第9話 少女の霊 3

夕食後、俺は杏に外へ連れ出された。

行く義理は無い。どうせ杏は、今日でもう完全に、この世から消えるのだから。

ただ、気がつけば俺はその誘いを受けていた。

きっと、杏に料理を褒められたことが、相当嬉しかったのだろう。


誰にも、料理を褒められたことは無かった。上手いことは当たり前、後はその上手いをどれだけ突き詰められるか。それは、料理以外も同じだ。テストも90点以下は実質赤点だし、畳んだ服に皺でもあれば木刀が飛んでくる。周りからの賞賛は溺れるほど受けてきた。ただそれは、ほとんどが形式的な物であり、偽物。思えば俺は、親父に褒めてもらいたかったのかもしれない。


まぁ、そんなことを言っても仕方が無い。親父はそもそも、きっと家庭なんか望んで無いのだろう。俺のことも、多分跡継ぎだからこそ面倒を見ているのだ。だからこそ、俺が産まれてすぐ、母は家を出ていったのだろう。

再婚をしないのだって、これ以上邪魔者を増やしたく無いからだ。俺が死んだら再び適当な女と子供を作り、すぐにその女を捨てるのだろう。

それが、俺の親父への印象だった。

だから、親父に褒められたところで俺は何も感じないのだろう。それは多分、俺を奮起させるための嘘なのだから。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


俺たちは手を繋ぎ、夜道を歩いていた。

そこは畦道であり、周囲には水田が広がっている。

羽音を立てて尻を光らせる蛍が、その静謐な空気を彩る。蝉はしぶとく鳴き続けていた。

そんな中、杏がこちらに屈託の無い笑顔を浮かべる。

「料理、おいしかった!」

「ありがとう」

自然と笑みが溢れる。

本当に俺はチョロい。褒められたところで意味は無いというのに、そんな意味の無いことに幸福を感じてしまう。

俺がヒューマノイドになれない所以だ。


人間というのは、つくづく面倒な生き物である。感情に左右され簡単に道を踏み外すし、効率的な動きも感情が働き、中々できない。だが、だからこそ人間は些細なことに幸福を感じられる。

親父には、当てはまらないのだろうが。

「レイト、大丈夫?」

突然その声が俺の思考回路に入り込み、反射的に杏へ顔を向ける。

俺は取り繕う様に杏を見下ろし笑った。

「ん? 何が?」

「顔が怖い」

「あ、ごめんね。でも何でも無いよ」

「嘘」

「嘘じゃ無い」

杏に不安を悟らせてはいけない。

それはせめてもの、彼女への気遣いだった。

この行為がいずれ、自らの身を削ることになるのは分かっている。だが、それがどうした。それぐらい、許されたって良いじゃないか。俺はそう思うのだ。

俺はその考えを否定し、杏はまたプイッとそっぽを向いてしまった。

それと同時に、後ろ手に縛った髪が揺れる。

もうこの歳から、髪を結ぶことができるらしい。

そのポニーテールと、俺の従姉妹のお下がりである紫のパジャマが良く似合う。


「それで、一体何が目的なんだ?」

杏が不機嫌であるにも関わらず、俺は声をかける。そうしないと落ち着か無いし、彼女がそう怒っているとは思えないからだ。

「無い」

杏は即答する。

その答えは実にもっともな意見だった。

そうだな、理由は必ずしも必要では無い。そういう気分だった、それだけの理由で、人間は行動してしまうものなのだから。

だから俺も、追求はしなかった。




ただ、二人で畦道を歩いて行く。

普段は散歩なんてしない。時間の無駄だからだ。

しかしやってみれば、その認識は180°変わった。

特にこの村は本当に空気が良い。こう、人の臭さというものが無いのだ。何を言ってるのかと思うだろうが、俺も正直自分の言っていることが良く分かっていない。何となく、本能でそう感じるだけなのだから。


二人の間に会話は無い。

それが、あまり苦にならないほど、俺たちの間に流れる空気は心地が良かった。

ただ同じ道を歩き、同じ景色を見ているだけで通じ合えた様な感覚を覚える。わざわざ頭を使う必要が無いからこそ、本当に楽だった。


──って、うわ!


「ってて」

その瞬間、俺は小石に躓き、前方に倒れてしまった。俺は咄嗟に立ち上がる。左足の膝小僧がズキズキと痛んだ、そこは打撲で怪我ができている。

「大丈夫!?」

杏は不意を突かれ、ビックリしたのだろう。血相を変え、俺を見上げている。

「大丈夫、平気平気」

俺はその恥ずかしさを紛らわすため、後頭部を掻く。まさか、小石程度で転んでしまうとは思わなかった。泥沼に落ちなかっただけマシと思おう。

しかし杏はそう思わなかったらしい。

「待ってて」

杏は相変わらず持ち歩いていたポーチの中身を出す。彼女はそこから、消毒液とポケットティッシュを出した。

「え、いや、良いって」

まさか、ポーチの中にそんな物が入っているとは思わなかった。

俺の遠慮も聞かず、彼女はティッシュを一枚取り出し、そこに消毒液を垂らす。俺は少し後退ったが、彼女はそれよりも早く俺に近づき、ティッシュを傷に押し上げた。

「っ!」

消毒液が染みる。


俺が再び動こうとしたからだろう。

「ガ・マ・ン!」

「……」

その声が夜の静寂を破り、杏はしゃがんで俺の傷を見つめる。一枚目のティッシュをティッシュポケットの隙間に入れ、二枚目を取り出す。


そうして懸命に作業をする杏を見て、俺の逃げる気は失せていた。

危機感が働いたのだろう、だから俺は他人に傷の手当てがされるのを拒んだ。しかしその献身を見て、彼女の気遣いを無駄にはしたくないと思ったのだ。




俺はやることも無く、ただ杏を見つめる。俺よりずっと小さな体は、まるで妖精の様に傷の手当てをし続ける。俺はそれが、堪らなく嬉しかった。

俺に対して、こんなに優しくしてくれる人がいる。それを、ここに来るまでは知らなかった。

叔父は俺を手招いてくれて、白銀さんはわざわざ積極的に絡んできてくれる。

それは確かに小さなことだったのかもしれない。だけどここに来てから、少しだが、明らかに俺の中の歯車が動き出した気がする。

この一ヶ月で、答えが見つかるかもしれない。それはただの願望だが、それでも願わずにはいられなかった。




「はい、終わり」

杏は最後に動物の絆創膏を貼り、立ち上がる。

彼女は俺の前を先行した。

「ありがとう」

その背中に、言葉を投げる。

それは形だけの物では無くて、確かに俺の心から出た、本音だった。


心が温まる感覚。それを俺は今、感じている。これまで満たされることの無かった器が、この一週間、様々な出来事を経てやっと満たされたのだ。それは段々と熱を帯びてきて、遂には体が火照ってきた。

それは俺を優しく包み込み、安心感を与えてくれた。きっと今の俺は、かつて無いほど爽やかな笑みを浮かべていることだろう。



杏が、クルッと振り返る。その顔には無邪気な笑顔が滲み出ていて、夜だというのに太陽の様な眩しさを放っていた。


「どういたしまして!」



俺たちはその後も、無言で夜道を歩いた。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


この選択に後悔は無いか?


そう、もう一人の俺が問う。

少し前まで、俺は悩んでいた。

果たして、この選択は正しかったのだろうか?

早めに祓った方が、楽では無かったのかと。

事実、その通りだ。お陰で俺は、要らぬ情を抱いてしまった。


それでも後悔は無いと、今ならはっきり言える。今後更に苦しい道程が俺を待っているだろう。 情という枷がある分、俺の傷は深くなるからだ。

それでも、俺は彼女との時間を経験して、僅かだがその希望を見た。

ここで過ごせば答えが見つかるのではないか、そんな余りにも淡い希望を。

それに、俺は感謝することの喜びを知れた。俺の器があそこまで満たされたのは、初めてだろう。

だから、後悔は無い。否、してはいけない。

俺は最後まで杏に感謝を持って、敬意を払いたい。この選択を、彼女の存在を間違いだと認めるなんて、絶対にしたくは無い。

それが、俺なりの誠意だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る