おかしな噺 深縹

橘夏影

井戸

 

 寒さとカビの匂いに、意識を裂かれるように目を覚ます。

 

(……冷たい)


 背中からシャツ越しに伝わる、石の硬さと、冷たさ。そして浅く溜まった濁り水が、靴と尻を浸し、緩やかに体温を奪い続けている。

 息を吸うと、音が響く。匂いも、より鮮明になる。

 

 鼻を突くのは湿った土の匂い。苔とカビの青臭さが入り混じり、淀んだ水の鉄のような臭気が層となり、覆いかぶさる。

 枯葉が腐りかけているのか、微かな甘酸っぱさもあった。

 息を吸うたび、湿気た空気が胸に染み、自分という存在が、闇に融けていくように感じた。この深縹こきはなだの薄闇の底に。

 

 見上げると、蜘蛛の巣。そして、丸く切り取られた空に、星が瞬いていた。


(……そうか、井戸か)


 そこは、井戸の底だった。

 私は、井戸の底に降りた。なぜ降りたのか、どうやって降りたのか、その記憶は曖昧だ。

 

 深く息を吐き、滑る石に手をかけて、立ち上がる。底の泥がぬるりと絡み、動くたびに小さな波紋を立てた。

 水は足首ほどまでの高さだった。意識すると、その冷たさは骨を伝い、脳髄にまでせり上がってくる。

 ぽたりと落ちる水滴の音が、何倍にも膨らんで耳の奥に巣を張る。


 再び、井戸の口を見上げる。届かぬ星に、手を伸ばす。

 射し込む光は細く、頼りなく、それでも微かに水面に反射し、壁に模様を描いている。

 ゆらゆらと揺れるその様は、どこか遠い場所に生きる人の影のようにも見えた。


 水の中に腰を下ろすと、不思議と落ち着いた。

 ふと、水面にこんもりとした膨らみが見える。よく見るとそれは、蛙だった。半分泥に埋まって、じっと動かない。冬眠しているのかもしれない。

 膝に硬質な何かが触れる。カマドウマだ。払おうかと思ったが、やめた。ここでは、私の方がよそ者なのだ。

 

 いや……よそ者でない場所など、あるのだろうか。

 だが、それにしてもこれからどうしたものか。


(……これじゃあ、『ねじまき鳥クロニクル』だ)


 かの物語における、井戸――それは現実と幻想を繋ぐ境界。

 主人公はそこで孤独と向き合い、変容し、やがて地上に戻る。

 そんな再生のための通過儀礼の場。

 

 あるいは六道珍皇寺の井戸――あちらは、あの世への入り口。

 つまり、異界へと通ずる門。

 

 ふたつの井戸は、ともに境界だ。それでも、異なるかおをもつ。

 一方は籠り、やがては去る穴。かたや、行き来するための門。

 

 あの世――それは一方通行に思える。だが冥府降りは世界的な神話モチーフでもある。イザナミとイザナギの例に限らず。


(……そうだ)


 私にも、なにか約束があったような気がする。

 それは一体、なんだったろうか。思い出す必要がある。

 瞼を閉じる。薄闇の中を、なにかの小さい蟲のようなものが、蠢いていた。さらに意識を深く鎮め、奥にある二枚目の瞼を閉じる。

 

 

 

 *


 


 瞼を開ける。薄闇の中、黄色く淡い光が静寂しじまを揺らす。

 どこか遠くで、虫が鳴いている。毛布は温かく、柔らかさが指先に残る。

 視線の先には、愛しい連れ合いの横顔。

 微かに睫毛を震わせながら、静かに細く寝息を立てている。

 

 その頬に触れる。しっとりとして、柔らかい。

 現実とは、何か。


 顔を近づけると、淡く煙る香りに、心が安らぐ。

 そっと、その頬に舌先をつける。甘いような、苦いような、味がした。

 朝になったら、ちゃんと謝ろう。ちょっと、舐めてしまった、と。


 


 私は村長の和夫さんの元へと足を運んだ。井戸の話をするためだ。

 先日、井戸の底から死体が見つかった。

 元々、簡易的に木蓋がされているのみだったから、容易に取りのけられたのだろう。

 

 訊けばやはり、埋めるべきではないかという議論が出ているようだった。

 この村に来たばかりの頃、彼と話した小さな居間で、やはりその時と同じように、私は将棋盤を挟んで彼と向き合った。

 

「埋めて欲しくないんです」


 私はまず、そう伝えた。彼の、計るような瞳が、金縁の眼鏡の奥から私を捉える。


「地盤沈下や地下水の循環悪化のリスクもありますが、それ以上にあの井戸を大切に想っている方が多いのは、見ていて分かります」


 ここはかつて鉱山で賑わった村だ。山手には廃坑の口がぽっかりと開き、露頭の名残が石に刻まれている。

 坑内の水は生活の命綱でもあった。だから、井戸はただの穴ではない。

 井戸の脇には水神として「和多志大神わたしのおおかみ」を祀る祠がある。

 

 今回のような不幸を防ぐだけなら、安全基準を満たすような重い蓋の設置だけでも十分に思えた。


「きっと、息ができなくなる……」


 いつしか、私自身の言葉が漏れていた。


「ふん、まるで井戸の神のような台詞じゃな」


 そう言って笑う彼に、私は言葉を返せなかった。おかしなことを言っている自覚はあった。

 

「似たようなことはこれまでもあった。今回も、埋めるという話にはならんじゃろう。良くも悪くもな。それに――」

 

 くさいものに蓋をするばかりではいけない。彼はそう言いながら、節の目立つ指を盤面に差し、王手をかけた。

 

 

 

 彼の家を去った後、私はやしろへを足を向けていた。特に理由はない。強いて言えば、呼ばれているような気がしたからだ。

 五百段近い石段を上り、二の鳥居を潜り、手水舎で身を清める。そして三の鳥居を潜って拝殿に参拝した。


 帰り道、二の鳥居と三の鳥居のちょうど中間あたりに差し掛かった時だろうか。

 なにか、軽いものが脚に当たって、鈴の音がした。見ると、赤子の頭ほどの大きさの……毬?

 麻の葉模様が刺繍されたそれは、糸がほつれ、色も褪せて、ところどころ綿が覗いていた。

 そして近づく足音に気づいて顔を上げるのと、がそれを拾い上げるのは、ほぼ同時だった。


 少女の着物は新雪のように白かった。裾から袖にかけて、紅がじわりと滲むように染められている。

 その色は、椿の散り際にも似て、どこか血を引きずるように見えた。

 

 だがそれ以上に目を引いたのは、その髪と双眸だ。

 真っ白な髪だった。腰ほどまで、長く垂れている。

 村に、こんな娘はいなかったはずだ。でも不思議と、懐かしい感じがした。

 

 学生時代、アルビノで白髪の人がいた。一度も話したことはなかったが、なにしろ目立つ。いつも、サングラスをかけていたからその眼を見たことはなかったが、きっと白色か金に近いはずだった。

 でも、目の前の少女は、眠たげな瞼の奥に、まるで柘榴のような瞳を湛えていた。

 奇妙なのは、そんな異様にも関わらず、まったく作りモノには見えなかったことだ。

 

 肌がざわめいた。違和感しかないはずの存在が、真実味を、正当性を感じさせる。

 その髪は絹のように艶やかで、その瞳は、これまで見たどんな瞳よりも、深く、美しかった。

 

 ……いや、連れ合いほどではない。

 そんな浮ついた自分の思考につい笑いが漏れそうになったとき、彼女が先に笑った。

 微笑みというには、どこか傲慢な、見透かしたような笑み。


 汗が、背中を伝うのを感じた。

 彼女は音もなく私に歩み寄る。

 私は、思わず膝を折った。

 抗おうとする意思は、舌の上の粉砂糖も同然に、溶けていった。

 吐息が、耳元を撫でる。

 

 ――君の神様は、どこにいるのかな?


(僕の……神……?)

 

 声は近く、甘く、意識の縁をなぞるように。

 身体が震え、耳鳴りがして、視界が歪む。


 ――ちゅうちゅう。


 なにかを吸う音、あるいは、鼠の鳴き真似だろうか。

 そんな、どこか揶揄からかうような声が耳を掠める。

 振り返ると、そこは闇だった。

 視界が漆黒に塗りつぶされ、平衡感覚を失いそうになる。

 地を踏む感覚がなかった。


 遠くに光が射したように見えた。

 かと思えば、すぐに角を曲がるかのように、消えてしまう。

 私はそれを、追いかける。

 甘く濃厚な花のような匂いがして、頭の芯がどんよりと重くなった。

 

 光だと思っていたそれは、よく見ると、なにかの尻尾のように見えた。

 白く、つるりとした、蛇のような尻尾だ。

 何度目かの、見えない〝角〟を曲がった後、ようやくそれに、指先が触れる。


 その瞬間、ぬるりとした感触が這った。

 掴んだと思ったものは手をすり抜け、代わりに艶めいた房が絡みついた。


 目の前に大輪が咲く。花びらかと思ったそれは、次第にぬめる質感を帯び、蠢く。

 髪だ、と理解するより早く、それは私の四肢の自由を奪っていた。

 

 彼女――否、の者。

 きっと、名を呼んではならないもの。

 その存在に、まるでイソギンチャクに捕食される小魚のように、私は吸い寄せられ……嗚呼、なにか聴こえる。

 これは、唄だろうか――



 

 籠のほとりにて うつせみの子

 我が鼠こそ こゝろ和らげしものなれ

 たまゆらの温もり やは肌なす背を撫でしを

 いまは夢にまぎれぬ


 されど 夕まぐれ 沼のほとりに

 忍びよるものの気配ぞ しとしとと降りしきる

 ひと夜のうちに 深き緑のもの

 いとも易く我が子を呑みぬ


 掌のうち かそけき温もり残しつ

 夢のしっぽをのみ 名残惜しみ

 あかつき来たれば 世の仮のかゞやき

 常のごとく顕るとも

 わが胸の底 君の影はなおもやすらぎなく

 遠き沼底にて 小さき声もて

 いましも跳ね惑ふらむか

 

 

 

 *



 

 気づけばまた、あの井戸の底。

 見上げると、月が見えた。上弦の月だ。

 

 のヒトガタの言葉を思い返す。

 自分にとっての、神。信仰と呼ぶべきもの。

 私もまた多くの日本人と同じに、自覚的に何かの信仰を持っているわけではない。

 それでも、墓参りはするし初詣にも行く。そういう土着的に染みついているものはある。

 

 ただ、誰に言われたわけではないが、自分の中で紡ぎあげてきた信条のようなものも、あるように思う。

 それは、社会が決めたものではない。

 あるいは、人はそれを、誠実と呼ぶのかもしれない。

 

 自分にとっての。あるいは、大切な誰かにとっての、誠実。

 それを成そうとする意志。それもまた、ひとつの超自我であるような気がする。


 視線の先、井戸の壁を何が這っていった。

 たぶんゲジか、ムカデだろう。


 家族のために、自分も周りも擦り減らし、金曜の夜には歓楽街に消えていく。

 そんな〝誠実〟も、世の中にはあるのかもしれない。

 私には、理解し難いけれど。

 理解はできるが、共感できないという方が、正確か。

 

 ただ、社会規範と一致しなくとも、それでも貫こうとするのは、ひとつの〝強さ〟なのだろうとも思う。

 もっとも、社会規範と、社会力学は、別だ。

 露呈すれば一時いっとき、後ろ指を指されるようなことも……後ろ盾さえあれば、ほとぼりが冷めるのを待てばいい。

 後ろ盾がなかったとしたら……?それは、受難の道だ。

 構造的な強さと、個人の強さもまた、別だ。

 借り物の強さを身に纏うのは、弱さ故の賢しらか、あるいは――


(……エゴ)


 無意識イド自我エゴ超自我スーパーエゴ

 フロイトの提唱した原義において、自我エゴは本来、仲介役だ。無意識イドの欲求を、現実や社会規範と折り合わせるためのかすがい

 だが日常においてエゴが叫ばれるとき、それはほとんど、イドのようなニュアンスをもつように思う。

 

 結局、自分にとってのエゴは、誰かにとってのイドに過ぎないのかもしれない。想像力不足で、身勝手で、偏った、脆弱なもの。そこに悪意や恣意があるかどうかなど、分かりようもない。


『分からなければ、警戒するしかない』

『分からなければ、搾り取ってやろう』


 そんな風に、結局はポリティクスがものをいうのかもしれない。

 そこにもう、外から眺めた境界は、たぶん、ない。

 おかしな噺……いや、きっと必然なのだろう。

 でもだからこそ――


(……物語を……書かなければ……)


 それも、ただのエゴかもしれない。それでも、私は書くのだ。

 誰に認められる必要もない。

 この井戸の底の水面のように、揺れ動きながら……まなざし、憧れながら……月と星に、手を伸ばし続ける――

 

 私の誠実を、成すために。

 

 約束を、果たすために。

 

 想いに、報いるために。

 

 それが私にとっては、物語を書くことだというだけだ。

 

 瞼を閉じよう。そして、ふたつ目の瞼を、開くのだ。

 次の物語を紡ぐために。

 風花が舞い、本格的な冬が来て、井戸水に、身体が冷え切る前に。


 それに……彼女がお腹を出しているかもしれない。

 ああ見えて、少しだけ寝相が悪い。それは、私だけが知る、小さな秘密だ。


 毛布を、掛けて差し上げないと。




 井戸ego・了

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