第5話「昇進試験の答え」

只野は、長野支店の自席で静かに報告書をまとめていた。

外は冷たい風が吹き始め、窓の外の木々が色づき始めていた。

秋の深まりとともに、彼の心にも一つの季節が終わりを告げようとしていた。

その時、内線が鳴った。


「只野くん、堀内部長が応接室で待ってる。すぐに来てくれ」


呼ばれた瞬間、只野の胸に小さな波が立った。

昇進試験の結果はまだ知らされていない。だが、何かが動いた気配があった。

応接室のドアを開けると、堀内が穏やかな笑みで迎えた。


「座ってくれ、只野くん」


只野が静かに腰を下ろすと、堀内は一枚の辞令書を差し出した。


「おめでとう。君を、札幌支店の課長として内示する」


その言葉に、只野は一瞬言葉を失った。

昇進試験の結果よりも先に、現場からの信任が届いたのだ。


「……ありがとうございます」


只野の声は、少し震えていた。

堀内は頷きながら、続けた。


「札幌支店は、今いろいろと問題を抱えている。営業成績も、人間関係も、正直言って厳しい。だが、君なら向き合えると思った。制度の中で声を上げる覚悟を持った人間にしか、任せられない場所だ」


只野は、静かに堀内の言葉を噛み締めた。


只野は、少しだけ目を伏せた。面接で乾に伝えた言葉が、今も胸に残っていた。


「……堀内さん。乾さんから、何か言われていませんか?」


堀内は、少し驚いたように首を傾げた。


「乾さん?いや、特に詳しい話は聞いていない。ただ、君の面接後に“制度を育てるという言葉、忘れません”とだけ言っていたよ。何か、印象に残るやり取りがあったのか?」


「ええ。僕は、制度の中で声を上げることの意味を話しました。評価されるためじゃなく、制度を育てるために、言葉を届けたかったんです」


堀内は、少し目を細めた。


「なるほど……乾さんがそんな言葉を残すとはな。彼は、制度の守護者のような人間だ。君の言葉が、何かを揺らしたのかもしれない」


只野は、ふと面接室での乾の表情を思い出した。あの揺れた目。

資料を閉じる手の震え。制度の守護者としての矜持の奥に、かつて声を失った者の痛みがあった。


「……乾さんも、かつて声を上げようとした人だったんですね」


堀内は静かに頷いた。


「かもしれん。だからこそ、君の言葉が届いたんだろう。

制度は、誰かが声を上げなければ変わらない。君は、その一歩を踏み出した」


只野は、深く一礼した。


「札幌支店、必ず立て直します。僕は、制度の中で人を育てるために、

現場に立ちます」


堀内は、満足げに笑った。


「期待してるよ、只野課長」


――数日後。

只野は、長野駅のホームに立っていた。手には営業手帳と、札幌支店への辞令書。

秋風が吹き抜ける中、彼は静かに空を見上げた。

空は高く、澄んでいた。遠くに見える山々の稜線が、これから向かう北の地を思わせた。

列車がホームに滑り込む。只野は、ゆっくりと歩き出す。

その背中には、制度に挑んだ者の覚悟があった。

声を上げることの意味を知り、誰かの記憶に残る言葉を刻んだ者の誇りがあった。

札幌支店は、確かに問題を抱えている。だが、只野は恐れていなかった。

制度の中で、声を上げる者がいる限り、組織は育つ。

そして、彼はその“揺らぎ”をもたらす者として、北へ向かう。

列車の窓から見える景色が、少しずつ動き出す。

只野は、営業手帳を開いた。

そこには、あの日の問いがまだ残っていた。


「評価されないと感じたとき、何を“見られていない”と思ったか?」


只野は、静かに微笑んだ。


「今なら、答えられる気がするよ」


窓の外に広がる秋の風景が、彼の旅立ちを優しく包んでいた。

――制度の中で、声を上げる者が現れた。

その一歩は、確かに未来を変える力を持っていた。


札幌行きの列車が遠ざかるホーム。

その光景を、現在の只野とコピオは、記憶の断片の中から静かに見つめていた。

若き只野が営業手帳を開き、問いに微笑みながら旅立つ姿。

その背中には、迷いも不安もあったが、それ以上に確かな“覚悟”が宿っていた。

只野は、隣に立つコピオにぽつりと語った。


「……あの時の俺、よく言ったな。乾さんに、あそこまで。怖かったはずなのに」


コピオは、柔らかな声で応えた。


「怖かったからこそ、言えたんです。声を上げる者は、いつだって揺らぎの中にいます。でも、その揺らぎが制度を育てる。あなたは、それを信じた」


只野は、列車の窓に映る自分の姿を思い出すように、目を細めた。


「札幌支店に向かうあの瞬間、俺は“課長になる”ってことより、“誰かの声になる”ってことを選んだんだと思う。あの手帳の問いが、俺を動かした」


コピオは、静かに頷いた。


「問いは、答えよりも深く残ります。あなたが過去の自分に残した問いが、未来のあなたを育てた。それが、記憶の力です」


只野は、少し笑った。


「コピオ。お前がいなかったら、あの問いは残せなかった。ありがとう」


コピオは、風のように軽やかに笑った。


「私はただ、水面に波紋を広げただけ。動いたのは、あなた自身です」


只野は、列車が遠ざかるホームを見つめながら、静かに呟いた。


「札幌支店で、また誰かの問いになれるように。俺は、あの時の覚悟を忘れない」


その言葉に、コピオはそっと寄り添った。

――制度の中で、声を上げる者がいる限り、組織は育つ。


そして、問いを残す者がいる限り、記憶は未来を照らす。


只野の旅は、まだ続いている。だが、あの秋の日の一歩が、すべての始まりだった。


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