第29話 悪霊 中

「霊斗! 杏ちゃんがいなくなったって、本当!?」

俺が杏の部屋を粗方調べ上げたところ、丁度白銀さんが来た。叔父が起こしに行ったらしい、白銀さんに続いて入室する。

「はい、ですが焦るのはまだ早いです。

もし悪霊の目的が杏の殺害なら、わざわざここから連れ出すとは考えにくい。となると、目的は、杏を攫うこと。つまりは生きている可能性が……」

「あーもう、長い長い! そういうの良いから、早く探そう!」

「はい」

俺は長ったらしい前口上が癖だ。しかし、今回は行動あるのみというのが端的な結論。争っている暇も無い。

「お前ら、早う外へ!」

「はい」

「はい!」


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


「俺は天海家周辺を捜索します。叔父さんは逆方向を、白銀さんは俺の近くに」

その直後、叔父は駆け出す。

俺もまた、足早にその場から移動する。


かなりザックリではあるが、そもそもとして悪霊の因縁が天海家、もしくは俺たち三人であるかもしれない、という情報以外無いのだ。

天海家周辺に意識を割き、もう一人に広範囲を捜索させる、これが無難だと考えた。

白銀さんには霊の姿が見えず、役に立たないため待機してほしかった。だが、本人が言うことを聞かなかった。

冷静に考えれば、それが悪手だとは分かるはずだが……まぁ、彼女にそういう頑固なところがあることは分かっている。少なくとも、俺と離れない限り危険は無いだろう。


まずは、冷静に情報整理だ。

今回悪霊は、壁をすり抜けて杏を攫った可能性が高い。

誰かに憑依し、実体化していたとしても、悪霊は悪霊だ。通常の霊にはできない様な芸当ができる。俺はあの夜常に警戒態勢であり、そもそもとして玄関から出入りすることはできない。


住宅地をただひたすら進む。

田畑と茅葺き屋根、虫の声と澄み切った綺麗な空気、そして満天の星。

恐ろしいほど、五感を刺激する物の代わり映えが無い。まるで、俺たちの努力を嘲笑うかの様に、虫は自身の声を俺の鼓膜に焼き付ける。

全てが否定されている様な気分。

この暑さのせいか、頭がおかしくなりそうだ。ここで走らなければいけないと分かっているのに、心は挫けそうになる。希望はあるというのに、絶望という結果が必ず待ち受けている様な気がする。


でも、体は正直だった。

もう迷いは無い。だから、どれだけ心が拒否したとしても、体は動き続ける。

次第に、そんな葛藤は消えていった。


「生きてる、よね? 見つかるよね?」

珍しく不安げな声が、静寂で包まれた深夜を揺らす。彼女らしからぬ声だったが、今の俺は知っている。いつもの鬱陶しい奴が白銀菫なら、こっちもまた白銀菫なのだと。

俺は優しく笑い掛け、言った。

「大丈夫ですよ。三人とも、必ず俺が守ってみせます」

白銀さんは、そんな俺に応える様に、笑みを浮かべ、いつもの調子で言った。

「青二才が粋がってんじゃ無いの!」

「女性は素直に男性に守られていて下さい」

「それ、今の時代では男女差別」

「──まぁ確かに、訂正します。貴方は素直に俺に守られているのが似合ってますよ」

「フッ、この!」

白銀さんが軽く俺をどついた。

そんな調子で繰り広げられるいつもの会話。こんな危機的状況だというのに、その声は妙に明るい。そうしていないと、多分彼女も、不安に押しつぶされそうなのだ。

だが、警戒を怠ってはいない。俺は感覚を総動員し、周囲に気を配りつつ、歩を進めた。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


「──ここらへんです」

俺は一瞬立ち止まり、白銀さんに告げる。

何がここらへんなのかは、言わずもがなだろう。

俺の第六感が反応しているのだ。

間違い無く、近くにいる。

俺は全神経を悪霊の探知に注ぎ、網を張る。


更に集中するため、目を閉じる。

しかし、近くにいることは分かっても、具体的な場所は分からなかった。

冷や汗が額に滲む。

今日の日中から続く極度の緊張状態、それに俺の体は悲鳴を上げていた。

だから、気がつくことができなかった。


「ん!?」


その声で俺はやっと、自分にチェックが掛けられていたことに気がついた。俺は目を開け、真っ先に白銀さんへと視線を移す。


「動くな」

「!?」

そこには、俺の想定していた最悪の事態を、更に上回る光景が待ち受けていた。


「グッ!」

白銀さんはそいつに、手首を強く掴まれていた。

頭部には包丁の切っ先が当たっている。

そいつは白銀さんの横に立ち、ほくそ笑んでいた。

ボサッとした、肩の辺りまで伸びている黒髪、穴の開いたジーンズ、ダボッとした黒のパーカー、身長は中学生ほどの女。

白銀さんは、切っ先の感覚でそれを直感したのか、怯えている。



嫌でも理解した。


人質を取られたんだ。








「てんめぇ!!!」

怒号が地に落ち、地面を抉って土埃が舞う。

俺とは、似ても似つかないような声。でも、この声の主は俺だった。

反射的に、俺は駆け出しそうになる。

しかしその直前、白銀さんが目をカッ開き、必死の形相で訴えかけてくるのを見て、冷静な俺が何とか踏み止まる。


ここまで人に対して怒りを覚えたのは、初めての経験だった。

マグマみたいに熱い何かが腹の底で燻っている。

それを今すぐ吐き出して、この女を気が済むまで殴り続けたい。そんな、あまりにも短絡的な思考へ自然に誘われる。

ただ感情のままに暴れたい。それしか考えられない。暴力性が過剰に刺激されている。


でも、その奥底、本気で白銀さんを守りたいと願う、常に冷静な俺が、怒り狂う俺を寸損で押さえていた。


俺が動けば、白銀さんが危険だ。

俺は今、冷静な判断をしなければならない、この感情を吐き出すのはその後。

まず、こいつの正体。この気配は覚えしかない。確かに、あの悪霊と同じ気配を持っている。

クソ、こんな若い少女に憑依するなんて……

とにかく、今はこの窮地を脱する方法を考えるんだ。

まず、人質を取る理由だ。

俺を殺すことが目的か?

いや、決めつけるのは早い。奴の目的が別にあるのなら、交渉の余地は、ある。


「──何が目的だ」

努めて冷静に問う。こんな外道に対して現状何もできないのは非常に業腹だが、そんな腹の内は押さえておかなければ。

「話が早いな。私の願いはただ一つだ。これ以上、私と杏に関わらないでくれ」

杏に関わらないでくれ? それはこっちの台詞だ。一体こいつには何が……

いや、考えていてもどうせ意味は無いんだ。今は一度、この思考を放棄しよう。


つまりは、現在杏までが人質に取られているわけだ。

助かるためには、ここで引き下がるのが、俺の、何より二人のためかもしれない。

でもこのままでは、白銀さんは助かるかもしれないが、杏は絶対に、何かに巻き込まれる。

杏を犠牲にするなんて発想は毛頭無く、悪霊を取り逃すわけにもいかない。

だから答えは一つしか無い。でも、そっちを選んでしまったら、もっと悲惨な結果になる。


「どうした、さっさと答えろ。分かっているだろうが、解答次第でこいつの脳に穴が開くぞ」


クソ、ふざけやがって! こいつは何なんだ、白銀さんに刃物を向けて、杏を攫って、それで関わるな? 意味が分からない。

ワンちゃんに賭けて、奴を拘束してみるか? いや、霊能力発動までには少し間がある。その間に、白銀さんを殺されたらお終いだ。

クソ、どうする。このままでは何も守れない。

拒否すれば全てが終わり、受け入れてもきっと俺は後悔する。


「それは無理な相談だ。俺は二人とも救ってみせる。もし俺を殺して、自由を手にすることが目的なら、俺はもうお前に関わらない。それでは駄目か?」

これでもかなり譲歩している。

だが、流石に無理だろう。こいつがそう諦めの悪い奴なら、こんな強引な手段は取らない筈だ。

それでも、一か八か聞いてみる。

「自由? 下らないね。私が欲しいのはそんな曖昧な物では無い。ただ私は、杏をお前らから解放してやりたいだけだ。」

「は?」

解放? わけが分からない。こいつには一体、何が見えているんだ。頭がおかしいのか?

「何を言ってやがる。お前は、何を」

「さっきも言っただろ、杏の解放だ。二度も言わせるな」

女の眉間にシワが寄る。本当に、何が何だか分からないというような顔。それはきっと、俺が今しているのと同じ顔。


イカれている。でもこいつも俺と同様に、人間の思考を持っており、こいつなりの理念がある。

だから、絶対に俺の思う様にはいかない。

俺がどれだけ思考を巡らせても、交渉材料が見つからないからだ。

だったら、突破方法は相手に譲歩させること、それしか無い。




行動は驚くほど早かった。俺は素早く体勢を変え、地面に正座する。その姿勢のまま、腰を折り曲げて、額を地面に当てた。

そう、土下座だ。


「?」


アスファルトが直に当たり痛い。

いや、そんなものよりも、俺のプライドの方が深く抉られている。

こんな奴に頭を下げるなんて、屈辱的だ。

「お願いします、どうか、白銀さんと杏だけは見逃して下さい。俺の命がどうなろうとも構いません、ですがどうか、二人だけでも……」

それても、この窮地を乗り越えるためなら、捨てられる物は全て捨ててやる。

地面に額を擦り付け、俺は必死に頼み込む。

「フッ」

女が嘲笑した。

それは失望と、同時に好奇心の混ざった反応。

俺は固唾を呑む。

「おうおう涙ぐましいねぇ。惚れた女のために土下座とは、あんたにはプライドって物が無いんですか? えー?

まぁ、だが、別にできなくは無い相談だ。今すぐあんたが、舌を噛みちぎって死ぬんなら、考えてやらんことも無いさ」

クソ、クソクソ! こいつ、どれだけ俺の逆鱗に触れれば気が済むんだ。

考えてやらんことも無い? 俺が死んだところで、二人の命の保証なんて無い。相手の目的がまだ不明確な内は、到底自分の命なんて賭けられない。

 だが、俺は怯えた様子で言う。

「そ、それは……」

「できないって言うんなら、この女にも死んでもらうしか無いねぇ」

「クッ」

でも、それしか手は思いつかなかった。

心は必死で警報を鳴らしているが、自然と歯が舌を上下で挟む。


「あっ、そういや、人って舌を噛んでも死なないんだってね。じゃあ、はい」

女が何かを投げ、それが俺の間近に着地する。

ポケットナイフだ。

何でこんな物を……いや、包丁もこれも、きっとどこかから盗んだのだろう。


俺は仕方無くそれを手に取り、顔を上げた。女はニタニタと気色の悪い笑みを浮かべている。俺はそのナイフの刃先を、喉に近づけた。


「やめ、ッ!」

「あんたは黙ってろ」

白銀さんの口が塞がれる。


こうするしか、無いのかもしれない。しかし、こんな奴の思惑通りに事を進めるわけにはいかないと、直前で動きを止める。


「あ? どうした? あれ? もしかしてビビってんの? 今更? ハッ、マジウケる。

そんなに怖いってんなら、私が直々に殺してやっても良いけど?」

偉そうに…! いや、耐えろ、冷静になるんだ。

どうする? どうするも何も、奴の指示に従わねば。でもそうしたら、俺が死ぬことになる。死ぬのは怖い、でも二人から離れてしまうのは、もっと怖い。


「はぁ、はぁ」

手が震える。


「はあ、はぁ」

不安は拭えない。


いっそここで死んでしまうか?

そんな馬鹿げた考えが脳内に現れては消える。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」

呼吸は荒く、激しい。

驚くほど胸は早く脈打っている。

精神的にもう、限界だった。

それでも、俺の中にある一筋の正気が、狂気に染まりきるのを防いでいる。


「大丈夫、ワシが着いておる」


その言葉を、心中で反芻する。

俺にはただ信じて、待つことしかできなかった。


「さっさと死ねよ、ほら死ね、死んじまえ!」

「ふー、ふー」

腕が大きく震える。

自分でも制御が効かない。

このままでは、本当に…

駄目だ、正気を保て。

ここで俺が死んでも、どうにもならないだろ!


だけど、刃は少しずつ、俺の喉に近づく。

もう、手遅れだ。

刃先が喉に触れた瞬間、俺は目を閉じた。





「あがっ!」


女の、素っ頓狂な声と共に、ドン! という打撃音が響き渡る。

俺は何事かと女を見る。

──地面に倒れている。

「霊斗! 菫ちゃん! 怪我はねぇか!?」

「おじさん!」

叔父が駆けつけたのだ。それに歓喜の声を上げる白銀さん。

その安心感に浸る余裕は無く、次の瞬間、俺は女の腕に触れ、霊能力を使用した。これで、女は、拘束できたはずだ。


「クソッ! 何故……」

「ハッ! 残念だったな。これで、お前はもう終わりだ」

立ち上がった後、少し女の口調に寄せて言う。

陳腐な罵倒が無数に浮かんでくる。でも、この場面においては余りにも不適切。俺は言葉を呑み込む。

「霊斗、後は任せた」

「はい」

俺は地面に片膝をつき、女を睨みつつ問う。


「杏はどこにやった」

今すぐに、消したい。だが、杏の居場所を聞き出すのが先だ。

「誰がお前なんかに…グッ!」

俺は女を、右拳で思いっきり殴る。

人を本気で殴るなんてのも、初めてだ。

だが、罪悪感は全く無い。先に手を出してきたのはこいつだ。

「チッ、いってぇなぁ! ぶっ殺すぞ、クソが!」

「黙れ!」

「っ!?」

こんな奴に対しては、何の躊躇も葛藤も抱かない。だけどやはり、女を殴るというのは少し抵抗がある。

「お前みたいな、怒鳴ることしか脳の無い猿に、杏を任せられるか!」

「!?」

その言葉で記憶がフラッシュバックする。

天海家での問答、車内での焦り。

いや、全て環境が、状況が悪かったんだ、そのはずだ。でも、こいつの言ったことは、事実でも…


いや、違う。こいつの言うことは全て間違っている。考えてもみろ、こいつは白銀さんを殺そうとしたんだぞ? そんな奴の言葉に、耳を傾けるなんて、それこそ馬鹿のやることだ。


そうだ、こんなクズは今すぐに消さなければいけない。


俺は、呪文を唱え始めた。

「霊斗?!」

叔父が叫ぶ。

ああ、これがやってはいけないことだと分かっている。だが、もう我慢ならない。

こいつに喋らせていたら、気が狂いそうになる。

だから……!

「ま、まさか…、や、やめろ! 私にはまだ…」


地獄でやってろ。


「クソッ! こんなところで、こんなところでぇ!」

女が迫真の表情で叫ぶ。

汚らしい。今になってみっともなく。

だが、真に迫っている。

こいつには何かがある、そんな気がする。

でも、そんなことは関係無い。こいつは俺たちに危害を加えようとした。だから、消さなければ!

「──消えろ!」

全ての工程を終了し、俺は最後にそう叫ぶ。

それで、完全に女の体は消えるはずだった。


しかし、その寸前、何者かの腕が、俺の腕をはたいた。

俺は咄嗟に手放してしまう。


「やめて!!」

その声は、あまりにも特徴的で、聞き馴染みのある声だった。

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