10話 力
組みの構え、開いた手、重圧的な体制、腰に入れた重み。
全てがブラフ。
これだけの。
初撃、右ハイキックのための。
「~ッ…」
凛太が、歯を食いしばる。
凛太が驚いたこと、二つ。
一つ、低く重く構えた体制から、ハイキックが飛び出してきたこと。
二つ、繰り出した体制。
織は、左足だけでバランスを保ち、上体を低く構えたまま、右足のみが高く上がっていた。
凛太が後ろに下がり、リングロープに体を預ける。
「お前、どういうことだよ」
凛太は困惑していた。
あの体制で打てるのは、せいぜいローキック、さらに、ローであっても体制を崩すのが普通だ。
「わかったか?俺の特性を、さ」
織は左足に力を込め、片足で立ち上がる。
「…ああ、ミオスタチンか」
凛太が思い出したように言う。
ミオスタチン欠損症。
筋肉の成長を抑制する、ミオスタチンというたんぱく質が欠け、少ない運動量で筋肉が成長し、細い体格に筋肉が詰め込まれるという病気である。
織は、それを戦いに生かした。
「体力は、回復したかい?」
織が体勢をかがめたまま、凛太に話しかける。
「けっ、バレてたか」
凛太は脳の状態を確認してから、硬く構えなおす。
「意味ないっての、馬鹿ゴリラ」
織の口が、鋭く笑う。
口を固く締め、織がつっかける。
今度は、体勢が高い。
織の右拳が、凛太の顔に放たれる。
凛太は、後ろには下がれないため、頭を右に動かして避けようとする。
その時、凛太の頭の動きが止まった。
耳だ。
織は右手の、人差し指と親指で、耳を掴んで、凛太の頭を支えていたのだ。
織の足が、踏み込まれた。
千切られる。
だが、織の体が止まった。
凛太の左手が、織の右手首を掴んでいた。
凛太が左手に力を込め、織の右手が、耳から離れた。
「無理だぜ、馬鹿サル」
凛太の右足が、織の胸を貫いた。
織の眉間に、しわが寄る。
織の体が、後ろに下がる。
しかし、後ろに下がった織の体が、前に引き寄せられる。
凛太の握力は、蹴った体を引き寄せられるほど。
今度は右拳で、織の左頬を叩いた。
再び織が下がり、凛太が引っ張ろうとする。
その時、織の左足が浮いた。
織の爪先が、凛太の目に近づく。
「チッ」
凛太は手を離し、織から離れて蹴りを避ける。
そこから流れるように、蹴り足を掴み、握りしめる。
織の足首から、ミシミシ骨の軋む音が鳴る。
それを感じた瞬間、織の体が曲がった。
織の両手が、地面につき、逆立ちのような状態になった。
「ふんっ」
織の体に血管が浮き、腰が真っすぐになっていった。
織の体は、完全に逆立ちの状態になり、凛太の両手が地面から離れた。
織はバランス能力や、柔軟性があるわけではない。
それを補ったのが、異常な筋力だった。
凛太の体重と織の体重を合わせ、約百七十キロ。
その百七十キロを、両の腕の力だけで支えていたのだ。
織の首に、血管が太く大量に浮き出る。
下唇を歯で噛み、血が流れ出していた。
声にならない声を上げ、地面を突き放した。
倒立回転跳び、手で地面を突き放し、倒立の状態から、足で着地する技である。
足からの着地、つまり、凛太は頭から地面に触れることとなる。
凛太は足から手を離し、両手で地面に触れ、そのまま背中に移行し、ダメージを抑えた。
二人は、同時に立ち上がる。
織は凛太に背を向け、凛太は織を睨みながら立ち上がった。
「いつぶりだろうな、こんな追い詰められたの」
織が首を鳴らし、凛太へ振り向く。
「知るかよ、お前の事」
凛太が構えを直す。
「都の…四試合目ぐらいだっけなぁ。締め技は筋力どうこうが難しいからな」
凛太と違い、織は構えず、後頭部をかきながら話を続ける。
「何て名前だっけ、あいつ。
「知らん」
凛太があきれたように言う。
「あいつ、今も生きてるかな?俺殺しかけたから、まだ現役なのかもわかんないし」
凛太は、むずがゆそうに、織の話を聞く。
「そうそう。三試合目のマットイット・クルーラ。あいつは殺しちゃった気がする。都のな?」
「そうかい、異常者」
凛太はそう言うと、構えていない織に突っかけた。
右ストレート。
織の顔面に飛んでいく。
「こんなんだったな」
そう呟くと、右ストレートを避けた。
右?左?後ろ?違う。
下だ。
下半身は動かさず、腰を後ろに曲げ、頭を下にやったのだ。
異常な背筋だ。
凛太が思った通り、やはり、異常。
夢山織は、何から何までが異常だった。
「質問、俺はどうやってクルーラを倒したでしょう」
織は、肺が押し潰れてもおかしくない体制のまま、普通に話し始める。
「知るか」
言いながら後ろに下がった。
「正解は、これ」
織が走り出した。
凛太は手を開き、織の頭に向かって伸ばす。
手が触れる直前、織の体が急降下した。
一気に体制をかがめ、凛太の前に一気に立ち上がる。
織の右手が、凛太の頭を掴んだ。
わしづかみ、顔に覆いかぶさるように掴んでいた。
「これ。俺の握力は一級品だぜ?」
織の口が、三日月のように笑う。
「なら…握力勝負と行こうぜ!」
凛太の両手が、織の手首をつかんだ。
織は凛太の頭蓋を潰そうと、凛太はその手を握りつぶそうと、両者力を込める。
「おおぉぉ~…!」
握力勝負、凛太が優勢。
だが、これは握力勝負ではない。
「少しは学べっての。馬鹿」
凛太の産毛が、一気に逆立つ。
織の左手が、凛太の鳩尾を、貫手で突いていた。
凛太の目が、血走っていく。
「凛太!」
リングに近づき、龍一が凛太の名を叫ぶ。
(負けて、たまるかよ…俺は、俺は!)
カリッ。
今度は、織の産毛が逆立った。
「がぁ!」
織は叫んで、凛太の頭から手を離す。
凛太は鳩尾から手が離れたことによって、呼吸が荒くなる。
「あ、あれ!」
観客の一人が声を上げ、織の右手を指さす。
さっきまで凛太の頭を掴んでいた、右手の
「噛んだな…」
織が歯を食いしばって言う。
掌の皮は、他の部位よりも薄い。
凛太は掌の皮をかみ切ったのだ。
「痛いかい?こっからは…」
凛太が両手を、開けたまま自分の頭の両隣に置く。
「泥臭くいくぜ?」
凛太が踏み出した。
「そうかい。ならこっちも、それ相応の…」
凛太の両手が、織の頭を狙って飛び出した。
だが手が離れた頭に、織の右足がぶつかってくる。
「戦い方をさせてもらう」
織が言うと、右足を地面に降ろさず、そのまま凛太の頭を蹴った。
凛太の鼻から、赤い血が飛び出る。
織が追い打ちしようと、右足を降ろした。
その時、凛太が体を進め、両手を再び伸ばし、織の頭を掴んだ。
織は一瞬驚くが、すぐに冷静さを取り戻し、両脇を締め、両拳を脇腹の横に置いた。
織の拳が、凛太の腹を叩いた。
凛太は歯を食いしばり、右手を織の頭から離した。
その瞬間、織の左拳が降りあがり、凛太の顔面を狙った。
凛太の鼻に触れるか否かのとき、織の拳が止まった。
凛太の右肘が、織の首を曲げていた。
凛太が狙ったところは、頚椎。
頚椎を狙われると、人の意識はすぐに飛んでいく。
織の体が傾き、凛太の胸に頭を当てる。
「強かったぜお前」
凛太が織の頭を抱え、地面にそっと置いた。
「審判」
凛太が髙美に話しかける。
髙美がそれに応え、手を上げた。
「勝負あり!」
観客の声が、髙美の声をかき消す。
凛太はリングから降り、控室に戻っていく。
「よっ」
道中、後ろから声を掛けられた。
龍一だ。
龍一は左手を開いて、凛太に向けた。
凛太は龍一の左掌に、右掌を当てた。
パンっと、音が鳴った。
「次は、古八木のおっさんの試合だろ?」
凛太が控室で、首にタオルをかけている。
後ろには、龍一が立っていた。
「一緒に見に行くか?」
「いいけど、お前その状態で大丈夫か?」
龍一が、凛太の体を上から下まで見る。
凛太の体は、所々が赤くなっていた。
特に、脇腹の部分。
貫手でやられたところだ。
「大丈夫だよ」
そう言って、凛太は控室の扉を開けた。
凛太は控室を開けた瞬間、歩みを止めた。
「凛太?」
龍一が凛太と扉の間から、外を見た。
そこには、白シャツを着た、大きな男が、腰をかがめ、両手を広げていた。
凛太達には、背中を向けている。
額から汗を流し、シャツを濡らしている。
「む?」
男が立ちあがり、後ろの凛太達に振り返った。
龍一と凛太は、同時に気づく。
この男、MMA総合格闘技、ヘビー級チャンピオンである、藤戸勝だった。
「あぁ、すまないね。邪魔だったかな」
勝はさわやかに笑い、龍一たちに話しかけた。
「あんた、勝じゃんかよ」
「あぁ、そうだよ」
凛太は唖然として、勝を見る。
「じゃあ、俺は試合場に向かおうとするよ」
勝はその場を離れて、試合場の方に向かった。
「どっちも、強そうだな」
凛太が肩を浮かして笑った。
「まったくだよ」
龍一も、同じように笑った。
「古八木智、身長百八十七センチ、体重百三十二キロ。時牧戦録十三勝一敗」
「古八木のおっさん、またでかくなったな」
凛太が、壁に寄りかかりながら、龍一に言う。
「藤戸勝、身長百九十五センチ、体重百四十二キロ。時牧戦録、十一勝無敗」
勝は、白シャツのまま、リングに上がっていた。
「いい試合にしよう」
勝が笑って、智に言う。
「楽しく、踊り狂おうぜ」
智が言う。
「審判は私、正 東蓮が務めます」
東蓮、黒服のスキンヘッドである。
「では、始め!」
開始の合図と同時、勝の拳と智の拳が、交差しあい、お互いの頬を叩いた。
二人の体が、同時に後ろに傾く。
「ぬぅ!」
先に追撃したのは、智。
智の右拳が、勝の腹を殴った。
智が追撃しようとする。
だが、腕が動かない。
勝の両手が、智の手首をつかんでいた。
勝の格闘技、MMA。
勝が得意とするMMAの戦い方、それは、立ち技からグラウンドへの移行。
勝の右足が、智の左脛を蹴る。
智の体制が崩れ、体が前に崩れる。
悟の手首をつかんだまま、勝の背中が地面に落ちる。
勝が下、智が上の状況だ。
智は左手を振り上げ、肘を勝の頭頂部に振り下ろした。
肘は正確に頭頂部を打ち、勝の脳にダメージを与えた。
が、勝は止まらない。
右腕を、智の首を一周して、回った右手を左手でがっちりとしめた。
勝の右腕が、智の頸動脈を締め上げる。
このまま締め上げれれば、智の脳に血が回らず、勝の勝ちになるだろう。
締め上げれれば。
智は締め上げられる前に、両膝を立ててから、順に両足の平を地面につけ、勝の体ごと、立ち上がった。
勝の全身は、混乱に陥っていた。
なぜこの状態で立ち上がれるのか。
脳が困惑する。
背中がついていない。
いつもの締めと違う。
体が、迷っていた。
智のその異常なまでの筋力は、もちろん、試合開始前のドーピングが関係していた。
智は、幼いころ、虚弱気味の体質だった。
風邪などにかかるわけではないが、体が強いわけでもない。
捨てたかった、弱い自分を。
智は、運動しても、なかなか筋肉がつかなかった。
自主トレに自主トレを重ね、限界まで達しようというのに、体は反応を示さなかった。
結果、ドーピングをした。
目に見えて、成長がわかった。
それは、幸福感があり、智はドーピングを続けた。
だが、智は自主トレの限界値を、一切緩めなかった。
ドーピングで強くなる度、自主トレをキツくし、自分を追い込み続けた。
その後、智の体は異常な身体能力を身に着けた。
智は気づいた。
弱い自分を捨てたかったんじゃない。
そんな自分で、勝ちたかった。
智は今、勝ち上った場所に立っていた。
いま、勝は智を見下ろしている。
だが智は、自分の体で、立ち上がっていた。
「どっちが…落ちるかな?」
智は掠れた声で発し、目を血走らせながら笑った。
智の体が、前に倒れた。
ブラックアウト、気絶の類ではない。
前進だった。
勝の背中から、地面に落ちた。
「カハッ」
勝の肺が圧せられ、息が絶え絶えになる。
それは、智も同じこと。
先ほどまで、締め上げられていたのだ。
そんな状況下、智は指で口の中をいじり、飲み込んだ。
その瞬間、智が立ち上がった。
「薬だ」
龍一が呟いた。
智が、勝を見下ろした。
「立てるかい?チャンピオン」
智が見下ろながら、勝に言い放つ。
「あと、数秒くれるかい?」
勝が汗を流し、口角を上げて言う。
勝が深呼吸し、息を整える。
息が通常に近づいたころ、ゆっくりと立ち上がった。
「仕切り直し、ってことだよね?」
「さっきはいきなり殴り合いだったからな」
智と勝が、喋りあいながら構える。
お互い、オーソドックスなボクシングスタイルだ。
二人の呼吸が重なり合った瞬間。
動いた。
まず、勝の右拳が、悟の顔面に向かって真っすぐ放たれる。
智はそれを右によけ、右拳を勝の脇腹に打った。
勝の体が、衝撃で後ろに下がる。
それと同時に智が踏み出し、右ストレートを放つ。
だが、勝の右手が、智の右手を掴んだ。
勝の右足が、智の胸を貫く。
智が後ろに下がると、勝が追う。
智の顔に、左ハイが飛んできた。
智の目線が、上下逆になった。
10話 力 終
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