初恋論    5/6

 すると目の端に捉えた奥まった席に、直哉の姿がありました。恋人と一緒でした。直哉がここにいるのを想像していた私の肉眼に直哉がここにいるのが映ったので、やけに気恥ずかしくなるやら驚くやらしましたが、考えてみれば納得です。直哉の性質上、学校の連中が集うような場所で恋人と一息つこうなどとするはずもありません。

 直哉は、酷く穏やかな笑みを浮かべて恋人と何かを話していたかと思うと、見たことの無い革の財布のようなものを取り出しました。財布のようなもの、と言うか、端から見れば長財布にしか見えなかったのですが、私はその日直哉が例の友人と一緒に自動販売機で黒い二つ折りの別の財布を使っているのを見ているので、それを財布だと判断するのを躊躇いました。

 恋人がそれを手に取って軽くいくつかの場所を指さし何か熱心に話すのを、直哉は静かに微笑んで受け取っていました。漸くひとしきり話終えた彼女がやや誇らしげにそれを返して、直哉が少しはにかんで会釈した時、やっと私は、最近、直哉と恋人が付き合いだしてひと月経過した、というのを周囲の人間が騒いでいたのを思い出しました。様子から見るに、恋人から直哉への贈り物かもしれません。

すると、直哉はその入れ物を開き、おもむろに何かを取り出しました。

 日焼け止めでした。恋人の前だというのに気にした様子もなく、掌に少し載せてうなじや首元に塗っていきました。いえ、彼女の前だからこそ、誰よりも気兼ねなく堂々としているのでしょう、だって、恐らくその入れ物は、確かに外からは財布にしか見えないけれど、だから直哉が秘密にしているものがきっと入っていて、そのためのもので、彼らの一か月記念日は数日前で直哉が日焼けを気にしなくなったのも数日前で日焼けどころか汗ひとつかかないのは、肌が綺麗なのはつまり、例えばボディシートとかハンドクリームとかが日焼け止めと一緒にきっと入っていて、恋人は直哉の体質と習慣を知っていて、それを贈って、直哉がああして清潔でいるのは、満ち足りているのは、そういうことで。恋人は日焼け止めをひょいと取り上げ自分に使い始め、直哉が少し慌てて身を乗り出すともっと取れないように背中に隠してしまいました「ケチ」少しざわめく喫茶店の中で、容赦なくからかう声と、それを叱る直哉の、しかしあまりに柔らかくて叱り切れていない声が、聞こえ、私は店を出て世界をくまなく照らしあげる太陽の下足早にその場を離れました。


 まだ誰も帰っていない家の階段を上がって、自分の部屋に入って鍵をかけると、自分が左腕を強く掴んでいることに気が付きました。掴んでいる右手の指が痺れ、白くなっています。手を放そうとしても筋肉が硬直してしまってなかなかうまくいかないのを、乱暴に抜き去って右手を振り回して痺れを千切って、私は、息を飲みました。

 左腕には綺麗に右手の形をした内出血が起こっていました。

どっと体を襲った疲れそのまま布団の上に倒れ込んで、何より昏い眠りにつきます。殺そう。呟いた声が、そのまま夢にも震えることを、私は知っていました。


 狭苦しい部室の中央に置かれた小さなテーブルに直哉の恋人が横たわっています。首には私の手の形をした痣がありました。大したこともない貧相な日焼けした顎がわずかに口を開いてわなないています。唾液が汚らしくテーブルに垂れて、重たく長いスカートのプリーツはだらしなく脚と一緒に広がっていました。まだ意識があるようです。

「雪本君」

 彼女は、彼を呼び、涙を流しました。美しい声で、美しい涙でした。私のものとは全然違う、それはつまりなんでしょう、恋人と言うのは片思いをしている人間より清らかで尊いという事でしょうか、そんなバカにした話がまかり通っていいのでしょうか、自分ばかりが直哉を愛していると本気で思っているのでしょうか違う絶対に違います、違うから、私は彼女を内蔵ごと潰すように脚で踏みつけました。成熟しきっていない細いあばらが折れるのが心地よく脚に伝わります。骨密度に少々問題がある気がしました。どうせ大した身長ではないのだから牛乳くらい飲んでおけばいいのに。

 あばらが折れれば肺に刺さるとも聞くので、できればそうなってくれないかと思っていると、ポケットが急に重くなりました。私は普段ポケットには何も入れないのですが。まさぐるとああ、これはこの間使用法のテストがあったアルコールランプです。確か馬鹿な同学年の他クラスの男子が小火騒ぎを起こしたので一年生は全員一から小学校でとっくに通り過ぎたそれを学び直す羽目になったのでした。マッチマッチ、マッチは、ああそうだそうだ。横たわる直哉の恋人のヘアピンを取りますとほらやっぱり、マッチになります。前から配色がマッチに似ていて格好悪いと思っていたのです。何より直哉がそう言っていたのです。マッチみたいで面白い、と。彼女はよくそれを聞いて怒っていました。直哉は笑っていました。わかっていました。私にはそれを向けてくれないことも。ずっとずっとわかっていました。

 私が彼女について許せないこと。それは、長いスカートを折っていない分そのプリーツが美しく翻ること。前髪がそろっていてそのくせ軽く爽やかにたなびいて見せること。生き生きとしたポニーテールが跳ねまわって直哉の目が時折引きずられること。普通のマネージャー業務のふりをして直哉の方にばかりタイムを報告しに行くこと。それを直哉が困ったようにけれど拒み切れずに受け入れていること。心から笑っているくせにとても清々しくて愛らしいこと。その時見える歯が白いこと。セーラー服のスカーフの結び方がとてもきれいなこと。馬鹿で何も考えていないくせに直哉がその愚かしさを結局は愛していること。私から直哉の日焼けをその火傷を、痛みを秘密を奪ったこと。私はそれしか持っていなかったのに。

 どこに擦過するまでもなく、マッチは発火しました。アルコールランプはたっぷりと油を蓄えて私の憎悪を待っています。彼女の呼吸で火が揺らぐので、一度頬を思いきり張ってやりました。貧弱な肉づきです。日焼け気味の肌が無闇に私に似ていて余計に腹が立ちます。どうして直哉のように白い肌でいてくれないのでしょう。どうして私より圧倒的に美しくあってくれないのでしょう。そういうところが全部嫌いです。痺れの残るそのままその手で火を庇って、丁寧に丁寧に、アルコールランプにつけました。ああ、私の大事な片思い、私の大事な汚い初恋。こんな純粋な少女の爽やかな吐息などに消されていいはずがありません、ゆらゆら揺れて、そうです、こんな女が直哉の痛みを知っているはずがありません、どうせ殺すなら教えてやればいい、日光皮膚炎がどれだけ痛くて熱いか、どれだけ直哉が必死に私を求めてきたか。

 アルコールランプを彼女に投げつけて割りました。熱そうですね。とんでもない絶叫が彼女から溢れます。髪を振り乱して、セーラー服が燃え尽きて、一瞬相当な面積の肌が見えました。随分引き締まった体をしているようです。別段見たくもないのにやけに美しいそれがあっという間に炎に包まれて黒い影だけになるのでとてもいい気分です。ああいけません。このままだと私が死にます。

「石崎」

 すれ違いざま、直哉が部室に入っていきました。珍しく半袖です。私のことなど目もくれません。いいのでしょうか。その愛しい石崎を殺したのは私なのですが。ええいいのでしょうどうでもいいのでしょう。でも私にとってはそうではありません。腹が立ちました。せっかく直哉がいないときに殺したのに。直哉も火に包まれてしまっては石崎の勝ちです。もうどうせ石崎は助かりませんが、直哉だけは助けてあげましょう。火の広がりつつある部室の扉の外から、直哉に手を差し伸べます。が、直哉は手を掴んでくれませんでした。無遠慮な力で私の肩を揺さぶります。

「助けて」

 直哉の目はいつにもなく必死でまっすぐでした。石崎を指さしています。見開いて必死に訴えかけるその美しい双眸にはしかし、私はただの命綱です。石崎を助けてくれるかもしれない命綱です。

 けれどこの直哉が、この目が、声が、力が、きっと今までで一番リアルでした。

そもそも、直哉は私に、実際に「助けて」と言ってきたことなんか一度もなかったのです。火傷をした時だって、私が勝手に見ていただけ、それで勝手に助けただけ、それで勝手に秘密を知っただけ。でも石崎は、彼女は違いました。直哉が望んで彼女に打ち明けたのです。彼はきっと私とのことなど忘れています。彼女だけに火傷を打ち明けた、それが直哉にとっての真実です。その時は本当に、私が夢に見るように、助けて、と言ったのかもしれません。しかも彼女は、それを解決してしまったのです。なんて綺麗なんでしょう、直哉の痛みに寄生する私とはすばらしい違いです。

「助けて」

 直哉がまた肩を揺さぶりました。石崎がもう死んでいるのは明らかなのにそれでも助けてとは何をどうするんでしょうか?優しくキスでもするんでしょうか?そうすれば目覚めるとでも思っているんでしょうか?そんなわけがない、そんなことは絶対に許さない、どうしてそんなバカなことを言うのでしょう?

 とうとう直哉は私にひざまずきました。脚はもう既に、火に捕らえられていますが、きっと気付いてすらいないのでしょう。ただ石崎のことだけ思って激しく泣きじゃくって叫びます。繰り返し、同じ言葉を。

「助けて」

 彼が私の手に縋り付き、そこに彼の涙が落ちます。まるでいつかの夢のようです。拝むように頭を下げて、助けてという割に、直哉はもう私の顔すら見てくれません。

石崎を好きな直哉が、どうしても私に伝わりません。

「直哉」

 そう呼ぶと、直哉がやっと顔を上げ、私を見ました。気味の悪いものを見たとばかり、その唇が震えます。

 なんでそんな顔をするのかわかりません。わかっているけど、わかりません。直哉の感じることすべて、私の中に伝わってくれません。私の感じることすべて、直哉の中に入ってくれません。

 けれど初めから、それはそうだったのでしょう。

 これが真実でした。

 初めからこうだったのでした。私たちは。

「直哉、好きだよ」

何度も繰り返したその言葉を、敢えて言います。

「直哉、好き」「好き」「好き」「直哉」

聞き逃してほしくなくて、いくつもいくつも重ねると、涙も一緒に零れ出ました。何様のつもりなのでしょう。無神経にも、今一番泣きたいだろう直哉の上にかかります。

「愛してるよ、直哉、愛してる」

直哉の脚から火が這いあがってきました。そろそろ飲み込まれてしまうはずです。けれど直哉は私に抱き着いてくれません。

「直哉」

ただでさえ泣き腫れた声を熱で煤けさせて叫ぶ私に、直哉は澄んだ声で言いました。

「俺は、お前なんかどうでもいい」

 直哉の首を絞めました。

 わかっていました、そんなことは初めから、初めからわかって、わかりきっていて、誰に言われるまでもなく自分が一番よくわかっていて、それでもどうにもならなくて、どうしても直哉が好きで初恋で、けれど直哉にそんなことは関係なくて。

 それくらいわかってる、ずっとずっと見つめてきたんだから。だったら直哉に恋したことが罪なのか。ふざけるな。こっちだって好きで片想いなんかしてるわけじゃない。初恋相手を選べるものなら選びたかった。もしそうなら絶対に直哉なんか選ばなかった。直哉なんか好きになりたくなかった。あんな風に恋人を見るのを見つめてなんていたくなかった。幸せそうな直哉を見ていて不幸になんかなりたくなかった。直哉に死んでほしくなんかなかった。殺したくなんかなかった。彼が健やかであることをずっと願っていたかった。直哉を好きになんてなりたくなかった。

 「好きだよ。直哉」

 直哉は私の手を振りほどき、自ら火の中に駆け込んでいきました。石崎と一緒でさぞ幸せでしょう。


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