私はお暇しますのでご機嫌よう

@test555

第1話

この屋敷の壁は、いつも冷たい。


石造りの灰色の壁は、昼でも薄暗い影を落とし、夜には息を潜めたように沈黙する。


そんな屋敷で育ったせいか、私は温もりというものを知らない。


──リシェル=フォン=グランツ。


それが私の名。名家グランツ侯爵家の令嬢。


本来ならば、誰もが羨む立場のはずだった。


だが、私の誕生は祝福されなかった。


母が命を落としたからだ。


「お前さえ生まれなければ──」


幼いころ、ふとした拍子に耳にした父の言葉は、今でも耳に焼き付いている。


その一言を境に、私の居場所は消え失せた。


父は私を見ない。

兄は私を無視する。

使用人たちは、二人の態度に従う。

私は空気のような存在だった。

食事は与えられる。衣服も与えられる。

けれど、それ以上は与えられない。

誰も私に話しかけず、誰も私を必要としない。


「……でも、いつかきっと。」


それでも幼い私は、愛されたいと願った。


母が遺した面影を持つからこそ、きっと父も兄も、いつか振り向いてくれるのだと。


その一心で努力を重ねた。

礼儀作法を必死に覚えた。

読み書きも剣の訓練も人一倍励んだ。

屋敷の誰よりも早起きし、誰よりも遅く眠った。

だが、結果は変わらない。

父は冷ややかに視線を逸らし、兄は鼻で笑う。

使用人たちでさえ、私を見下ろすような目を向けた。


「……貴様、母上に似てきたな。」


兄が吐き捨てるように言ったことがある。


その時の眼差しには、憎しみと苦痛とが入り混じっていた。母の死の象徴として、私は存在しているのだ。愛を乞うほどに、拒絶は強くなる。私は孤独を抱きしめるしかなかった。


──そんな日々が十六年。


今日、私は成人を迎える。


他の貴族令嬢ならば、盛大な宴が開かれるだろう。舞踏会で踊り、縁談の話も舞い込むだろう。


けれど、この屋敷にそんな準備は一切ない。朝から鐘が鳴り響くのに、私の部屋の扉は閉ざされたまま。祝福の言葉など、誰一人として口にしない。


私は窓辺に立ち、光の差す方角を見つめた。

胸の奥で、冷たいものが積もり積もっていく。


──その瞬間。


頭の奥で、何かが砕ける音がした。


眩暈に似た感覚と共に、映像が溢れ込んでくる。


白い蛍光灯。

狭い部屋。

人で溢れた電車。

コンビニで買ったパン。

パソコンの画面に映るゲーム。

………

……


「……これは……」


理解するのに時間はかからなかった。

これは私の記憶。だが、この世界のものではない。


──前世、日本で生きていた記憶。


現代日本で、ありふれた人生を送った記憶が流れ込んでくる。死因は曖昧。だが、確かに私は一度死んだ。そして、この世界に転生したのだ。


「……そういうこと、ね。」


私は唇の端をわずかに吊り上げた。


愛を乞い続けた十六年の少女は、もういない。前世の理性と知識を取り戻した私は、別の存在へと変わった。窓から差し込む光が、やけに鮮烈に見えた。


私の中で何かが切り替わる。


それは執着からの解放であり、同時に冷酷な決意だった。


──十六歳の誕生日。

前世の記憶を取り戻した私の中で、世界はまるで違って見えた。これまで「努力しても報われない」と思っていた日々が、別の意味を持ち始めていた。それはただの冷遇ではなく、私を縛りつける鎖だったのだ。


けれど、今の私はもう、そんな鎖に縋らない。


「……試してみましょうか。」


前世の記憶の中で、私は無数のゲームを知っていた。RPG、MMO、シミュレーション。画面の中で使っていたシステムが、この世界にも存在している──そう確信した私は、心の中で言葉を唱えた。


「──ステータス」


視界に光が走り、透明な板のようなものが現れる。


そこには見慣れない文字ではなく、はっきりと理解できる言語で数値やスキルが記されていた。


【名前】リシェル=フォン=グランツ

【年齢】16

【称号】“母の忘れ形見”/“転生者”

【職能】魔導姫

【魔力】測定不能

【固有スキル】《眷属召喚》《霊界交信》《万象解析》《全魔法》


「……ふふ。これはまた、ずいぶんと。」


十六年間、無力な令嬢として扱われてきた。

けれど、実際は“規格外の力を秘めた存在”だったというわけだ。


皮肉にも、母が命を懸けて生んだ意味はここにあったのだろう。


「ざまあ、って感じかしらね。」


口から漏れた言葉は、冷たくも甘美な響きを持っていた。私はそのまま、視線を落とす。


──《眷属召喚》。


名前からして、従者を呼び出す類のスキルだろう。


ならば、試さない理由はない。


「来たれ──《眷属召喚》」


その瞬間、空気が震えた。


床に広がった影が、渦を巻くように蠢き出す。眩い光が立ち昇り、六つの影が実体を得ていく。


最初に姿を現したのは、人狼の戦士。

銀灰色の毛並みと鋭い爪を持ち、野獣の威圧感を放つ。


次に、影を纏った女騎士。黒鎧に身を包み、冷徹な瞳で周囲を見渡す。


続いて、翼を広げる漆黒の魔獣。鋭い嘴と爪は、一瞬で肉を引き裂くだろう。


四体目は、全身を漆黒の鎧で覆った無言の騎士。その存在感はまるで死の化身。


五体目は、白蛇を髪飾りのように纏った侍女。妖艶な微笑みと共に深々と頭を下げる。


最後に現れたのは、小さな悪魔のような存在。


小柄で愛らしい姿をしているが、その瞳には炎の光が宿っていた。


六体の眷属が一斉に膝をつく。


「主よ。」「命ずれば、我らはすべてを捧げるために動きます。」……


彼らの声は重なり、荘厳な響きを生み出す。

私は腕を組み、淡々と命じた。


「──荷物をまとめなさい。これ以上、この屋敷に留まる理由はないわ。」


「「御意に。」」


即座に動き出す眷属たち。


部屋に散らばっていた衣服や本、装飾品が一つ一つ丁寧に整理されていく。


魔法鞄が次々と開き、全てが収められていく様は、まるで高級ホテルの従業員が行うチェックアウト作業のようだった。


私は窓辺に腰掛け、黙ってそれを眺める。


わずか数分で、十六年間の生活が全て鞄の中に収まった。


「……あっけないものね。」


紅茶を口に含みながら呟く。


あれほど必死にしがみついていた場所が、今ではただの牢獄にしか見えない。


愛を求めて縋った過去の自分が、ひどく滑稽に思えた。


「さて──行きましょうか。」


立ち上がり、扉に手をかける。


だが、その瞬間。


「……お嬢様?」


扉の奥に低い声が聞こえた。


廊下に立っていたのは、長年この屋敷を仕切ってきた老僕だった。無表情を崩さず、常に私を“無視”してきた男。


その男が、初めてリシェルを「お嬢様」と呼んだ。廊下に立ち塞がった老僕の表情は、これまで一度も見せたことのないものだった。いつもは氷の仮面を貼りつけたように無感情で、ただ主の命に従うだけの男。


だが今、その仮面が崩れ、動揺が滲んでいる。


「お嬢様……その…お姿は…もしや…“覚醒”…されたのでは…?」


震える声。


その一言でさえ、リシェルにとっては異様な響きを持っていた。十六年間、一度も呼ばれなかった呼称。それを今さら口にするなど、滑稽というほかない。


「ちょうど良かったわ。今からこの家を出ていくから、後はよろしくね。」


私は淡々と答える。

彼の顔が苦渋に歪んだ。


「どうかお思い直しを。この屋敷を離れるなど……おやめください。」


「おやめください?あなたたちは、最初から私をこの家の人間として扱わなかったでしょう。ああ、そうか、“覚醒”とやらを果たしたこの私をこの屋敷から出したくないのね。そんな下らない理由で、道を塞ぐのはやめてくれない?」


老僕は口を噤む。

その沈黙こそが答えだった。


背後に控える眷属たちがわずかに気配を放つと、老僕の顔は青ざめ、道を開けた。


私は冷ややかに見やり、そのまま階段を下りる。


──石造りの階段は重く、足音が虚しく響く。


十六年間、私はこの音を聞くたびに家族の目に留まることを願った。だが、今日ほど冷徹に響いたことはない。


階段を降り切った先で、別の声が響いた。


「リシェル!」


振り返れば、そこにリシェルの兄がいた。


アルベルト=フォン=グランツ。


次期侯爵として育てられ、武と知の両方を兼ね備えたと称賛される男。


リシェルにとっては、決して届かない背中だった。


だが今、その顔には焦燥が浮かんでいる。


「勝手な真似は許さない!」


「ようやく声をかけてくれたのね、“リシェルの”お兄様。でも、この家で忌み嫌われた存在が出ていくだけ。何か問題がありますか?」


皮肉を込めて微笑むと、リシェルの兄は一瞬、言葉を失った。


怒りと羞恥が入り混じった表情。


「当たり前だ! お前はこの家の人間だ。勝手に出て行くなど──」


「家の人間?それを言うなら、十六年の間に一度でも、家族らしいことをしてみせてほしかったわ。」


リシェルの兄の表情が凍りつく。

その瞳に後悔の色がわずかに浮かんだ。


「ち、違う……俺は……母上を失った悲しみで……。」


「わかっているわ。母の死をリシェルのせいにしたかったのでしょう。でも──」


私は一歩近づき、静かに言葉を突きつけた。


「それは、あなたたちの弱さで、私には関係がないもの。今さら何かを言われても、私の知ったことではないわ。」


兄の唇が震え、拳が握り締められる。

怒りが爆発する寸前。

剣の柄へと手を伸ばすが──


バシィィィンッ!


「動くな。下郎がぁッ!」


影騎士が兄の剣を手刀ではたき落とすと同時に、威圧スキルを発動する。


圧倒的なプレッシャーを受けて、兄の身体が硬直して動かなくなる。


そして、その場の空気が一瞬で凍りつく。


「……っ!」


「リシェルのお兄様。私はあなたを憎んでいない。けれど、私の道を邪魔するなら──容赦はしないわ。」


声は低く、冷たい。兄は唇を噛み、剣を拾い上げる。私はそのまま背を向け、玄関へと進む。


そこにはリシェルの父が待っていた。


グランツ侯爵。

この家の主にして、常に鋼の威厳を保ち続ける男。リシェルにとっては恐怖の象徴であり、同時に愛を乞い続けた存在だった。だが今、その表情には動揺が浮かんでいた。


「リシェル。お前は……どこへ行くつもりだ。」


「決まっているでしょう。ここではない場所へ。」


「勝手は許さん! お前はグランツ家の──」


「侯爵。」


私は初めて、真っ直ぐに彼の瞳を見つめた。そこには深い影があった。妻を喪った悲しみを抱え、リシェルを呪いの象徴として見続けた眼差し。


「リシェルは、あなたにとって呪いだったのでしょう。」


静かに言葉を紡ぐ。


「でも、その呪いは今日であなたの前から去ります。邪魔をするなら容赦しません。この屋敷中の人間を集めても、私の眷属一人とすらまともには戦えませんから。」


父の瞳が大きく揺れた。声を発しようと口を開くが、言葉にならない。


玄関ホールに重苦しい沈黙が落ちていた。


父は蒼白な顔で立ち尽くし、兄は拳を握り締め、使用人たちはおびえたように固まっている。


私は扉の前に立ち、ゆっくりと息を吐いた。


「……めんどくさいなぁ。なんか私が悪いことしたみたいじゃん。」


ぽつりと呟き、右手を掲げる。

眷属たちが即座に周囲を囲み、警戒の布陣を取った。だが、私の視線は前だけに向けられている。


「──《霊界交信》」


低く詠唱すると、空気が震え、光の輪が広がっていく。柔らかな光が床を照らし、温かな気配が降りてきた。


そこに現れたのは、半透明の女性の姿。

淡い金髪に優しい瞳。

亡き母、エリナ=フォン=グランツ。


「…あなた達には、失望しました。」


静かな叱責。


その声を聞いた瞬間、父の肩が震え、兄の瞳から力が抜けた。使用人たちは一斉に床にひれ伏した。


「エ、エリナ……。」


父の声はかすれ、まるで少年のように弱々しかった。母は厳しくも優しい眼差しで彼を見つめる。


「あなたが悲しみを抱くのはわかります。けれど、その悲しみを実の娘に押しつけるのは違うでしょう。実の娘を虐めて楽しかった?あなた、本当に最低よ。見損なったどころじゃないわ。」


「私は……っ……」


「アルベルト、あなたもよ。」


母は兄に視線を移す。兄は蒼ざめた顔で俯き、拳を震わせていた。


「お前は強い子だったはず。けれど、すべての重しをリシェルに背負わせて、逃げた。それは卑怯者・臆病者にしかにすぎないわ。残念よ。本当に残念。」


「……母上……俺は……。」


兄の声は嗚咽に掻き消された。


私はそんなやり取りを冷めた目で眺める。

背後では眷属たちが素早くテーブルと椅子を用意し、日傘を掲げていた。


私は優雅に腰を下ろし、頬杖をつく。


──茶番だ。


十六年の冷遇を思えば、今さら悔いる言葉など砂のように軽い。けれど、母に言われなければ、彼らは永遠に気づかなかっただろう。


母の声が静かに響く。

 

「リシェルは私の命と引き換えに得た宝物。あなたたちがどう思おうとも、私にとっては誇りであり、愛しい子。その子を粗末に扱うなんて、あなた達には失望以上の念を抱きざるを得ません。使用人達もよ。あなた達に与えた祝福は、これ以上与えませんから。」


母がそう言い終わると、父・兄・使用人達から光の球体が飛び出して、空中で飛散した。


その光景に、父の目から涙が零れた。兄は嗚咽を漏らし、使用人たちは顔を上げたまま動きをとめた。


私は退屈そうに指を鳴らす。


影騎士が紅茶を注ぎ、私はそれを口に含んだ。 ──ようやく、幕が下りる。


母の姿が淡く霞み始める。彼女は最後にこちらを振り返り、優しく微笑んだ。


「リシェル……幸せにおなりなさい。」


私は、軽く手を振る。


母は苦笑し、こちらに向かって優しく手を振る。すると、光が消え、霊界との繋がりは途絶えた。


静寂が訪れる。


屋敷の人間のすすり泣きだけが、石造りのホールに響いていた。


私は椅子から立ち上がり、スカートを払った。


「──では、私は御暇しますので。」


扉の前に進み、全員の視線を一身に浴びる。

その重苦しい視線を、冷笑で切り捨てる。


「御機嫌よう。」


高らかに言い放ち、扉を開け放つ。

朝の冷たい風が頬を撫で、眩い光が差し込む。


──私は、もはやグランツ家の娘ではない。


自由を手にした一人の存在だ。

重い扉が閉じる音が背後に響いた。

同時に、慟哭のような声も。

だが、私は振り返らなかった。

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