第11話
むかしむかしのようで、そうでもなく、いまここで話しているようで、どこか遠い山のむこうのようでもあるのです。
その山のふもとには、声のない鐘がぶら下がっておりました。誰かが鳴らそうとすればするほど、鐘は逆に眠り込んでしまい、重たくなって持ち上がらなくなるのです。村の人々はそれを「眠鐘(ねむりがね)」と呼びましたが、誰も困りはしませんでした。なぜなら、鐘を鳴らさねばならぬ理由など、そもそもなかったからです。
ところがある日、霧が村にやってきました。白く、ただ白く、あらゆるものの輪郭をぼかすその霧は、村の広場に腰を下ろし、語りはじめました。霧が語る声は、耳ではなく背中で聞くものでした。だからみんな、ぞわぞわと背筋をくすぐられながらも、何を言っているのかはさっぱり分かりません。ただ「語られている」という事実だけが、妙に確かだったのです。
村人のひとりが、ついに勇気を出して尋ねました。
「霧よ、いったい何を話しているのだ?」
霧は少し間を置いて、さらに分からぬことを語りました。
「木の根は空を歩き、石の影は水を飲む。おまえたちの名前は昨日ほど古く、明日ほど新しい」
なるほど、分からない。けれども誰も困らない。
それから霧は鐘に近づき、ふっとまとわりつきました。すると鐘は目を覚ましたかのように軽くなり、コトンと音を立てました。その音は、鐘らしからぬ音でした。まるで木の実が机から転がり落ちたような、あるいは遠い町で誰かが笑ったような。
そのとき、村の子供たちが口々に言いました。
「聞こえた! でも、何が聞こえたんだろう?」
大人たちも頷きました。確かに音がした。しかし音の正体は誰にも言えません。けれども、誰も困らなかったのです。
夜になると霧は村を出てゆきました。鐘は再び眠り、重たくなりました。翌朝、村人たちはいつものように畑へ行き、山へ入り、火を焚きました。昨日の出来事は、特に不思議でもなく、特に大切でもなく、ただの出来事として胸に仕舞われました。
そして村人はときどき、思い出したように語るのです。
「あの日、霧が来て、鐘が鳴った」
「何を言っていたのだろう?」
「さあな。けれども確かに語っていた」
その語りが正しかろうと間違っていようと、誰も気にしません。霧の話を理解できる者も、鐘の音を説明できる者もいない。けれども、それが物語になるのです。
だから今こうしてあなたに語っているわけですが、結局のところ、私も何を話しているのか分かりません。ただ語っているだけ。あなたが聞いているだけ。それで十分ではありませんか。
霧は再びやって来るかもしれませんし、もう来ないかもしれません。鐘はもう二度と鳴らないかもしれませんし、今この瞬間に鳴っているのかもしれません
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