰も信じてはくれないだろう。幼稚園で、ひとり、積み木の城を築いていたころから続いていた、ぼくの孤独の旅は、ひとつの終わりを迎えた。だからこの小説は、小説であることを放棄してしまった。ぼくには超新星爆発があった。その爆発は、孤独をエネルギーにして、美しい言葉を放出する爆発だ。でも、今のぼくには、そのような爆発はない。ぼくの中にいる言葉は今か今かと超新星爆発を待ちわびるが、爆発は起きず、ぼくの中で宇宙塵のように漂っている。この小説は宇宙塵だ。なんとか紡ぎ出した、言葉の羅列だ。ぼくは今日、ある超新星爆発を読んだ。一夜にして書き上げられた、美しい爆発だった。黒く、きらめいていた。やっぱり、ぼくはこのきらめきが欲しい。目が眩むほどの、ぎらぎらとした、黒いきらめきが。──今のぼくはあまりに何かが欲しい、もっと美しいものが欲しい、光が欲しい──ぼくは超新星爆発に向けて、「沈黙への忠誠」を誓おう)。)。)。ぼくは半月から眼を離し、歩き出した。家に着くと、そのままぼくの部屋に向かい、リュックを床に下ろす。ベッドの上には「巨匠とマルガリータ」と「宮沢賢治全集2」が放り投げられていて、「宮沢賢治全集2」を枕にして猫が寝ている。猫はぼくが帰ってきたことに気がついて、眠そうな目をぼくに向け、あくびをしながら鳴いた。ぼくは猫の頭をそっと撫でた。たばこをくわえ、ライターをポケットに入れ、灰皿を持ち、ベランダに向かう。たばこに火をつけた。ふわっと煙が広がり、夜の闇の中に溶けていく。台風が過ぎ去ったあとの透明な夜空で輝く星々はきれいだった。星は燃えていた。

 解説

柏 豊


 この小説「あいまいな時間帯に関するあいまいなる議論」は湯川孝が最後に書いた小説である。この題名は宮沢賢治の詩集(詩集ではなく、心象スケッチというべきだが)「春と修羅 第三集」にある詩『春の雲に関するあいまいなる議論』から取られているようである。実際、作中に登場する「宮沢賢治全集2」には「春と修羅 第三集」が収められていて、題名のもととなった詩の存在をほのめかしている。また、空に関する挿入文の最後に出てくる「あらゆる透明な幽霊の複合体」という言葉は、『春と修羅』の序文による。宮沢賢治の言葉に限らず、作中の次の文章

『(宮沢賢治の、ナボコフの、梶井基次郎の、ボルヘスの、寺山修司の、太宰治の、カフカの、谷川俊太郎の、諏訪哲史の、言葉……)』

に見受けられるように、この作品には、明示的にしろ、暗示的にしろ、湯川が「食べた」言葉が散りばめられている。明示されていない言葉でいうと、『私につづけ、読者よ』という言葉は、作中に登場するブルガーコフの「巨匠とマルガリータ」にある言葉であり、自分の言葉と食べた言葉の中でせめぎ合う作者の心情が伺える。

 冒頭、まだ物語世界にいる語り手は、夕方でも夜でもない光景の中に異常さを次々と見出していき、その異常さの記述は挿入文の中で行われる。青藤色、快晴、半月、絢爛……。そこに見出されるのは美しさと禍々しさが隣接した恐ろしい観念だ。半月の挿入文に登場する一節『──半眼の月の力に支配されている──』は、中島らもの『全ての聖夜の鎖』から引用されている(この作品は、中島らもが限定百部で発行した美しい書物だ)。最後の方に語られる湯川が読んだ超新星爆発とは、この『全ての聖夜の鎖』のことだろう。「黒いきらめき」という言葉は、『全ての聖夜の鎖』の変わった印刷形式から来ていると考えられる。

「大きな黒いトランプのようなバラバラのカード(リーフレット)に白抜きで文字が刻印され、黒い秩に収められている」(諏訪哲史 「全ての聖夜の鎖」解説より)

 この作品で語るべきは挿入文を用いた階層的な構造だろう。作中で語られているように、挿入文から、さらにまたその挿入文へと移行していくごとに、物語空間は背後に下がっていき、「物語」の言葉を失った作者の姿が徐々に浮かび上がってくる。冒頭、挿入文の使用は一般的なものだが、徐々にこの挿入文の頻度、長さが異常なものになっていく(ナボコフの「賜物」は、確かに挿入文を多用した複雑な文構造を持つ文体だが、ここまで常軌を逸したものではない)。本文よりも挿入文の占める割合の方が高くなっていき、最終的に挿入文が本文を吞み込んでしまう。この挿入文が迫っていく様は、まさに作者に「作為」魔の手が伸びていく様が表現されている。この作為に取り憑かれていく様子は諏訪哲史の「アサッテの人」に登場する叔父を思わせ、多層的になっていく構造はボルヘスの小説を彷彿とさせる。まさに、湯川は言葉を「食べて」いき、物語で語る自分の言葉が失われていったのだ。そんな中、物語から挿入文という「作為」の世界に行くことで、湯川は自分の言葉で語る術を見出す。そこには物語で本来見られないような作者である湯川の姿がはっきりと現れる。挿入文の挿入文には、恐らく湯川が執筆していると思われる部屋の状況が描写される。事実にしろ、そうでないにしろ、この部分は非常にメタ的であり、そこに天使が登場することで、メタ世界と物語世界の混乱、融合のようなものがある。挿入文の挿入文の挿入文で唐突に登場する

『幼稚園で、ひとり、積み木の城を築いていたころから続いていた、ぼくの孤独の旅は、ひとつの終わりを迎えた。』

という一節は、湯川の『遺書』という作品の次の文章

『私を語ろうと思うと、私の頭に浮かんでくるのは、一人で積み木遊びをしている光景である。周りの人たちがみな友達と楽しそうに遊んでいる中、私は、緑色の長方形の積み木の上に赤色の三角錐の積み木を重ね、積み木の城を熱心に築き、私の世界に没頭していた。今でも私というものを貫いているのは、この積木の城の記憶であり、閉鎖的な私の世界である。私は、私の世界という殻の中に閉じこもり、城を築いていた。私の世界とはボルヘスの「バベルの図書館」であり、ダンテの「神曲」の九階層の地獄であり、カポーティの「夜の樹」の列車であり、カフカの「変身」の部屋であり、安倍公房の「箱男」の箱であった。私にとって小説を書くというのは、幼い頃の積み木遊びように、私の城を築くことに他ならなかった。』

から来る、湯川の告白である。未発表であった『遺書』からこの『あいまいな時間帯に関するあいまいなる議論』を紐解いていくのは、富士川義之著『湯川孝研究──「遺書」から見える世界』(二○○四年)に詳しい。

 挿入文の挿入文に登場する次の文章

『ぼくは「音」を探していた。美しい「音」。それでいて、醜い「音」。』

で示されていた「音」とは一体何だったのか。恐らく、この「音」とは、湯川の『詩集くろい球状のもの』にある「言葉という海」という詩で語られる「音楽」のことではないかと考えられる。「音楽」について、詩では次のように述べられている。

『僕は、言葉で音楽を奏でたいのだ。美しい音楽を。通りすがりの人が、微笑んでくれるような、奏でている自分も、不思議と涙が出てしまうような、これまでの苦痛がすべて許され、僕はこの音楽を奏でるためにここまで生きてきたんだと、もう死んでもかまわないと、思えるような、美しい音楽を。』

 物語の中で、作為という隙間から湯川は言葉を発した。それは物語を書く言葉を失った湯川が絞り出した、儚い白鳥の歌であり、それ以降、湯川孝が小説を書くことはなかった。それは湯川が、(挿入文の挿入文の挿入文で)最後に語っていた「沈黙への忠誠」だった。この言葉は、フェリーニの映画「8 1/2」のセリフから来ている。湯川は映画評論集『地球をしばらく止めてくれ。ぼくはゆっくり映画を観たい。』で「8 1/2」を映画の最高傑作に挙げていて、メタ世界と物語世界の混乱も、この映画の影響があると考えられる。



(令和七年、文芸評論家)

 解説

若島正


 解説という字を再び目にして、読者は戸惑っていることだろう。実はこの作品、先ほどまでの「解説」(以下、作中の解説部分を「解説」と呼ぶ)を含めて作品になっている。つまり、「解説」までが「作品」であり、「柏 豊」などという文芸評論家は存在しない。そこまでが、作者の「作為」となっている。とても奇妙だ。自分で自分の作品を解説し、解剖していく。なぜ湯川がこのような形態を考えたのか、それは恐らくナボコフの「青白い炎」と自伝「記憶よ、語れ──自伝再訪」が影響しているのではないかと私は考える。実際、「解説」の中に出てくる「富士川義之」という名は、「青白い炎(岩波文庫)」の翻訳者である。「青白い炎」という作品は、長編詩に、前書きと注釈、索引までを付した奇妙な「小説」である。本の三分の二がキンボートという奇人による注釈であり、このあまりにも独断で傲慢な注釈によって、「青白い炎」は奇妙な小説へと発展していく。

 また、ナボコフの自伝「記憶よ、語れ──自伝再訪」において、最終的には捨てた案になったものの、構想の段階において「幻の十六章」があった(自伝は全十五章である)。実は、このナボコフの自伝について、湯川は「美しい自伝」というエッセイを書いており、そこで「幻の十六章」について触れている箇所がある。



この幻の第十六章は、ナボコフの自伝に対する、偽の書評になっている。文体を自ら評価しているというのも、とても面白い。『観察者が宇宙全体を事細かに描きだそうとして、終わったときに、まだ何かが欠けていると気づく。それは観察者自身である』という本文が物語るように、ナボコフは、自伝の観察者である自分自身を描き出そうとしたのだ。



 このことから、解説までを作品の中に組み込もうとしたのは、ナボコフの自伝の影響も少なからずあるだろうと考えられる。また、解説を書いた文芸評論家「柏 豊」(kashiwa yutaka)は「湯川孝」(yukawa takashi)のアナグラムであり、これは、「ウラジーミル・ナボコフ(Vladimir Nabokov)が、アナグラムの「ヴィヴィアン・ダークブルーム」(Vivian Darkbloom)として『ロリータ』の作中に登場したり、『アーダ』の注釈者として登場するのと同じ手法である。ナボコフの愛読者である作者による、おびただしい数のナボコフのパロディ。小説本文に散見される文学の引用や実験的手法も含め、作品全体がナボコフのようだと思わざるを得ない。

 そもそも、この小説の奇妙な文体は、作者自身が言っているようにナボコフの「賜物」から派生したものであり、仕掛けに満ちているこの小説全体がナボコフからの派生したものともいえるだろう。

 執拗なまでの自己の作品に対する解説、自身の詩やエッセイ、評論からの引用を交え、自己を解剖していく様子は尋常なものではない何かを感じる。ナボコフの踏襲ということ以上に、作者には、小説に限らず、自分のあらゆる要素(詩、エッセイ、映画評論)から、自己を解剖しようという意図があったのではないだろうか。「解説」は、文学的遊戯や、単なる作品の解説ではなく、「超新星爆発」を求めていた作者の探求なのではないだろうか。

 作者解説

湯川孝(〇〇〇〇)


 あぁ、またか。と読者は思ったに違いない。作者自身であるぼくのこの解説もまた解説されるのではないかと、疑いの目を読者は向けているかもしれないが(実際、この解説を書いているぼく自身もそう思ってしまう)、ここではやっと『あいまいな時間帯に関するあいまいなる議論』の本当の解説に入っていく。

 この作品でぼくが本当にやろうとしたこと、それは、第二の解説で書かれているような「青白い炎」や「記憶よ、語れ──自伝再訪」の第十六章のパロディではなく、小説の中に見られる挿入文による多層構造を解説にも施し、作品全体を多層的にしようという試みなのだ。小説内にかぎらず、作品全体をも多層的にしていく構造は、マトリョーシカ人形のような構造の小説を目指し、小説を建築物として捉える視点(青木淳選「建築文学傑作選」を参照)に影響を受けた結果である。

 第二の解説ではナボコフから受けた影響について詳細に語られている、ように書いた。第二の解説で、「解説」に登場した「富士川義之」が「青白い炎」の翻訳者であるというように──気づいた人も多いと思うが──第二の解説でもおなじようなギミックがある。第二の解説を書いている「若島正」は「記憶よ、語れ──自伝再訪」の翻訳者である。おなじようなギミックをもちいて(しかもより大胆に)読者との駆け引きをしている、この小説は、解説の解説へとつづいていく様子もふくめ、推理小説のようなものかもしれない。あらゆる場所にトリックが潜んでいる。トリックを明かしたと思われた解説にもトリックは潜み、そのトリックを明かした第二の解説にもトリックが潜んでいる。「どこまでこの小説には仕掛けがほどこされているのだろうか?」と読者は思い、こうなってくると、ぼくのこの解説にもトリックが潜んでいるのではないかと勘ぐるだろう。ぼくは「信頼できない語り手」になってしまっている。このような仕掛けはぼくの虚栄に他ならない。ぼくは、そこにはいない。今は、ぼくの解説に身をゆだねてほしい。

 解説と第二の解説を含めたこの小説には、一体、本当の言葉はどこにあるのだろうか。あらゆるところにぼくの「告白」や作品の意図の説明のようなものがあるが、それはどこまでも「作品」という虚構の世界の中にあってなかにあって、なにが意図されているのかは作者のみぞ知るのである。そもそも、小説で語られている言葉も、挿入文のさらに挿入文へとつづいていくなかで、ぼくの「告白」めいた言葉が出てくるが、これはぼくの言葉なのだろうか? 小説である以上、そのような「主人公」を設定し、ぼくがそのように書いたとも考えられるのである。解説や第二の解説では、ぼくの詩やエッセイや映画評論から引用し、自己を解剖しているかのように書かれているが、第二の解説までもが小説という「作為」の中にあるのを忘れてはいけない。もちろん、この、ぼくの解説も。作者解説と題したこの文章は、「湯川孝」の文章であってぼくの文章ではない。湯川孝は作者であって作者ではない。ぼくは湯川孝ではなく「○○○○」なのだから。これでようやく本当の言葉を吐き出すことが出来た。やっと、一人称が虚構の存在「湯川孝」ではなく「○○○○」を指し、言葉にはその質量が付与される。ぼくは、○○○○だ。この言葉を書いた途端、さっきまでの虚構の文章空間が粉々に崩れていく。もう物語という舞台装置はない。「湯川孝」という役名もない。ぼくは現実という舞台に立つ一人の人間、○○○○だ。今吐き出すぼくの言葉は、本当の言葉だ。ぼくはもう舞台の上にいる。ぼくは現実世界に立つ自分自身の確かな輪郭をなぞっている。ぼくを覆い隠すものはもうなにもない。ぼくは本当の言葉でこの世界に立っている。たしかに地面があり、空気が肌に触れ、呼吸を繰り返す。この解放感。すべてが真実で輝いて見える。もう混乱は怖くない。あるがままのぼくを受け入れ、再出発を。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る