第20話「五体満足で合宿を終えよう」

 肩首腰の痛みで目が醒める。寝返りも打てない狭い布団で、ちょっとかっこつけて奏を腕に乗せて寝たせいで、寝起きの時点で既に身体は大惨事。起き上がれば隣には未だ小さく寝息を立てながら眠る奏の姿があった。少しはだけた奏の浴衣の胸元を直してやる。一人で寝ているときはひどい寝相だったが、明良の横で寝ているときは案外動いていないようだった。狭くて動けるスペースがないからなのだろうか。

 ――ヤってないよな……?

 一瞬の不安にかられながらも、そんなことはないと否定する。そう、ちょっと唇を合わせてそのまま舌を絡ませたりなんかして、くらいのものだ。結局同じ空間でそれぞれ解消こそしたものの、キスよりも先には進んでいない。

 ――ヤってはないけど、完全にやってないか……?

 背中を伝う冷や汗に意識を取られながら、明良はゆっくりと立ち上がる。

「…………明良くん」

 まだ寝ぼけまなこの奏も、一緒になってゆっくりと起き上がる。明良の腕に自分の腕を絡ませて、体重を預けて。

「――その、なんだか、身体痛いですね。初夜明けって、こんなかんじなんでしょうか」

 へへ、とはにかんで、奏はゆっくりと明良に近づいてくる。

「その、正式なその、あの、約束ごとはまだですから、折を見て、その、お互い覚悟ができたら、正式に……」

 ここまできて、もはや明良とてお互いの感情に蓋をして見ないふりなどできようはずもない。それにこうやって話している時点でお互いに合意が取れているのだから、果たしてその儀式に何の意味があるのかと言われたら。その答えを明良は持たないが、だが奏がその儀式を重要視するのなら――

「そうだな、いいタイミングでな」

 ――明良とて、いずれ覚悟を決めて気持ちを伝えるべきなのだ。


 二人して肩だの腰だのをトントン叩きながら部屋を出ると、今日も早起きの相川が談話スペースのソファに座ってペットボトルのカフェオレを飲んでいるところだった。

「ははーん」

 明良たちを目にとめた相川は、その顔にニンマリと笑顔を作り、奏と明良の間まで歩いてきて、二人の肩に手を置いてきた。

「さては君たち、ヤったな?」

「ま、まだですよ!」

「はいはい、ね」


 昨日と同じ道を車で走ること三十分ほど。昨日は右折した道を直進し、そのまま車は山道を過ごしていく。川沿いの谷間を進み、やがて車はかの有名ないろは坂に差し掛かった。

「走り屋の血が騒ぐね」

 佐山はそう言いながら、なかなかのスピードでコーナーを攻めていく。左右に曲がるたびに身体は左右に振られ、明良が左側に大きく倒れたまま逆コーナーに侵入すれば、上から奏の身体が降ってくる始末である。

「明良くん、大丈夫ですか?」

 顔も間近、昨晩のことを少しだけ思い出して顔を逸らしつつ答えれば、奏も思い出したのかぱっと起き上がって窓の外を見始めた。

「…………何か」

 明良は起き上がってふと、自分が今車酔いを起こしているのではないかという疑念が浮かび上がってくる。この身体の中心付近がモヤモヤとする感覚、これこそ車酔いなのではないか。

「どうしたんですか?」

「酔った……」

「あら、大丈夫ですか? 一度止めてもらいます?」

「いや、そこまでじゃないんだけど」

 うーん、と外を眺めていれば、奏は手を伸ばして背中をさすってくれる。

 ――それ吐かないか……?

「明良くん、ついたら膝枕してあげますから、しばらくの辛抱ですよ」

 ――カタカタカタカタカタカタカタカタ。

 一定のリズムを刻む、何かの音が聞こえ始める。

「あ、そういえば明良くん、炭酸水飲むとちょっとよくなるってどこかで聞きましたよ。さっき買ったサイダー、飲みますか?」

「いいのか?」

「どうぞどうぞ」

 奏からペットボトルを受け取る。既に奏は半分ほど飲んでいて、結露したペットボトルから伝わる温度はややぬるい。

「おいしいですか?」

「ああ」

 ――ガタガタガタガタガタガタ。

「何がこんなガタガタ言ってるの?」

 運転席から、気持ちよく運転していた佐山の声が聞こえてくる。

「これは福島くんの嫉妬の音ですよ」

「クソッ! 四方山さんは!! 絶対に!! 誰ともいい関係になんてならない!!!」

「解釈不一致によってアンチになるパターンの人だ」

「現実にいるんだね」

 あはは、と奏は気まずそうな笑いを浮かべた。

「お前、たぶんアレだ、ちゃんと人とお付き合いとかしたらダメなタイプだろ。絶対クソメンヘラ束縛男とかになるぞ。いや、付き合ってもないのになってるか。厄介だな」

「明良くん、結構言いますね」

「言うだろ」


 エレベーターを降りると、身体を冷たい風が吹き付ける。夏だというのに気温は長袖に上着を着て丁度いいくらいで、夏仕様の今の恰好ではとても寒くて仕方がない。とうとう狂ってしまった福島から怨念を感じながらも、少し離れた場所で寒いものは寒いと、奏と少し肩を触れて歩く。

「鍾乳洞とかも、こういう感じらしいですね」

「そうなんだ」

 トンネルを下り抜けると、人の多い観瀑台に辿り着く。

 見上げれば、大きな水音を轟かせながら大量の水を落とす華厳の滝が聳える。なんと荘厳な景色であろうか。

 トンネルを抜けたら抜けたで夏の日差しは暑いが、滝から飛んでくる水しぶきが心地よい。

「昨日の夜も雨が降っていましたから、今日も水の量が多めですね~」

 そんな風に、現地のガイドらしい人が、自分たちとは関係ない観光客たちに説明しているのを盗み聞きしながら、少し滝に近づく。見下ろせばはるか下を緑の間に激流が流れ、その間にもきっと岩を削っているのだろう。正面に聳える滝は、なるほどこうして観光地になるだけのことはあって壮観だった。奥の抉れた岩の部分が、今は水が当たっていないというのにどうしてあの形になったのか、そんなことを考えるだけでも楽しい気持ちになるというものである。

 ――こいつさえいなければ。

「俺は、絶対に許さないからな、お前が四方山さんといい関係になるなんて……」

 ――うるせぇな、こいつ。

「でさ、結局どこまで行ったわけ?」

 向こうでは向こうで、三橋は興味津々といった様子で奏の横に近づいてそう奏に尋問を始めていた。

「ひ、ひみつです!」

 ――それにしても。

 エレベーターが壊れたら滝の上まで帰ることさえできそうもないこんな観瀑台のど真ん中で土産屋をやっているとは、なんと商魂たくましいことであろうか。覗いてみれば日光の土産は所く、棚と棚の間は人が一人通るのでやっとといった様子だった。

「すごいもんだ」

「ですねぇ」

 いつの間にやら三橋から逃げ出してきた奏が、後ろから答える。

「何か買いますか」

「どうしようかな。別にもう家族へのお土産は買ったからなぁ」

「せっかくですから、何か私とお揃いのものを買ってくれてもいいんですよ」

「ああ、いいな、それ。何がいい? 面白いのはやっぱこれか」

 ありとあらゆる観光地に置いてある、謎の剣のお土産。一体誰が何のために作り始めたのだろうかと、いつも気になっている。

「それを言うなら、こっちの方がかわいいですよ」

 奏が指さしたのは、やはりどこにでもある謎の狐みたいなやつのキーホルダーだった。

「…………なんでこいつらどこにでもいるんだろうな」

「なんででしょうね。あ、やっぱり日光ですから三猿とかですか」

「これとか」

 見ざる言わざる聞かざるそれぞれの顔が縦に三つ並んだキーホルダー。どこかで見たことがある気がするのは、かつて同じものを誰かが持っていたからだろうか。

「これにしてみましょうか」

 奏はそう言うと、二つ手に取って、一つを明良の手に置いた。

「おそろいです」

「だな」


 エレベーターをおりると、一気に暑さが身体に纏わりついてくる。

「暑いですね、世界」

 一行は車に向かって歩き出す。塩焼きの魚も、土産も、スルーして車へ。すぐにでも冷房の効いた車へ行きたくて仕方ないのだ。

 華厳の滝の駐車場までの僅かの間に身体には汗が滲む。

 額に汗が浮かんでくる頃に、一行はようやく車に乗り込んだ。

「それでさ、そこまで行ったのよ、二人は」

 全員が冷風の滝を浴びる中、未だ答えを得ることのできずにいた三橋が、そう呟く。

「だから、ひみつですって」

 奏はそういなして、ね、と明良に笑いかけた。その笑顔のなんと素晴らしいことか。天下の華厳の滝も、聖女様の前ではかたなしと言ったところであろうか。

「あれ? 車券……」

「んっ」「おっ」

 ――静寂。

 これを静寂と呼ばずしてなんと呼ぶのであろうか。

「なるほど」

「あ~、なんか、私魚食べたくなってきたな。キスとか」

 ビクッ。

「そういえば最近ペットって見ないよね」

「心寧ちゃん、遊ばないでください!」

「え、こんなに面白いのに……!?」

「貴様ァ! よくも! よくもよくもよくも! よくも聖女様の清らかな身体を…………ッ!!!!」

 立ち上がり、天井に頭をぶつけたこともなかったことのように、鼻息荒く突進してくる男が一人。そう、福島である。

「まあまあ、落ち着きなよ。あんただってあたしとヤったでしょ。私で童貞捨てたくせに人がちゅーしたくらいでみっともないよ」

 そんな福島の首に、三橋の腕が巻き付く。

「やっぱ化け物には化け物をぶつけるのが一番効果的なんだな」


 戦場ヶ原をハイキングというのは、なんとも小学校の修学旅行を彷彿とさせる行事である。どこからともなく野生動物の声が響き渡り、その中では自分たちが話すこの声もまた、ただの動物の鳴き声に過ぎないのだと、そう思わされる。。

 ――ていうかこいつピーピーピーピーうるせぇな。

 未だ奏とキスしたことに腹を立てているアホの声は、なるほど人間が霊長類であることを克明に示している。

「あ、明良くん見てください、あっちに猿いますよ」

 奏が指さしたのは、少し離れたところの岩陰だった。大きな岩の下に二匹、猿が並んで座っている。ふと、一匹が立ち上がると、もう一匹の腰に手をかけ――

「あっ! 明良くん……! 見てくださいあれ……!!」

「お前………………動物の交尾見て興奮してんのか」

「こ、興奮なんてしてませんよ、そんな、まさか。だってね、ほら、明良くん、好きでしょ、ああいうの」

「動揺しすぎだろお前」

 珍しく顔を真っ赤にした奏は、おんおんと一人で唸ってから、明良の腕を掴んでぐっと睨んでくると、小さな声でぼそっと呟いた。

「わ、私で初めて捨てたくせに」

「キスの話してる? あんまキスで初めて捨てるって言わないだろ。あとそれお前もだろ」

「わーん! 明良くんがいじめる!」

「いじめてねぇよ。てか、それならあっちの猿だって交尾してたんじゃねぇのか」

 目を後ろに向ければ、未だ福島は猿のように鳴いているではないか。同じ人間としてなんと情けないことか。

「明良くん、そんな誰がえっちして誰がえっちしてないとか、それでいちいち興奮してたらやってられませんよ。知ってることと実際に見るのとは違いますからね。ほら、明良くんだって、私のおっぱいの形知ってるわけですが、別に服の上から見ても興奮するほどでもないでしょう? ところが実際に私のおっぱい見たらやっぱり興奮するでしょ? そういうことですよ」

「ごめん、なんの話?」


「嫌じゃないんですかね」

 猿を背中に乗せた鹿を眺めていた奏が、ぽつりと呟いた。

「アッキーは女の子に乗られるのは好き?」

 いい加減猿の相手にも疲れてきたらしい三橋が、奏と明良の横に立って言う。

「ごめん、マジでなんの話?」

「ほら、聖女様もアッキーの性癖に興味津々だよ」

 奏の方を見れば、丁度バチっと目が合う。まるで本物のお姫様を目の前にした女の子のように目を輝かせた奏は、しかし興味を向けているのは自分の性癖なのだと思うと、いたたまれない気持ちになってくる。世の中、知らないほうがいいこともある。

「まあ、そういうシチュエーションは嫌いじゃないが」

「ふーん。だって」

「なるほど……明良くんは攻められるのが嫌いじゃない……」

「なんで本人を挟んでそういう話をするわけ?」

「そっちの方が面白いでしょ」

 三橋は一通り奏で遊んだかと思うと、また福島のいる方へ帰っていった。いい加減福島も落ち着いたのかと思ったら、そんなこともなさそうである。嫉妬に狂ったなんと哀れな猿であろうか。キスくらいで。

「それにしても、自然豊かですねえ。開放的な気分になります」

「……開放的、ね」

 奏が開放的と言うと、どうしてか露出狂と化した奏が頭を過る。それも、やけに鮮明に。

「――明良くん? なんか変なこと考えてませんか?」

 いやいや、と明良は首を振るが、奏は未だ疑念を捨てきれないらしい。ぐいと明良に近寄ってくると、ほんの数センチしかない距離で、明良の肩に手を置いた。

「流石に私も、青姦はちょっと恥ずかしいですよ」

「お前、マジでいつでも俺の想像の斜め上を行くよな。すごいわ」

「な、なんですか想像の斜め上って」

 今度は明良が奏の肩に手を置く。

「俺、開放的になって露出狂になったお前のこと考えてたんだけど、その上挿入まで?」

「………………明良くん、私のこと露出狂だと思ってるんですか?」

「まあ、一緒に風呂入ってるし、それで興奮する趣味なのかなって……」

「そりゃ明良くんに見られれば興奮しますけど、それは明良くんだからであってですねえ!」

 心外ですよ、と奏はふんと鼻を鳴らした。

「あの、二人とも、お楽しみのところ申し訳ないんだけどさ」

 明良と奏、双方の肩に第三者の手が乗せられる。手の主は相川である。

「そろそろ福島くんが狂い死にしそうだから勘弁してやって」

 哀れ、福島は既に立っていることさえできず、近くの岩のところに座り込んでいるではないか。

「かなちゃん、ほら、二人っきりのときはさ、何してもいいからさ」

「な、何しても……」

「もう想像してること全部してもいいから、せめて彼を無事に東京に返してあげよう」

 湿地を吹き抜けるぬるい風が頬を撫でる。なんと益の無い会話なのだろう。


「……………………ねえ、明良くん」

 隣の布団の中から、奏がくぐもった声を上げた。

「私たち、よくここまで、耐えたと、思いませんか」

 息もまだ整わぬまま、奏は布団から顔を出して、明良の方を見ていた。汗ばんだひたいに髪が張り付いているのが、いたく艶めかしい。

「だって、もう、お互いに全部見ちゃったんですよ。三回も一緒にお風呂入って、こうしてお互いに布団はかぶってますけど、それぞれですけど、認識できるところで欲を満たして、昨日は一緒の布団で寝て、キスまで、しちゃったんですよ」

 奏が、身体を起こす。はだけた浴衣から、白い肌が覗いている。

「逆になんで手、出してくれないんですか。玉ないんですか。――いや、あったか。あったな」

「誘ってんのか」

「誘ってるんですよ。見てわかりませんか」

 奏は、立ち上がって、浴衣を床に落とした。

「こんなこと言うのも、あれですけど、私、準備万端なんですよ」

「奏」

 奏の動きが、止まる。

「俺は、なんていうか、確かに奏とこういうことするの、嫌じゃない。嫌じゃないし、寧ろ嬉しいよ。だって奏の素なんだろ、それが。奏が俺に心を開いてくれてる証拠じゃないか。そりゃ、嬉しいよ。でもさ、結局俺たち、何を言ったって、まだお互いに覚悟を決められてなくて、言葉で言い表せてなくて。本当にしたいならさ、奏だって、別に今すぐ俺のこと襲えるわけだけど、それをしないってことは、やっぱりさ、なんていうか、それだけじゃないんだろ。欲だけじゃ」

 立ち上がる。奏を、ゆっくりと抱きしめた。

「だから、俺が、俺に、それを奏に伝えるだけの覚悟ができるまで、もう少しだけ、待って欲しいんだ」

 腕の中で、奏は何も言わない。ただ、ぐっと腰に回された腕に、力が入った。

「あんまり、待たせないでください。あんまり待たせたら、私、待ってあげないから」

「ああ」

 既視感がある。今朝もうっすら思ったような、そんなこと。

 ――ほぼ告白じゃないのか? これ。 

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