第2話 理想と現実をすり合わせる日
【10月17日 私のメモ】
朝七時半、マンションのベランダから市街を見おろす。十月の空は、まるで新調のコピー用紙みたいに白く、裏返せば青い。梨の収穫のピークは過ぎたが、東のほうに見える果樹園の屋根からは、まだ甘酸っぱい匂いが漂ってくる。条例施行の初日だというのに、街は静かすぎる。私はネクタイを締め直し、キッチンで淹れたコーヒーを一息で飲み干して市役所へ向かった。
八時四十五分、二階の小会議室。窓の外の銀杏並木は、まだ半分が緑で、半分が黄金だ。山城市長は、いつもより十五分も早く現れ、私の顔を見るなり切り出した。
「石黒さん、罰則なしで本当に機能するのか? 今朝のワイドショーは、もう“紙くず条例”って揶揄してたぞ」
佐久間課長が、震える手でマニュアルの最終稿を差し出す。
「違反が確認された場合は、①撮影・記録、②口頭警告、③公表、④繰り返し時は撤去。これで大丈夫です。法的根拠は、公職選挙法第百三十八条の三の“選挙運動の公正”に基づく……」
市長は、それを片手で制して窓のほうへ歩いていく。
「七月の東京を忘れるな。あのときのポスターは“表現”じゃなかった、“占拠”だった。罰則がなくても、行政が真正面から立ちはだかる姿勢を見せなきゃ、市民はルールを守らない」
私は、ノートパソコンの画面をスクロールさせながら、できるだけ平静を保った。
「市長、現場は“姿勢”より“言葉”で動きます。撤去の根拠、説明の順序、異議申し立ての窓口――これをスムーズにやることが、罰則の代わりになる」
市長は、銀杏の葉を一枚摘み取って、テーブルに置いた。
「じゃあ、頼む。今日一日、私の“理想”と、お前の“現実”をすり合わせてきてくれ」
理想と現実の“緩衝材”――それが副市長の仕事だ。私は、胸の奥で呟いた。
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午後一時、中心商店街。ポスター掲示板の前に、人だかりができていた。村井係長からの着信が、三回連続で鳴る。
「副市長、トラブルです。美容室‘ルミエール’のオーナーが、自店のクーポン券を三枚貼ったところ、青木が撤去を指示したら、‘表現の自由の侵害’と大声を出して……」
私は、小走りに現場へ。日差しは強く、銀杏の葉影がアスファルトに縞模様を描いている。オーナーは、四十代後半の小柄な女性で、手にしたビニール袋を激しく振り回していた。
「私たちの商売を潰す気!? 選挙ポスターだけがポスターじゃない! 商店街の情報欄は、昔からそうやって皆で使ってきたんです!」
私は、まず深く一礼して、できるだけ低い声で答えた。
「大変申し訳ありません。本条例は、選挙期間中の‘掲示板の公正使用’を目的としておりまして、商店街の日常情報を排除するものでは……」
「じゃあ、なんで撤去するんですか! 罰金も科さないくせに、ポリコレ行政ごっこなんてやめてください!」
周囲に、買い物客の視線が集まる。スマートフォンを構える人もいる。私は、額の汗を袖で拭った。
「ルールは、選挙を通じて候補者と有権者が出会う‘場’を守るための、最低限のエチケットです。選挙が終われば、もちろん商店街の情報欄は元通り……」
「エチケット? 私たちの生活が、政治の都合でいつまで制限されるんですか!」
その瞬間、私は、七月の東京を思い出した。あの日、ポスターは“言葉”ではなく“壁”になった。そして、今、目の前の女性は、“言葉”を奪われたと感じている。私は、両手を組んで、頭を下げた。
「今日のところは、撤去を待っていただけますか。三日後、事務局で話し合いの場を設けます。そこで、商店街の皆さまと一緒に、運用のすり合わせを……」
女性は、唇を噛みしめて、ポスターをビリッと剥がした。そして、私の足元に、落ち葉のように投げ捨てた。
「副市長さん、地方自治って、こういうことですか? 上が決めたルールを、下が我慢する?」
私は、答えられなかった。代わりに、ポスターを一枚拾い上げ、折りたたんで内ポケットに入れた。青木職員が、小声で呟く。
「副市長、マニュアルどおりにやったのに……」
私は、首を振った。マニュアルには、市民の“怒り”の量など、書かれていない。
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夕方五時、自治会館。古い畳の部屋に、本田自治会長が座っていた。七十代半ば、戦後まもなくこの街へ移り住んだという。
「石黒さん、あの掲示板はね、昭和三十四年の市制施行のとき、米軍のドラム缶を半分に切って作ったのが始まりだよ。地域の‘顔’だった。結婚式、葬式、子どもの受験合格……全部、あの板で知らせ合った」
窓の外、夕焼けが銀杏並木をオレンジに染める。私は、コップの麦茶を一口飲んで、答えた。
「だからこそ、選挙のときだけ、‘顔’を均等に並べたい。誰かの‘声’が、誰かの‘顔’を消してしまわないように……」
「うちの孫は、もうニュースはスマホで見るって言うよ。ポスターなんて、‘じいさんの遺物’だってね」
本田さんは、苦笑いして、畳を指で叩いた。
「でもな、石黒さん、‘遺物’を守るのも、自治会の仕事だと思うんだ。ルールは必要かもしれんが、ルールが‘記憶’を消さないでほしい」
私は、ノートに「記憶」と書いた。そして、隣に「ルール」と並べた。二本の線は、交わらない。でも、すり合わせることはできる。
「自治会長、これからは掲示板の‘半分’を選挙用に、‘半分’を地域情報用に使う‘分割運用’を検討します。選挙期間中だけ、ですが……」
本田さんは、しばらく黙って、外を見ていた。やがて、小さく頷いた。
「分割か……。まあ、すり合わせってのは、割れるよりましだろうさ」
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夜九時、自宅マンションのバルコニー。街灯の下、銀杏の葉が、一枚、舞い降りた。私は、テーブルに置いたノートパソコンを開き、市長への報告書を打ち始めた。
「本日の運用状況――トラブル二件、口論一件、理解ゼロ、前進一寸」
そして、一番下に、一行を追加した。
「罰則の有無ではなく、市民の理解が条例の命脈である」
部屋の中では、ビデオデッキが、古い映像を再生している。1985年、私が二十代で市役所に入った年の衆院選。ポスター掲示板には、等間隔に顔が並び、子どもたちが、候補者の名札を取り合って遊んでいる。画面の隅に、若い女性が、赤ちゃんを抱いて笑っている。あれは、誰だろう。今頃、孫がいる年齢か。
私は、ビデオを一時停止し、バルコニーへ戻る。街は、静かだ。でも、どこかで、誰かがポスターを貼り、誰かがそれを見ている。民主主義は、そうした、見えない“すり合わせ”の連続だ。私は、コーヒーカップを両手で包み、呟いた。
「地方自治は、細やかなすり合わせの連続――だから、明日も、すり合わせをやめるわけにはいかない」
風が、銀杏の葉を、もう一枚、落とした。葉は、ゆっくりと、バルコニーの手すりに乗った。私は、それを拾い上げ、ノートの間に挟んだ。明日、市長に、報告しよう。理想と現実の間に、一枚の“秋”が落ちていた、と。
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