第9話「告発と逆転」
午後2時。北辰自動車の事務所は静まり返っている。
外回りの社員が出払っており、電話の音だけが時折響く。
只野は、真理子からの短いメッセージを受け取っていた。
「今なら社長はいません。話せます」
只野は迷わず社用車を走らせ、北辰自動車へ向かった。
只野は、事務室の奥にいる真理子を見つけると、静かに声をかけた。
「少しだけ、お時間いただけますか」
真理子は一瞬だけ目を伏せたが、無言で頷き、応接室へと案内した。扉が閉まると、空気が変わった。外の喧騒が遠のき、二人だけの静寂が訪れる。
只野は、ポケットから前回のメモを取り出した。
「このメモ…なぜ、渡してくれたんですか?」
真理子はしばらく黙っていた。視線はテーブルの上に落ちたまま、指先がわずかに震えていた。
「……見てきたんです。何人も。無実なのに、異動させられていく人たちを」
只野は息を呑んだ。
「社長と支店長が、演技で部下を追い詰めるのを、ずっと見てきました。誰も逆らえない。誰も証拠を残さない。だから、みんな黙って去っていくんです」
真理子の声は、静かだったが、確かな怒りと悔しさが滲んでいた。
「私は…そのたびに、何もできなかった。見て見ぬふりをしてきた。だから、あなたにメモを渡した時、少しだけ…償いができる気がしたんです」
只野は言葉を失った。彼女の告白は、ただの情報提供ではなかった。長年の罪悪感と、沈黙の重さを背負った決意だった。
真理子はバッグからUSBメモリを取り出した。
「これが、あの夜の映像です。社長と支店長が二人で飲んでいて、“今回も上手くいった”と笑っているところが映っています」
只野は受け取ったメモリを見つめながら、静かに尋ねた。
「それでも…なぜ、社長を裏切るんですか?あなたにとっては…父親じゃないんですか?」
真理子は、ゆっくりと首を振った。
「はい、実の父です。でも、父親らしいことなんて、一度もしてくれなかった。小さい頃から、暴力ばかりでした。母が逃げてからは、私が標的でした」
只野は言葉を失った。真理子の目には、涙はなかった。ただ、長年の痛みが静かに滲んでいた。
「会社を辞めます。もう、誰にも支配されない人生を生きたい。これは…決別の証です」
只野は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。必ず、正しく使います。誰かが、止めなければならない」
真理子は微笑んだ。それは、初めて見せた、ほんのわずかな安堵の表情だった。
翌日、只野は支店長室に呼ばれた。北沢支店長はいつものように穏やかな笑顔を浮かべていたが、その目は冷たかった。
「只野君、急だけど秋田支店に異動してもらうことになった。社長の意向だ。君には少し休養が必要だと思ってね」
只野は一瞬、言葉を失った。だが、すぐに立ち上がり、ポケットからUSBメモリを取り出した。
「このビデオを見てください」
支店長は怪訝な顔をしたが、只野がノートPCにメモリを差し込むと、画面に映像が流れ始めた。
居酒屋の個室。社長と北沢支店長が酒を酌み交わしながら、大笑いしている。
「今回も上手くいったな。只野、顔真っ青だったぞ」
「いやあ、あいつ真面目だからな。責任感強いし、押しつけるにはちょうどいい」
「次はどうする?異動させて、潰すか?」
只野は映像が終わったノートPCの画面を閉じることなく、支店長の顔をまっすぐに見据えた。沈黙の中、ゆっくりと立ち上がり、机の上にUSBメモリと報告書を置いた。そして、静かに口を開いた。
「…支店長。これが、あなたたちの“真実”です。もう言い逃れはできません。これまで何人の部下が、あなたと社長の“演技”によって犠牲になったんですか?何人が、無実のまま異動させられ、キャリアを潰され、家族を抱えながら不安の中で働き続けてきたんですか?」
只野の声は震えていなかった。怒りを抑えた、確かな覚悟の声だった。
「私も、最初は自分のミスかと思いました。歓迎会の空気、社長の圧力、あなたの態度。全部が私を責めているように感じた。でも、違った。これは仕組まれた罠だった。あなたたちは、私の責任感につけ込んで、罪を押し付けようとした。まるで、使い捨ての駒のように」
支店長は言葉を発しようとしたが、唇が震えるだけで声にならなかった。
「異動するのは、私じゃありません。あなたです。会社に損害を与えたのは、私ではなく、あなたと社長です。部下を欺き、組織を私物化し、信頼を踏みにじった。これはもう、個人の問題ではありません。組織の根幹を揺るがす、重大な背任行為です」
只野は報告書を指差した。
「この映像と記録は、社内コンプライアンス部に正式に提出します。私の感情ではなく、事実が判断する。あなたの言葉ではなく、証拠が語る。これ以上、誰かが犠牲になるのを黙って見ているわけにはいかない。私は、正しいことをするためにここにいます」
そして、最後に一歩前に出て、静かに言い放った。
「支店長。あなたは、もう終わりです」
その夜、只野は微笑みながら、リビングのソファに腰を下ろした。
机の上には、いつもの手帳が置かれている。ふと、あの日の予定——「北辰自動車社長との商談」が記されていたページを開く。
自分では書いた覚えのないその文字。
だが、見覚えのある筆跡。あの日、何故か足が向いた北辰自動車。何故、社長との商談が突然予定に入っていたのか。
その時、静かに耳元でコピオの声が囁いた。
「あれは、僕が書かせたんだよ。君の手を借りて、手帳に。無意識のうちにね」
只野は目を閉じた。コピオの声は、いつもよりも穏やかだった。
「君があの日、社長と会う必要があった。それは偶然じゃない。北沢支店長と北辰工業の社長——二人の“悪”を取り除くために、君が動く必要があったんだ」
「君は正義感が強い。でも、それだけじゃ足りない。タイミングと、証拠と、覚悟が必要だった。だから、僕は君を導いた。あの手帳の一行が、すべての始まりだった」
そして、只野は静かに手帳を閉じた。
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