第10話 影となりて

ベルンハルト領の離宮に引き取られたパルルは手厚い保護を受けた。

温かい風呂、清潔な服、栄養のある食事。

しかし、彼女の心に刻まれた傷は深く、救出されてから一言も言葉を発することはなかった。


その代わり、彼女は一つの奇妙な行動を始めた。

自分の命の恩人であるディオ・ベルンハルトの側から、文字通り一瞬たりとも離れない、というものだった。


「……」


ディオが廊下を歩けば、パルルはその背後で黒い服の裾を小さな両手でぎゅっと掴み、小動物のようについて歩く。

ディオが椅子に座って誰かと話せば、彼女はその椅子の影に隠れるようにして、彼の足元にちょこんと座り込む。

まるで、ディオの身体から伸びる小さな影のようだった。


「ひどい目に遭ったからな。俺のそばが一番安心できるんだろう」


ディオは、このパルルの行動を極めて好意的に解釈していた。

自分について回る小さな影を特に気にすることもなく、むしろ微笑ましく思いながら受け入れている。

しかし、パルルの瞳に宿る感情が単なる安心感ではなく、絶望の淵で出会った唯一の光に対する絶対的な依存と所有欲であることに、彼は全く気づいていなかった。





パルルの「影」としての行動は、ディオの日常生活のあらゆる場面に侵食していった。


書斎で領地の政務に関する書類に目を通している時、ふと足元に温もりを感じる。

見れば、机の下に潜り込んだパルルが彼の足に寄りかかって静かに眠っている。


「やれやれ、ここが一番落ち着くのか」


広大な庭園を気分転換に散歩すれば、必ず彼の三歩後ろを、同じ歩幅、同じペースでついて歩き、彼が立ち止まれば彼女もぴたりと足を止める。


食事の時間になると、彼女は当然のようにディオの隣の席に座る。

しかし、運ばれてきた料理にはすぐには手を付けない。

まず、ディオが食事を始め、一口食べるのを確認してから、自分もようやくフォークを手に取る。

それは、主人が食べるのを確認してから食事をする忠実な番犬のようでもあった。




そして、最も大きな問題は夜の就寝時だった。


「さて、と…」


ディオが自室の寝室に戻り、ベッドに入ろうとすると既にシーツが小さく盛り上がっている。

そこには、いつの間にか潜り込んでいたパルルがディオを待っていた。


「おいおい、パルル。お前の部屋は別にあるだろう? ちゃんと準備したはずだ。戻りなさい」


ディオは優しく諭すがパルルは無言のまま、ただ涙を浮かべた瞳で彼を見つめ、ふるふると首を横に振るだけだった。


「分かった。分かったからしがみつくな…まあ、夢の中だし、子供相手にムキになることもないか」


彼はそう結論付け、パルルが自分の腕の中、あるいは背中にぴったりと身体をくっつけて眠ることをついには許可してしまった。

それは、パルルにとって、ご主人様の温もりを独占できる至福の時間となった。




当然、この状況を黙って見過ごすはずのない二人の女性がいた。

セリナとプリムである。


「ディオ様! いったいどういうおつもりですか!? あのような得体の知れない子供を寝室にまで入れるなど!将来のベルンハルト公爵夫人となる、この私が見過ごせるとお思いですの!?」


将来のディオの妻を自認するセリナにとって、パルルの存在は到底容認できるものではなかった。


「セリナ様の仰る通りです。神がお休みになる至聖所に許可なく獣が入り込むなど、万死に値する冒涜です」


ディオを唯一神と崇めるプリムにとっても、パルルは看過できない存在だった。

無表情の奥で聖なる怒りが滾っていた。


二人は時に協力し、時に個別で、パルルをディオから引き離すための作戦を実行し始めた。


「さあ、パルルちゃん。こちらに素敵なお部屋を用意しましたわ。見て、こんなに可愛らしいお人形も甘いお菓子もあるのよ。ディオ様のお邪魔にならないよう、今日からここで過ごしましょうね?」


セリナは高価な玩具で彼女の気を引こうとする。


「聞きなさい、迷える子羊。あなたは神の慈悲により救われた身。これ以上の寵愛を求めるのは分を弁えぬ強欲という罪です。神の安寧を乱してはなりません」


プリムは神の教えを説くかのように、パルルに言い聞かせようとした。


しかし、パルルは彼女たちが差し出すものにも語りかける言葉にも、一切の興味を示さなかった。

ただ、無言で首を横に振る。そして、ディオの服の裾を、さらに強く握りしめるだけだった。


セリナとプリムの懐柔策が失敗に終わると、三者の間には冷たい緊張が走るようになった。


パルルは二人がディオに必要以上に近づいたり、親密な様子を見せたりすると、その行動をぴたりと止め、じっと二人を睨みつけるようになった。

その瞳には怯えた子供の面影はない。自分の縄張りを侵す敵に向けるような、底知れない冷たさと純粋な殺意が宿っていた。




そして、ある日のこと。

ディオのいない廊下の角で、セリナとプリムがパルルを挟み込み、再度彼女を説得しようと試みた。


「いい加減になさい、パルル! あなたの我儘もここまでですわ!」

「神の忍耐にも限界があります。速やかにその場所を明け渡しなさい」


その時、パルルは初めて、二人に対して明確な敵意を示した。


彼女は、何も言わず、ただ二人の顔を交互に見つめると、その小さな唇から、誰も知らない古代エルフ語の呪詛を小声で囁き始めた。


「…@*+{=Q$…\P$z%」


その言葉は、聞く者の精神に直接不快感を与える禍々しい響きを持ち、病や不幸を呼び込むための呪いの言葉だった。

どれだけ脅しても、何を言っても無反応だった少女が自分たちに向けて明確な害意を放っている。


「なっ…!?」

「この…忌まわしい響きは!」


さすがのセリナもプリムも、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

目の前の小さな少女は、自分たちの想像以上に危険な存在であると彼女たちは本能で悟った。


二人は、それ以上パルルに干渉することを躊躇せざるを得なくなった。


パルルは、自分の「ご主人様」を独占するためならば、たとえ相手が誰であろうと容赦なく牙を剥くということを、その行動をもって、はっきりと示したのだった。


当のディオは、三人の間で繰り広げられる静かな戦争には全く気づかず、のんびりと庭を眺めていた。


「セリナとプリムがパルルとよく話してるな。三人で仲良くやってくれてるみたいで何よりだ。ハーレムの素質あるんじゃないか、俺」


そんな、のんきなことを呟いていた。

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