第6話 昔と今をつなぐ橋

【10月18日 本田義郎の自治会日誌】


 朝の冷え込みは、梨の皮をむくときのように、指先にまとわりつく。午前七時、私は慣れた手つきで自治会掲示板の鍵を開けた。錆びた南京錠が、がちゃりと鳴る。十月十八日、条例施行二日目――「健全な民主主義のための公明かつ適正な選挙の確保等に関する条例」。名前だけなら立派だが、名前だけでは腹も満たない。


 掲示板の上半分が、がらんとしている。昨日まで貼られていた「第42回梨まつり」のポスターは、撤去済みだった。代わりに、等間隔で並べられたのは、選挙立候補予定者の顔写真。まるで、商店街の活気を閉じ込めた遺影だ。風が吹くと、候補者の顔が、ビリビリと震える。私は、無意識に、腰に下げたタオルで額の汗を拭った。十月の朝に汗をかくのは、歳のせいか、それとも――。


「おい、本田さん! これ、どういうことだ!」


 怒声とともに、八百屋の徳さんが、傷だらけの梨の箱を抱えてやってきた。


「うちのポスター、剥がされた! 収穫期の最後の週なのに、客が来ない! 条例ってのは、商売を潰すためか!」


 私は、両手を挙げて、なだめるように口を開いた。


「徳さん、上半分は選挙用だ。下半分なら、‘地域情報コーナー’として――」


「下半分? 客の目線は上! 下なんて、誰も見ねえ! 昔は、ポスターどころか、候補者本人が、朝市に来てくれたじゃないか!」


 昔、という言葉が、胸の奥に突き刺さる。私も、思い出す。一九八〇年代、駅前の広場に、演説台が設けられ、候補者が、梨の詰め放題をしながら、商売の苦労を聞いてくれた頃を。


「待ってくれ。市役所に、話をつけてくる」


 私は、徳さんの肩を、ぽんと叩いた。錆びた南京錠を、再びがちゃりと閉めた。


---


 午後一時、市役所二階副市長室。石黒副市長は、窓の外を見たまま、話を聞いていた。


「自治会長、‘上半分は選挙用’というのは、市の方針です。七月の東京を、忘れてはいませんね?」


「忘れてはいません。でも、忘れてはいけないのは、東京の混乱だけじゃない。ここには、五十年続く梨祭りがあります。候補者の顔と、梨の顔が、並んでいた時代も」


 副市長は、ゆっくりと振り返った。


「歴史は大切です。しかし、民主主義の根幹を守るための、最低限の措置です」


「最低限、というが、地域の‘顔’が消えています。‘顔’が消えれば、‘声’も消える」


 私の声は、震えた。副市長は、黙って、書類を一枚、差し出した。「啓発チラシ」の案。デザインは、冷たい青ばかりだ。


「これを、自治会で配布してください。理解が深まるはずです」


 私は、チラシを受け取った。厚みは、ある。でも、温度は、ない。


---


 夕方四時、島田元自治会長の自宅。庭先に、古い写真アルバムが並ぶ。一九八五年の衆院選。駅前のポスター掲示板には、候補者の顔の横に、手書きのメモが貼られていた。「朝市、八百屋台、午後二時」「質問、高騰対策、子ども医療費」――まるで、候補者の“スケジュール帳”だ。


「あの頃は、ポスターが‘情報源’だった。今は、‘規制対象’だ」


 島田さんは、コーヒーをすすりながら、苦笑いした。


「本田さん、お前も、もう自治会長十年だろ。‘昔’に縛られすぎだ。でも、‘今’に流されすぎも、だめだ」


 私は、一枚の写真を、指でなぞった。候補者が、梨の箱を抱えて、子どもに手を振っている。背景には、「梨まつり」のぼりが、風にはためいている。


「‘昔’を、‘今’に繋ぐ橋が、必要だ」


---


 夜七時三十分、自治会だんす。住民二十人が、集まった。川村彩さんが、手を挙げた。


「会長、うちの梨、売れません。子どもの修学旅行費用、どうしましょう?」


 私は、啓発チラシを、配りながら、答えた。


「条例は、民主主義を守るためのルールです。上半分は、選挙の‘声’。下半分は、地域の‘声’――」


「‘声’が、上と下で分かれても、客は来ません!」


 他の手が、挙がる。若手主婦、定年男性、高校生まで。私は、手を上げて、場を静めた。


「では、‘声’を、一緒に作りましょう。昔は、ポスターに、手書きで‘メモ’を貼った。候補者の顔と、商店街の‘顔’が、並んだ。あの‘並び’を、もう一度」


 私は、封筒を取り出した。白い紙、十枚。各自に、配る。


「これに、皆さんの‘声’を書いてください。梨の値段、子どもの行事、商店のバザー――。その‘声’を、ポスターの‘横’に貼る。‘選挙の声’と‘地域の声’が、並ぶ。ルールは、守る。でも、ルールに、‘顔’を添える」


 川村さんが、クレヨンを取り出した。子どもが描いた、梨の絵。私は、それを、受け取った。


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 夜十時、自宅和室。私は、封筒の中身を、机に広げた。十枚の“声”。「訳あり柿、百円」「小学生のマラソン大会、雨天決行」「朝市、八時から」――まるで、一九八〇年代の“メモ”だ。私は、一枚を選び、啓発チラシの下に、添えた。そして、ペンを走らせた。


「この条例は、民主主義の防波堤。でも、防波堤に、‘顔’を描こう。‘選挙の声’と‘地域の声’が、並ぶ‘顔’を」


 私は、チラシを、コピー機にセットした。青い冷たい紙ではなく、オレンジの温かい紙を選んだ。梨の色だ。印刷ボタンを押すと、機械が、うなりを上げる。一枚、また一枚。‘声’が、‘顔’になる。


 私は、一枚を手に取り、呟いた。


「条例の真の効果は、歴史を踏まえた運用にある。歴史は、‘昔’ではなく、‘繋ぐ’ことだ」


 明日、朝市で配る。徳さんの店先で、川村さんの子どもと、一緒に。選挙の‘顔’と、梨の‘顔’が、並ぶ。私は、それを信じて、電気を消した。窓の外、銀杏の葉が、一枚、舞い降りた。私は、それを拾い、チラシの横に置いた。葉脈が、‘橋’に見える。

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