初恋論

昼八伊璃瑛

初恋論    1/6

 直哉は、それはそれは美しい人間です。この世の何よりも美しいと私は思いますし、他の何人もが、彼のことをそう思うでしょう。世界には美しい顔の格付けが数多存在していますが、世界中の人間の目に彼が晒されたならば、それらの首位はすべからく彼に捧げられてしまうに決まっています。仮にそうならなくとも、私をはじめとする彼の賛美者が気にするはずはありません。だって彼は、そうした賛美者にとって、美という概念そのものの基準になってしまうのですから。ええ。そうです。

 入学式の壇上から、ずらりと居並ぶ新入生を、そしてその保護者を睥睨した時です。その一瞬、彼と目が合ったような気がしました。彼は決して見えやすい位置にはいなかったはずなのに、自然と視線が彼に吸い寄せられ、私は一瞬、呼吸が止まりました。拍手を浴びて壇上を降りながら、帰ってきた呼吸をゆっくり味わいながら、それでも一度見てしまえば無かったことにはできないその余韻を、ああ、美しかったと、いつまでも味わっていました。

後になって、彼の苗字が雪本で、名前が直哉と言うのだと知ったその時から、自然と彼を心で呼ぶときの呼び方は、直哉、になりました。つまりはそれが、恥ずかしながら、私が初恋をした合図だったのです。

 直哉は詰襟がよく似合います。本人は首元が詰まっているのがあまり好きではないのか、入学して早々に、他の男子と同じように第一釦を開けるようになりましたが、私個人としては、入学式だからと無闇に緊張して、白い喉元をしっかりと漆黒の固い襟に覆っていた直哉がやはり印象に残っていますので、そちらの方が清潔な感じがして好きでした。直哉からしてみれば、当然知ったことではないでしょうが。

 少々細すぎるくらいの骨格も、肩幅さえ合わせてしまえば、制服ではわかりづらく、そもそも直哉は身長が低くはありません。百七十三センチは、そこで止まってしまっても十分なくらいの身長ですし、成長期であることを考えれば、まだまだ伸びることも容易に予想がつきます。脚が長いのに、裾の長い上着で腰の位置が隠れてしまいがちなことは、少しもったいないかもしれませんが。

 直哉の髪は、染めているわけではないでしょうが、他の人間に比べれば明るい色をしています。こげ茶色と言うか、ともかく少々薄い色です。全体としてはミディアムと呼ばれる程度の長さで、横顔にかかる髪が中でもやや長いのは、多分、顔を見られたくないのでしょうが、なんというか、逆効果ではないかなと時折思います。

例えば、彼の横顔が多少隠れていても、抜けるような白い肌と、完全無欠と言って差し支えない顎のラインと、すんなりと美しく通った鼻筋と、よい血色が淡くにじむピンク色のふっくらとした唇は見えます。そもそも彼の頭蓋骨はとても端正な形をしていて、後頭部が突き出ていたりだとか、一部へこんでいたりだとか、そういうことが全くありません。額が突き出ているわけでも、受け口でもありません。彼の美しさは、ちょっとやそっとのパーツからなるものではないのです。ですから、目だけを隠す直哉の髪型はむしろ、既に隠しようもない彼の美しさを伴って、相手の目を見たいと願う人間の本能ごと、視線を誘ってしまいます。

 ノートをとっている時や、教科書を読んでいるとき、彼の目は完全に隠れてしまいます。時折集中すると、教科書の文章などを声に出さずに口元だけで呟いて、シャープペンシルのノック部分で軽くその唇を押さえました。

 やめてほしい、と思ってしまいます。もう少し、どう見えるか考えてほしいです。授業中のしぐさは、直哉のでなくたって、さりげなく皆確認しています。例えばペンを回したり、あるいは指を鳴らしたり、そうした行動のすべて、皆見ています。私は決してそういう直哉のしぐさが嫌いではありませんが、万が一、ブツブツ言っていて気持ち悪いだの、ペンを咥えただの、意味の分からないいちゃもんをつけられてしまっては、困るのは直哉です。直哉は目立つのですから。今のところ、そういう話を聞かないのが本当に幸いです。そもそも私も、授業中に人の顔を見るなんて不躾なことをする人間では、なかったのですが。

 そうして、たまには直哉が当てられて、ふ、と顔を上げると―私も大概、美化しているはずなのですが―記憶はおろか、想像や期待をはるかに超えるほど、美しい目が露になるのです。こればっかりは、何度経験しても慣れません。いつも眺めていれば、大抵その美しさに飽いたり、予想がついたり、頭の中で忠実に思い描けたりするものだと思うのですが、直哉は、何度見てもいつ見ても必ず、その美しさだけで強烈な感動を刻んでいきます。


 私は毎朝、直哉と彼の友人が待ち合わせて登校しているのと出くわします。直哉もその友人も同じクラスですし、彼らは愛想が良いので、軽く挨拶を交わします。そこで、ああ、直哉はこんなに美しい人間だっただろうかと、思わない日はありません。

直哉と友人は会話をしながらゆっくりと登校しているので、自然と追い抜かして、彼らより先に教室に着きます。一番乗りのことが多いです。私の登校が早いのは、単に家族の起きる時間が早いからですが、彼らが早いのは恐らく、直哉に構おうとする他の連中を避けるためなのでしょう。まるで芸能人のようです。

 三分もすれば直哉と友人が楽しそうに教室に入ってきます。そこで視線を向けると、またぎくりとさせられて、慌てて反らしてしまいます。直哉は、友人に向ける笑顔と、他の人間に向ける笑顔が違うのです。

 

 その友人は、入学してから初めての授業で、ちょっと気さくすぎる教師が直哉のことを「イケメンだ」と繰り返しいじった時「教師がそういうこと言うのってどうなんですか」と言ったことがありました。教師の方は根が真面目だったらしく、きちんと受け止めその場で謝罪したのですが、空気と言うのは理不尽なもので、彼が変なことをしてその場が白けたかのような扱いになり、少し気の毒な立場になっていました。

 しかしむしろそれ以降、直哉は、席も近かった彼とよく話し、昼食も一緒に取るようになりました。

 私はそれで、ますます直哉が好きになりました。まっすぐな人間を、まっすぐだと理解できるのは、その人もまっすぐである証です。そしてまっすぐであるということは、軽視されてしまいがちだけれど、とても重要なことです。

 

 少し話がそれてしまいましたが、直哉がその友人と楽しそうにしているのが、私はとても好きです。人もまばらな教室で、ただじっと、直哉が幸せそうにくつろいでいるのを、噛みしめます。ただ、二日に一回以上は、そういうタイミングで一時間目の教師に手伝いを申し付けられてしまうのですが。

 手伝いと言っても教材を運んだりするのが関の山ですが、それでも大抵十分くらいはかかります。そうこうするうち教室に戻ると、だいぶ人が増えているものです。直哉の周りには散々人がたかります。けれど、直哉はニコニコと応対しながらも、友人を必ず会話の輪の中に入れて、二人の間でしかわからない話題などを、むしろわざと振舞ったりするのです。どこまで人が良くできているのか、友人が、それは皆に伝わらないだろう、とたしなめると、直哉は、ああうっかり、と言わんばかりに苦笑いで謝ります。そこまでされて怒る人間はいません。二人は仲が良いんだねと、何度も何度も、周囲に確認させます。直哉は強かだと、そういう時に思います。

 そういう、友人のために強かになっている、なんとも言えないタイミングの直哉の、全然隙のない表情にも、例外なく胸はざわつきます。授業もまだなのに、一日が始まってこれで三度目です。自分でも時折、怖くなります。

 そうして授業が始まると、直哉はすぐに髪の毛で横顔を隠してしまい、そして呼ばれれば、あるいは、直哉自身が授業中に辺りを見回したりすれば、また、あの美しい目が、二重の、真っ白な瞼に覆われた、鋭くも濡れた目が現れて、何度でも見てはいけないものを見た気にさせられるからおかしなものです。

 

 恋をすると、こんなものなのでしょうか。少し度が過ぎている気がします。やはり自分がおかしいくらい恋愛体質なのではないかという気がしてきました。何を隠そう、母がそうなのです。母がと言うか、母の父親である祖父が、そしてその父親である曾祖父が、さらにそのご先祖様が大抵、どうも、そうらしいのです。

 高校入学までは話半分に聞いていました。自分もそうなのだろうかと言ってみたこともありましたが、とんでもない、せっかくお前はそんなことがなさそうでよかったと思っているのに、と家族全員ものすごい慌てようでした。ちょっとやそっとの恋愛体質ではなく、毎度毎度思春期を迎えるたびに生きるか死ぬかの大騒ぎになる類のものであることが多いらしく、しかもその度合いが代を経るごとに強くなっていっているとのことでした。

 いくらなんでも恋愛体質がDNAで決まるわけはないとは思いたいですが、確かに、直哉に対するこの思いは、どう考えても尋常ではありません。そもそもが尋常ではない上に、まだ出会って大した時間も経ってはいないのに、この有り様なのですから。


 話す機会自体は実際のところ、他の人よりはあるはずですが、私自身が口数の多い方ではなく、またあまりに尋常でない想いに、この上話しかけたりして、距離を縮めようとも思えず、むざむざ棒に振っています。

 けれどそれでも、私は幸せです。直哉がいてくれるだけで、直哉の美しさに打ちひしがれているだけで、本当に、どうしようもないほど心が満たされていくのがわかります。これが恋愛というものであるなら、どうして切ないだとか悲しいだとか、生きるの死ぬのの話になるでしょう。期待しすぎではないのかと思います。期待しすぎというよりは、贅沢とでもいうのでしょうか。


 五月初め、直哉は、部活の同級生の女子と交際を始めました。

その同級生の女子と言うのは、美人でも何でもなくて、周りの人間が意外がるのも仕方がありませんでした。私でも驚いたのです。不細工ではないけれど、いい子だけれど、それでも、なんということもない、少し純朴すぎるくらいの女の子―。

 驚きはしましたが、別段どうという事もありません。私はそもそも伝えることがないし、伝える気がないのですから、嫉妬というものも起こりようはずもありません。言ってしまえば、もう失恋しているのです。ありもしない可能性を惜しむでもなし、むしろ、相手がとてもいい子であることに、新たな喜びを覚えました。あの子ならきっと、大丈夫です。あの友人のことといい、直哉にはきっと、人を見る目があるのでしょう。


 そんな風に考えていた私は、大人のように悟ったふりをして、きっと、人の何倍も子供だったのだと思います。なんといっても、初恋なのです。初めて挑みかかる相手に、油断など、絶対にしてはならなかったのに。

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