χ(カイ)鳥

Thu.々暮

普通の願い

 死んでしまいたかった。


 理由の云々は言いたくない。何故なら、下らないことだから。


 生きるのはもっと楽なことだと思ってた。勝手に友達ができて、恋人ができて、夫ができて、子供ができて。特別ではないけど、普通に生きれて、悩めて。


 それが今ではどうですか。ワンルームマンション、机とベットの無菌空間。食器は埃を被り、シンクは空っぽ。玄関は会社用の靴と安物のサンダル、ビニール傘。ゴミ箱はコンビニ弁当の残骸でいっぱい。そして、近所付き合いゼロの独身アラサー女。


 女性の社会進出なんて…要らない。


 別にやりたい人はやればいいですよ。


 けど、私は違う。自己実現の欲求がないんです。誰かのためにしか行動する動機が生まれない。どう頑張っても自立はできない。


 願わくば昭和に生まれたかった。お見合いで好きでもない男に嫁入りして、その男がどうしようもなく世話をしてやらないといけない人で、暴れん坊の息子の世話もして。婦人会で夫の悪口を言って。家を守る使命だけを与えられて。それを死ぬまで続けて。


 もしもそんなことができたら、私はどんなに生きやすいでしょうか。


 4か月前でしょうか、会社で降格の人事が下されました。人に指示されたことは言われた通りにできるから、ペーペーだった頃は評価がうなぎのぼりでしたが、それが人に指示を出す立場になった途端に無能になってしまったのです。

 自分には人の上に立つ適性がなかっただけだ。

 別に失った立場は大した役職じゃないから。

 そうやって自分を説得しましたが、一度昇格したというプライドがそれを許しませんでした。働くことが今の生き甲斐ですから、それすら否定されてしまったら、私もどうにかなってしまう。

 元のペーペーに戻ってからというもの、まったく仕事が手につきませんでした。


 誰のため?会社?上司?評価?お金?


 いろいろ考えた末に、「きっと誰のためにもならないんだろうな。」という考えに陥ってしまいました。


 パソコンをじっと見て、マウスに手を乗せては、横のマグカップに手を伸ばし、その繰り返し。


 そして今日、上司から呼び出しを受けました。


 「蓮見さん、最近何かあったの?締め切りぐらい守ろうよ。それに、まだできてないんでしょ?これじゃあ出版、間に合わないよ」


 雑誌の編集に穴をあけてしまいました。けれど、最後に責任を取るのは私ではありません。なので、どうでもよかったのです。


 「すいません。どうしてもできないんです」


 上司はどうしたものかという表情で私に向かいます。


 「まあ、そういうときもあるけど。他の人の仕事を増やすことにもなるからさ」

 「はぁ」


 上司は、額に手を当てて悩んだ素振りをしました。


 「もし、本当にダメだったら、休職という手段もあるけど」

 「無理です」


 私は即答しました。


 「どうして?」

 「私には仕事しかないからです」

 「そう来たか」


 深いため息の後、しばらくして上司が口を開きます。


 「今から出かけてきなさい」

 「どうしてですか?私は仕事をしたいって言っているじゃないですか」

 「もう仕事のことは考えなくていいから。自分の心が吹っ切れて、集中して仕事ができるって思った時に帰ってきなさい。蓮見さんは有休を一回も使ったことがないよね?たまにはどこかに出かけてきなさい」

 「え?そんなの、いきなり言われても出かけるところなんてないですよ」

 「自分で決めるんだよ。あるでしょ、洋服とかコスメとか」

 「興味ないです。誰のためになるんですか?」

 「もういいよ。とにかく休んでくれ。実家とか行ったらいいんじゃないか?そうすれば両親のためにはなるだろ?今の君は、まともじゃない。」


 『まともじゃない』という言葉の意味は分かりませんでした。けど、ものすごい剣幕で言われるから、「じゃあ、そうします」と答えて、トリミングを受ける犬のようにおとなしく電車に乗って、実家へ帰りました。


 いきなりの訪問でエプロン姿の母は驚いた様子でしたが、すんなり受け入れてくれました。疲れ果てた私の様子を見てお母さんは、まずおばあちゃんのところへ行くように言いました。


 「おばあちゃんに挨拶してきなさい。おばあちゃん、肺が弱くてね、もう長くないのよ。最後になるかもしれないから。」


 木造の一軒家で、主婦の母、会社員の父、祖母の三人で暮らしていました。父は仕事に出ていていました。厳密には両親の家ではなく、母方の実家でした。

 ですから、私は生まれた頃から祖母に育てられた、いわゆるおばあちゃん子だったのです。


 「おばあちゃん、私だよ。」


 寝ていたおばあちゃんに声をかけると、首をゆっくりとこちらに向けて目を開きます。


 「だぁれ?」

 「梨花だよ。梨花。」

 「ああ、梨花。大きくなって。大人になったなぁ」


 おばあちゃんは顔をしわくちゃにして笑います。手元にあったリモコンを操作して、ベットを起き上がらせます。


 「いつぶりかの?」

 「最後に会ってから八年ぐらいたったかもしれない」

 「そんなに、か。もうこんなに老けってしまったよ」

 「ごめんね、私こそおばあちゃんのところこれなくて」

 「いい、いい。生きているうちに来てくれたんだから。昔はな、あのお庭で梨花ちゃんと遊んでたの。走るのが早くて、早くて」

 「そうだね」

 「一緒に花札もしたの。この部屋で」


 今ではおばあちゃんの寝ている介護ベットがあるこの部屋も、かつては私の遊び場でした。その頃は祖父も生きていました。


 祖母は窓の外の庭をぼおっと眺めています。私も同じ方向を見ます。


 すると、柿の木の前に広がる芝生の庭に不思議な鳥が歩いてきます。頭は濃い橙色をしていて、下に向かうにつれて色がくすんでついには灰色になっている、まるで橙の塗料をかけられたような鳥が。羽をわなわな震わせる様子も予感もありません。ぎょろっとした目で見つめてきます。


 「ああ、帰ってきたんだね」

 「おばあちゃん、あの鳥のことを言ってる?」

 「そうだよ。怪が私のところに帰ってきたんだ。」

 「カイ?」

 「そう、不死鳥の怪。あいつはね、寂しがり屋なんだよ。だから、私のところに戻ってきたんだ」


 不死鳥。火の鳥。寿命を使い果たしたら、灰となって再び、生まれてくる鳥。そんな伝説、ありえるのだろうか。


 すると、その鳥の橙は薄らいでいきます。頭まで灰色に染まってしまいます。下の方から朽ちて、遂には灰の山となってしまいました。


 目の前で起こっている超常現象。私は慄きました。


 もう私はどうにかなってしまっているのでしょう。目を疑いますが、やはり私にはあの鳥の残骸が見えてしまう。


 「おばあちゃん」

 「何?」

 「あれは…、あれは何の鳥なの?」

 「だから、不死鳥と言ったでしょう」

 「そんなの、いるはずないよ。きっとあれは偽物だよ。私、頭がおかしくなっちゃったんだ」


 上司の言葉がようやく腑に落ちます。


 やっぱり、私はまともじゃなかったんだ。


 帰省をしたって、壊れてしまった頭は治らないんだ。私は、誰の役にも立てない。同僚はどうして言ってくれなかったの?心配もしてくれなかったの?私は、いらないの?


 呼吸が荒くなります。視界もぼやけだします。


 こんなにも大きくなったのに…。私はおばあちゃんの前でむせび泣くんだ…。


 情けなかった。私は大人になんかなっていなかったのです。


 その時、おばあちゃんの手が背中に触れました。


 はっとしておばあちゃんの方を向くと、立ち上がって私をさすっていたのでした。


 「無理しなくていいのよ、梨花。」


 おばあちゃんの声が若返ったように思えます。幼子だった頃のいつしか、泣き止まなかった私をあやした時のような、そんな優しい声でした。


 「だって、私も幻を見ているもの」

 「どういうこと?」

 「私はね、元は別の空の下で生きていたの。」

 「そんなこと言われたってわからないよ」


 「じゃあ」と祖母は庭へ向かう戸を開き、かつて鳥だった灰の元へ跪きました。そうして息を吹きかけました。肺を患っていたので、時折、咳き込みながら。


 すると灰から火が上がりました。私も息を吹き込みます。篝火ほどの炎になります。炎が次第に鳥の輪郭を刻みます。足までなぞり終えると、パッと炎は散って、黄金を含んだ橙の不死鳥が現れました。


 「怪、頼んだよ」


 祖母の言葉を聞いた不死鳥は、首をすぼめながら頷いた。足をちょこちょこと動かして私の方へ体を向けると、口から炎を吐き出しました。避けようとしましたが、間に合いませんでした。しかし、その炎は体温程の温かさでした。意識を失ったのは一瞬のことだったと思います。

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