路地裏の自販機が売っていたのは、失くした青春でした

藤宮かすみ

第1話「路地裏の自動販売機」

 アスファルトを叩く雨音だけが、俺の存在を証明しているようだった。


 金曜日の夜。一週間の疲労と、週末を迎える気力さえも削り取られた体を引きずり、俺、相馬健吾は家路についていた。IT企業の中堅、という聞こえはいいが、実態は上司と部下の板挟みになり、終わりの見えないプロジェクトの波に溺れるだけの毎日だ。使い古したスポンジみたいに、気力も体力も吸い尽くされて、ただ重いだけ。


 折り畳み傘に当たる雨粒が、無機質なリズムを刻む。湿った夜の空気が肺を満たし、吐き出す息は白く濁ってすぐに消えた。いつものコンビニ、いつものコインランドリー。見慣れた景色が、まるでモノクロ映画のセットのように色を失って見えた。


 その、いつも通りの曲がり角を曲がった時だった。

 ふと、視界の端に、これまで気づかなかった光が滲んだ。薄暗い路地の奥。ゴミ収集所の隣、アパートの壁に寄りかかるようにして、ぼんやりと光る何かがある。


 なんだ、あれは。

 好奇心というよりは、プログラムされたロボットが未知のオブジェクトを認識したような、そんな無感情な興味だった。何かに引き寄せられるように、俺は水たまりを避けながら路地裏へと足を踏み入れた。


 そこに佇んでいたのは、一台の自動販売機だった。

 時代から完全に取り残された、旧式のそれ。塗装は所々剥がれ落ち、昭和の香りがするロゴが辛うじて読み取れる。商品見本のランプも歯が抜けたようにいくつか切れていて、並んでいるのは見たこともないような懐かしいデザインの缶ジュースばかりだ。


 だが、その一番右下のスペースだけが、明らかに異質だった。

 商品プレートは白く、何も書かれていない。値段表示は「???」となっていて、本来あるはずの見本品の代わりに、黒いベルベット生地の小さな袋がちょこんと置かれている。まるで、ここだけが別の世界の入り口であるかのように。


「なんだよ、これ……」


 思わず声が漏れた。悪趣味ないたずらか、それとも何かのオブジェか。

 どうでもいい。早く帰って、泥のように眠りたい。そう思うのに、足はその場に縫い付けられたように動かなかった。


 もう、どうにでもなれ。

 そんな投げやりな気持ちが、疲労で麻痺した脳を支配した。俺はコートのポケットを探り、冷たい感触の硬貨を数枚取り出した。百円玉を三枚、無機質な投入口に滑り込ませる。ガチャン、という古めかしい音が、やけに大きく響いた。


 すると、白紙プレートの下にある、何の変哲もない四角いボタンが、ぼうっとオレンジ色の光を灯した。まるで、俺の選択を待っていたかのように。


 迷いは、なかった。

 いや、迷うだけの気力が、もう残っていなかった。

 俺は人差し指を伸ばし、そのオレンジ色の光を、ためらいなく押し込んだ。


 ゴトン、と腹の底に響くような、重い音がした。

 取り出し口のプラスチックの蓋を押しのけると、そこにはあの黒いベルベットの小袋が静かに横たわっていた。


 手に取ると、ずっしりとした金属の感触が伝わってくる。思ったよりも重い。袋の口を縛る紐を解くと、中から滑り出てきたのは、一本の古びた鍵だった。


 西洋の古い城で使われていそうな、複雑で美しい装飾が施された真鍮製の鍵。持ち手の部分は蔦の葉を模したようなデザインで、先端の鍵山は見たこともない複雑な形をしていた。これが三百円。ジュース三本にも満たない値段で手に入れた、奇妙な骨董品。


 形容しがたい不気味さと、ほんの少しの期待感が入り混じった感情が胸をよぎる。俺は鍵を小袋に戻すと、それをコートのポケットの奥深くにしまい込み、今度こそ、その場を早足で立ち去った。


 振り返りはしなかった。

 ただ、背中にあの自動販売機のぼんやりとした光を感じながら、雨に濡れたアスファルトの上を、ひたすらに歩き続けた。

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