第2話 昼休みのアジフライ定食物語
小生の名は、
昼休みの一時間は、日常に潜む小宇宙を探す旅である。
今日、小生が歩むのは――己の胃袋で語る、孤独な美食の道であった。
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正午を告げるチャイムが鳴る。
会社を出て、同僚たちはぞろぞろと牛丼チェーンへ吸い込まれていく。
五分で食べ終え、残りの時間はスマホを眺める――それが彼らの昼休みである。
だが小生は、その流れを意識的に外れる。
「あれ? 文谷、一緒に行かないの?」
同期の田口が振り返るが、小生は軽く首を横に振る。
「ああ、今日は少し用事があってね」
嘘である。用事などない。
ただ、小生には譲れぬこだわりがあるのだ。
一人で食べる。誰にも邪魔されず、己の舌だけで味わう。
あの番組の主人公が教えてくれた――食事とは、本来孤独な営みであると。
これは小生なりの、ささやかな矜持である。
四十八にもなって、昼飯ひとつにこだわる己を滑稽だと思うこともある。
しかし――食とは日常の詩である。
そして小生は、この一時間だけは詩人でありたいのだ。
商店街の端、色あせた暖簾の定食屋。
決しておしゃれではない。むしろ古びている。
だが、その揺れ方が小生に語りかけてくる。
「おいでなさい……」
これもあの番組で学んだことだ。
店とは、理屈で選ぶものではない。直感で、胃袋で選ぶものである。
小生の胃袋が、今この暖簾を求めているのだ。
小生は心の中で頷き、意を決して暖簾をくぐる。
中に入れば、油の匂いと味噌汁の湯気。
木のカウンターに年季の入った椅子。
テレビではワイドショーが流れ、客たちは無言で食事をしている。
「いらっしゃい」
厨房から店主の声。愛想はないが、悪くはない。
こういう店こそが、小生の求める聖域なのである。
メニューを手に取る。
生姜焼き、カツ丼、鯖の味噌煮。
魅力的だが、今日の小生の心はすでに決まっている。
《本日のおすすめ アジフライ定食 680円》
アジフライ……庶民の王者。
華美ではないが、その実直さこそが美しい。
「アジフライ定食をひとつ」
注文を告げ、小生は静かに待つ。
あの番組の彼なら、きっとこう言うだろう――。
『待つ時間も悪くない』
――と。
小生もそう思う。料理が運ばれるまでの静寂こそが、食事の序章なのだ。
隣では作業着の男性が黙々と親子丼を食べている。
恐らく現場仕事の方であろう。汗をかきながら、真剣に箸を動かしている。
小生も彼も、この一時間が貴重なのだ。
職種は違えど、昼休みに食と向き合う姿勢は同じである。
ふと、会社のことが頭をよぎる。
午後からは例の報告書をまとめねばならぬ。
上司の大杉課長は細かい男だ。誤字ひとつで機嫌を損ねる。
……いや、今は考えまい。
この一時間は、小生だけの時間なのだから。
やがて、ジュワッという油の音が厨房から響く。
小生は背筋を伸ばし、その音を開宴の合図として受け止める。
そして置かれた皿――。
黄金色のアジフライ二枚、千切りキャベツ、レモン片。
白米、味噌汁、漬物。
まるで舞台に登場した役者のようだ。
「……見事」
小生は心の中で呟く。
派手さはない。だが、この佇まいこそが美学である。
まずは一口。
衣がサクッと弾け、白身がほろりと口の中でほどける。
「うまい……!」
余計な形容は要らぬ。
あの番組が教えてくれた――本当に美味いものには、『うまい』以外の言葉は不要であると。
この『うまい』という一言にこそ、全てが集約されているのだ。
ソースをかけるか、醤油か、はたまた塩か。
調味料の選択に小生は迷う。
だが迷うことこそ、食の醍醐味である。
結局ソースを選び、頬張る。
甘辛が染み込み、魚の淡白さが浮かび上がる。
「これだ……これなんだ」
小生が求めていたのは、この瞬間。
会社の書類も、上司の小言も、全てが遠のいていく。
二枚目は塩で挑む。
レモンを絞り、一滴一滴が衣に染み込むのを見届ける。
直線的な旨味が舌を打ち、尻尾の苦みを噛み締める。
「この渋みこそ、大人の余韻……」
尻尾まで食べ尽くす。残すなど、もったいない。
魚の命を、最後まで頂くのが礼儀であろう。
食べ終え、味噌汁で口を整える。
ああ、満たされた。胃袋も、心も。
時計を見れば、まだ昼休みは二十分余っている。
完璧なタイムマネジメントである。
レジで会計を済ませ、外に出る。
秋の陽射しが眩しい。
商店街には昼の喧騒が戻り始めている。
小生はゆっくりと会社へ向かって歩き出す。
四十八歳、平社員。
昇進の見込みもなく、家族もいない。
傍目には、寂しい中年男であろう。
だが――小生にはこの時間がある。
誰にも邪魔されず、己の舌だけで味わう至福の一時間。
「食は日常の詩である」
小生はそう信じている。
そしてこの一食こそが、小生の人生を彩る一篇なのだ。
午後の仕事が待っている。
報告書も、上司の小言も、全て受け止めよう。
なぜなら小生は今、確かに満たされているのだから。
「また来よう」
小生は心の中で呟き、職場へと歩を進めた。
-完-
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