第3話 妹からの些細な助言

 千葉蒼真ちば/そうまは、街灯の淡い光に照らされた住宅街を歩いていた。

 放課後、今日の放課後から親しくなった大橋紅葉おおはし/くれはと喫茶店でのひとときを過ごし、数分前に街中で別れたのだ。


 今日はいろんなことがあったなと、蒼真はそんな事をぼんやり考えながら歩みを進めると、視界の先に白い外壁の二階建てが見えてくる。

 どこにでもある、ごく普通の家。蒼真の自宅だ。

 蒼真は玄関のドアを静かに開け、そっと中へ滑り込む。


「ただいま……」


 小さな声で呟きながら、靴を脱ぐ。すると、階段を軽快に下りてくる足音が耳に飛び込んできた。

 現れたのは、妹の千葉凛音ちば/りんね

 長い髪をポニーテールにまとめ、クールな視線で兄である蒼真を一瞥する。

 同じ高校に通う一年生の妹は、すでに帰宅していたらしい。


「おかえり」


 凛音はぶっきらぼうに一言。

 いつもの妹らしい、そっけない態度だ。


 昔はもっと無邪気で、兄妹で笑い合った日々もあったのだが、いつからか凛音は無口で真剣な雰囲気をまとうようになった。

 妹はリビングへ向かい、蒼真は軽く肩をすくめてその背中を見送ると、階段を上った。


 二階の自室に辿り着いた蒼真は、通学用のリュックを床に放り投げ、電気もつけずに真っ暗な部屋のベッドにドサリと腰を下ろした。

 一人きりになると、どっと疲れが押し寄せてくる。心の奥底で重くのしかかるのは、数時間前の出来事。


 一年近く付き合っていた黒沢朔菜くろさわ/さくなとの関係が、突然の終わりを迎えたことだ。

 朔菜にフラれ、しかも副生徒会長の内山櫂うちやま/かいに奪われたような形になり、ショックと虚無感が蒼真の胸をギュッと締め付けた。


「これから、どうすればいいんだよ……」


 呟きながら、蒼真はベッドに仰向けに倒れ込んだ。

 天井の白い壁をぼんやり見つめ、深いため息が漏れる。


「でも、紅葉と仲良くなれたのは、悪くないよな。とりあえず、付き合うことになったわけだし……少しは前向きになれる、かな?」


 自分を励ますように呟いてみるものの、声にはまるで力がなかった。

 紅葉との時間は確かに楽しかった。彼女のキラキラした笑顔や、軽い冗談で笑い合う瞬間は、蒼真の心をふわっと軽くしてくれる。

 でも、朔菜への想いを完全に振り切るのは、そう簡単じゃない。


「フラれるって、こんなにキツイもんか……」


 目を閉じ、静かな部屋に響く自分の呼吸音に耳を傾ける。

 明日からの学校生活を考えると、胸がざわざわと騒ぐ。


 紅葉との新しい関係、朔菜との気まずい距離、そして櫂の存在。

 すべてが複雑に絡み合い、蒼真の心を揺さぶっていた。

 それでも、どこかで小さな希望が芽生えているのも事実だ。


 喫茶店で見た紅葉の笑顔を思い出すと、ほんの少しだけ、前に進む力が湧いてくる。

 蒼真はゆっくり体を起こし、真っ暗な外の景色を見ながらカーテンを閉めると部屋の電気をつけた。


「まぁ、なんとかなるだろ。っていうか、何とかするしかないよな。とりあえず、明日も頑張ってみるか」


 小さく呟き、ベッドから立ち上がると、机に向かった。

 椅子に腰を下ろし、ノートを開く。

 夕食前に課題を片付けておこうと思った。




 課題を終えた蒼真は、夜の八時頃に、一階のリビングにいた。

 ダイニングテーブルには、湯気の立つ味噌汁と焼き魚が並び、家庭の温もりが漂っている。そんな穏やかな空気の中、蒼真は箸を握りしめたまま、深いため息をついた。


「はぁ……」


 心の奥底で、モヤモヤとした感情が渦巻いている。胸を締め付けるような、やり場のない苛立ちが蒼真を支配していた。


 でも、それを口に出すのは、なんだか気恥ずかしい。

 誰かに話したところで、解決するわけじゃない。そう思いつつ、ふと視線を感じて顔を上げると、テーブルの向かい側に座る凛音が、ジトッとした目でこちらを見つめていたのだ。


 その視線は、蒼真の心の内を覗き込むような鋭さを持っている。

 凛音は感情をあまり表に出さないタイプだ。

 いつもクールで、ちょっと近寄りがたい雰囲気すら漂わせている。


「えっと……何?」


 蒼真が声をかけると、凛音は少しだけ眉を動かした。


「いや、なんか兄さん、暗い顔してるなって。なんかあった?」


 妹の声はそっけなく、でもどこか心配そうな響きがあった。


「別に、なんでもないって」


 蒼真はそう言いながら、視線を焼き魚の皿に落とした。

 心の中では、そんな簡単に話せるかよと思いながら、誤魔化すように魚を箸でつつく。


「ふーん。まぁ、兄さんがそう言うならいいけど」


 凛音は特に追及せず、味噌汁をすすり始めた。

 その落ち着きぶりに、蒼真は内心驚く。

 逆に自分から悩みを打ち明けるのは、なんだか気が引けた。だから、ちょっと遠回しに聞いてみることにした。


「なあ、凛音。もし、恋人に浮気されたら、どうする?」


 突然の質問に、凛音の箸がピタリと止まった。妹は怪訝そうな顔で蒼真を見上げ、眉をわずかに寄せる。


「は? 急に何? まさか、兄さん、浮気されたとか?」

「ち、違うって! いや、そういうわけじゃなくて。ほら、もしもの話だよ! 凛音ならどうするかなって、気になっただけ!」


 蒼真は慌てて手を振って否定した。顔が少し熱くなるのを感じながら、なんとか平静を装う。


「ふーん。変なの。急にそんな話振ってくるなんて」


 凛音は少し不満げに呟きつつ、またジトッとした目で蒼真を睨んだ。

 妹は味噌汁の椀をそっとテーブルに置き、考えるように首を少し傾げる。


「でも、まぁ……私なら、浮気するような奴とはもう関わらないかな。スパッと切るよ。そんな裏切り、許す価値ないし」


 その言葉は、凛音らしいストレートさで放たれた。

 蒼真は一瞬、言葉に詰まる。妹の答えはあまりにもハッキリしていて、自分のモヤモヤを一刀両断されたような気分だった。


「そ、そっか。うん、ありがとな。急に変なこと聞いて、なんかごめん」


 蒼真は気まずそうに笑い、頭をかいた。


「別にいいよ。どうせ兄さんって変だし」


 凛音はクールに一言返すと、それ以上は何も言わず、静かに食事を再開した。

 リビングには、箸と食器が触れ合う音だけが響く。


 凛音は黙々とご飯を食べ終えると、食器を手に立ち上がった。

 蒼真は妹の背中を見ながら、小さく息をついた。


 凛音の言葉は、どこか心に刺さるものがあった。

 スパッと縁を切る。それが本当に正しいのか、蒼真にはまだ分からない。でも、凛音のハッキリした態度は、なんだか少しだけ羨ましかった。


 ま、考えても仕方ないか。とりあえず、夕食終わらせないとな。


 蒼真は自分の心にそう言い聞かせ、ぬるくなった味噌汁に口をつけた。

 夜のリビング。モヤモヤはまだ消えないが、ほんの少しだけ、心が軽くなった気がした。

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