第4話 街角の洋食屋と星の数の物語
小生の名は、
文豪のような名を持ちながら──物語はおろか、簡潔な文章ひとつ書けぬ男である。
---
休日の午後、二時過ぎ。
古本屋で手にしたのは、色あせた昭和の文庫。
ページから立ちのぼるインクと紙の匂いを嗅ぎながら、駅前の通りを歩く。
こういう時間が、小生は好きだ。
誰にも急かされず、好きな本を手に、目的もなく歩く。
平日の会社では決して味わえない、贅沢な午後である。
ふと、小さな洋食屋の看板が目に入った。
『カレー・ナポリタン・ハンバーグ』
三つ並んだ文字は、まるで小生の腹に直接訴えかけてくるようだ。
そういえば、昼食をまだ摂っていなかった。
何気なくスマホを開く。
癖である。店に入る前に、あのグルメサイトを確認してしまう。
そこには、星が三つ。
『味が古い』『接客が淡白』『ボリュームはあるが特筆すべき点なし』
辛口の言葉が並んでいる。
そして、一際目を引いたのは──延々と続く長文レビュー。
『◯月◯日、朝〇時〇分に目を覚ます……天気は快晴、本日は何をしてすごそうか……道すがら小鳥のさえずりが心地よく……昼下がりに訪問……店に入る前、自分の心境を整理すると……注文までの葛藤を経て……』
小生は画面をスクロールしながら、深いため息をついた。
「これは……食事の感想なのか? それとも私小説なのか?」
レビュアーは、己の一日を事細かに記録している。
目覚めた時間、天候、気分、注文の経緯、料理の温度、店員の仕草。
そして最後に『星は3つです』と結ぶ。
「誰がここまで読むのだろう……いや、読む者がいるからこそ、書くのであろう」
小生の胸には、わずかな羨望も芽生えた。
もし自分に文才があれば──こうして言葉を紡げたのだろうか。
食べた感動を、文章として残せたのだろうか。
だが現実は、「うまいなぁ」で終わる。
会社の報告書すら満足に書けぬ小生に、レビューなど書けるはずもない。
「文谷修蔵……名は文豪めくが、中身は凡人である」
自嘲しながらも、小生は木の扉を押した。
あのサイトの評価がどうあれ、小生の胃袋は正直なのだ。
チリンと鳴るドアベル。
店内には、年季の入ったテーブルと椅子。
窓から差し込む午後の光が、黄ばんだメニュー表を柔らかく照らしている。
客は他に二組。
窓際では老夫婦が静かにオムライスを分け合い、カウンターでは作業着の男性がハンバーグを黙々と食べている。
皆、無言だ。だが、その沈黙は心地よい。
ここには、レビューサイトの喧騒はない。
「いらっしゃい」
厨房から店主の声。愛想はないが、悪くはない。
小生が頼んだのは「ナポリタン」
古本屋帰りには、これしかないと思えた。
昭和の文庫には、昭和の味が似合う。
待つ間、小生は先ほどのレビューを思い出す。
あのレビュアーは、この店に何を求めていたのだろう。
『味が古い』
──それは批判なのか?
むしろ、古いからこそ良いのではないか。
小生にとって、食とは評価するものではない。
味わうもの、感じるものである。
星の数で測れるほど、人間の舌は単純ではあるまい。
やがて、鉄板の音が近づいてくる。
ジュウジュウと鳴る熱い鉄板の上に、赤く輝くナポリタン。
ケチャップの香りが、小生の鼻腔を刺激する。
玉ねぎの甘み、ピーマンの青さ、ソーセージの塩気。
「おお……これぞ昭和のナポリタン」
フォークで巻き上げた赤い麺を口に運ぶ。
甘酸っぱさが舌を満たし、鉄板の焦げ目がほのかな苦味を添えた。
「……うむ」
言葉が出ない。
いや、言葉にする必要がない。
この味は、星では測れぬ。
「古い」のではない。「変わらぬ」のだ。
昭和から令和まで、この店はこの味を守り続けてきた。
流行に媚びず、レビューに惑わされず、ただ黙々と──。
水をひと口。
窓の外では人々が行き交い、午後の街が続いている。
老夫婦は会計を済ませ、ゆっくりと店を出て行った。
作業着の男性もまた、満足げに席を立つ。
彼らはレビューなど書くまい。
だが、きっとまた来るのだろう。この店に。
「そうか……それが答えか」
小生は心の中で呟いた。
レビューは人に向けて書かれるもの。
しかし、本当の評価は──また来るか、来ないか。それだけだ。
星の数よりも、胃袋に残る温もり。
言葉よりも、足が向く回数。
それこそが、何より確かな証なのである。
皿を空にし、伝票を握りしめて立ち上がる。
「ごちそうさま」
レジで会計を済ませると、店主が小さく頷いた。
その静かな表情には、何の媚びもない。
「……また来ます」
小生は思わず、そう口にしていた。
店主は再び頷き、「お待ちしています」と短く答えた。
店を出ると、秋の風が心地よい。
手には文庫本、胃には昭和のナポリタン。
四十八歳、独身、平社員。
小生に文才はなく、レビューも書けぬ。
だが──この満足は、確かに小生のものである。
「文章で語れずとも、胃袋は正直だ。小生の星は、また訪れることで示そう」
来週もまた、この店に来よう。
それが小生なりの、最高の評価なのだから。
-完-
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます