第9話「新人大会に出てみよう」

 いわゆる、新人大会。正式名称は「西東京演劇新人コンテスト」と言い、要するに地区の高校の演劇部を集めて新入部員を参加させて上演しようというコンセプトの、アレである。コンテストとは言うが賞が貰えるわけでもなければ順位付けされるわけでもないという、名前ばかり仰々しい、毎年恒例の行事なのだとか。なお、新人が一人もいなくても参加可能らしく、去年も出たと相川は言っていた。

 そんな新人大会が今日、六月某日に行われるというわけである。

 近年の梅雨の蒸し暑さに辟易しながら、バスから降りれば、そこは明良たちの学校がある場所よりもいくらか田舎寄りの、都道沿いの住宅街に囲まれた小規模なホールであった。

「でも、雨が降らなくてよかったですねぇ」

 明良の後ろでバスを降りた奏はそう呟いて伸びをした。その暑さゆえにブレザーは既に着ておらず、紺色のベストの奥に隠れる豊満な胸が体勢で強調され、目につく。明良はそっと目を逸らすと、再びホールの方に目を向けた。

「明良くん、見苦しいですよ」

 耳元で奏が言う。

「何がだ」

「それほどあからさまに目を逸らされれば、気づいてなくても気づくものなんですよ」

 そう言うと、少し腰を追って上目遣いで、奏はふふと笑った。こういうふとした瞬間に、奏の美しさを再認識させられるものだが、如何せん普段の様子が卑近も卑近、どうにも明良は信奉しようという気にはならない。

 相川ら三年生、それに福島と三橋の一年生二人も続々とバスを降りてくる。その後ろからもまた、別の学校の制服姿の生徒たちが続く。

 ――大会ってのはこういうものか。

「なんだかワクワクしますね」

「どうしてそう緊張せずにいられるんだ?」

 明良はといえば昨晩から緊張しっぱなしで、ろくに眠れていない。何せ演劇など未経験なのだ。いろはのいの字もわからないのに、どうしてこれで主人公役なんてできようか。

「明良くん、私が普段どうやって過ごしているか、お忘れですか?」

「何だ? いっつも清楚な演技フリしてるから大丈夫ってか?」

「まあ、そういう側面もあります」

 ――あるのかよ。

「変なところに止まってないで、行くよ」

 引率で来た佐山先生が、明良の背中を押す。奏と話しているうちに相川たち三年はもうホールの入口の方へ歩き出していた。

「渡良瀬くん、すごいガチガチだね」

 三橋は歩き出しながらそう言った。

「まあ。ガチガチなんですか? トイレ行きます?」

 明良にしか聞こえない声で、奏が囁いてくる。とりあえず一度黙ってほしい。

「慣れないことをしなきゃならんもんで、緊張して」

「意外だね、僕はてっきり渡良瀬くんはこういうの慣れてると思ってたよ」

 福島も三橋に続いてそう言って、さっと、明良とは反対側の奏の隣を陣取った。

「その点、四方山さんはちっとも緊張していないね。流石だよ」

「私ももちろん緊張していますよ」

 奏は営業スマイルを顔に張りつけた。

「とてもそうは見えない」

 なるほど確かに、普段の演技とはよく言ったものだ。

「三橋さんこそ、あまり緊張していないみたいですね」

「まあ、私は中学でもやってたし、普通に大会にも出てたからね~」

 奏は、緊張しているか緊張していないのか本当のところはイマイチわからないが、三橋は本当に緊張していないのだろう。両手を左右でひらひらさせると、ハハ、と笑った。

「それに、今回はあんまり脚本も長くないしね。長いと台詞覚えるの大変なんだよね」

「それは確かに、大変ですね。でも、いつかはやってみたいものです、長めの脚本」

「そうだね、せっかくだもんね。相川先輩に言って書いてもらわなきゃ」

 三橋はそう言うとスタスタと歩く速度を上げて、相川を呼びながらそちらへ近づいていった。


 ホールのエントランスには既に何校かの演劇部が集まってミーティングをしていた。明良たちも場所を取ってそこに荷物を置く。

「このあと十時から全体で説明が始まって、それからすぐに最初の演目が始まるから、話しておくなら今のうちだよ」

「こういうときだけ顧問みたいな顔するんだから」

「まあまあ」

 相川の突っ込みを、松本が宥めて、そのままの流れでミーティングが始まった。今日のタイムスケジュールだとか、本番前どういう動きをするかとか、そういった一度学校でも聞いたことの再確認だった。こういうのが部活らしいのかなと、なんとなく明良は思う。

 他の学校の様子をちらりと見てみれば、先輩が新入生の緊張をほぐそうと奮闘していたり、逆にプレッシャーをかけていたりと、様子は学校によって様々だった。

「明良くん、そわそわしすぎですよ」

 奏が、明良のワイシャツの脇を引っ張って言う。

「あ? ああ」

「まあでもいいんじゃないか? アッキーの役は三角関係に挟まれてまごつく役だし」

 相川が奏に続く。

「でもやっぱり、渡良瀬くんは二人ともと関係を持つ感じの役の方が似合いそうだね」

「それには僕も同感だな」

 三橋の言葉に、福島が同調した。

「なーんか変な色気というか、いかにもな感じがあるよね」

 そう言った三橋は上から下まで明良のことをじっくりと見たあと、不敵な笑みを浮かべた。

「そういうタイプ、嫌いじゃないよ」

「なっ!」

 明良がその言葉を飲み込むよりも先に声を上げたのは、明良の横に立つ奏である。その拳は握り込まれ、世が世なら今にも恋敵との殴り合いでも始まりそうな空気であった。それに挟まれるのは、なんと身が竦む思いであろうか。

 ――なるほど、これがこの役の感情。

 三角関係に挟まれてまごつく役、というのが初めて理解できたような気がする。

 ――それにしても。

「随分と役に入り込んでんな」

 明良が呟けば、横に来た相川が、明良の耳元にそっと囁いた。

「果たして本当に役作りかな……?」

「………………無責任に意味深なこと言うのはよくないですよ」

「前に言ってたんだよ、三橋ちゃん。ってね」

「俺遊んでないですけどね」

 まあまあ、と相川は明良の肩に手を置いた。

「いいかいアッキー、外面ばかり気にする人に、自分の纏う空気がどんな印象を与えるか、心に問いかけてみるんだ」

 ――遊んでそうだな、コイツ。

「…………じゃあ三橋はそれでいいとして、奏は? それこそ、聖女様なんでしょう? 聖女様がこんな遊んでそうな奴に?」

「そりゃ色々あるんでしょ」

「だからその色々を聞いてるんでしょうが」

「…………ま、言ったことに責任を取るつもりはないとだけ言っとくかな」

 肩をポンと叩いて、相川は明良の横を去っていった。

 ――ホントに無責任じゃねーか。


 演劇を実際に行うホールは、大体収容人数にして六百人くらいの中規模なところだった。開演前の緊張感が場を支配していて、その場にいる生徒のうち三分の一は酷く緊張した面持ちで座っている。なんと一年生とはわかりやすい生き物なのであろうか。

「なんだかワクワクしますね」

 左隣に座る奏が、そう明良に耳打ちしてくる。どうやらいよいよ最後に残った一縷の緊張もほぐれたらしく、本当にワクワクした様子で緞帳の降りた舞台を眺めている。それは三橋や福島にしてもさほど変わらず、高揚感こそ感じないが、明良以外は本当に緊張している様子がない。

 ――これじゃ俺だけが一年生みたいだな。

 きっと奏を見習うべきなのだろう。

「流石は二鷲の聖女様だね。君と違って、舞台に上がる者としての貫禄さえ感じるよ」

 奏とは反対の隣に座る福島が、今度は耳打ちしてくる。

「嫌味を聞いてるほど暇じゃないんだけどな」

「いやいや、まさか。でも、舞台に立つ者はこうあるべきだよ、渡良瀬くん。君も聖女様のように、どしっと構えて場を楽しむくらいしないと」

 言いたいことを言い終えたのか、福島は席を立った。これから他校の演劇が始まるというのに、一体どこへ行こうというのか。

 代わりに空いた席には、先ほどトイレに行った三橋が座った。ふと視線を感じて左隣を見ると、奏が明良を挟んで三橋のことをじっと見つめていた。

「三角関係ねえ……」

 足元にある鞄から脚本を取り出してみる。タイトルは『三角関係のゆくえ』といい、つまりは三角関係になった男女が最終的にどうなるかという、あらすじとしてはよくあると言えるストーリーだった。今回は青春っぽいものをやりたいと相川が言ったから、舞台は学校で、年齢や設定も明良たち本人に近いものになっている。ただし、奏は「聖女」だし明良は「チャラ男」と、本人の中身よりは見た目を重視したもの。三橋はお金持ちの幼馴染として、聖女に対抗できるだけの属性が盛られている。問題があるとすれば、結局明良はチャラ男が何たるかを知らないままでいる、ということくらいだろうか。

 ぼんやりと表紙を眺めていれば、ブザーが鳴り、客電が落ちる。とうとう一校目が始まる。

 一校目が演じたのは、シェイクスピアのロミオとジュリエットのパロディで、明良の目からではいいんだか悪いんだかよくわからなかった。ただ会場はそこそこの盛り上がりを見せたのだから、きっと面白かったのだろうと思う。そこまで好みではない。

 二校目は打って変わってギャグ全振りの喜劇。会場は笑いに包まれ、これまた最後は大盛り上がりを見せた。演者が一年生ではないらしく、声が大きくて会場がざわついていてもよく通ったのが印象的だった。

 三校目は、明良たちと同じ青春もので、一貫してシリアスな作風の劇だった。印象に残ったのはやはり、一度は振られたヒロインが包丁を突き付けながら自分と付き合うように脅すところだろう。それまで一切ヤンデレらしい素振りは見せていなかったのに、舞台中央でスポットに照らされながら包丁片手に笑う部分はなかなかゾクっとした。明良は面白いなと思ったのだが、これは会場のウケがイマイチだった。やはり唐突なヤンデレがウケなかったのだろうか。

 そして四校目。次が二鷲高校演劇部の出番である。


 この脚本の手抜き部分、それは役名が本人の名前そのままであろうところだろう。明良はアキラだし、奏はカナデだし、三橋もまた下の名前を取ってクオン。

 演劇のことはよくわからないが、大抵の場合キャラクターの名前と演者の名前とは分けて考えるものなんじゃないか、と明良は思う。相川がそれでいいと言うのだから、いいのだろうが。

 演劇開始の合図は、福島の流す学校のチャイムの音。キーンコーンカーンコーンというアレ。舞台上ではセンターにアキラが突っ立っており、上手からはカナデ、下手からはクオンが出てくる。

「あっ、アキラくん!」「あっ、明良くん!」

 左右を確認すると、カナデとクオンがこちらに駆け寄ってくる。左手をカナデが、右手をクオンが取り、そこで二人はお互いに気付くのである。

「なんでアキラくんに触ってるわけ? 誰?」

「それは私の台詞です」

 二人はそれぞれ自分の側にアキラを引き寄せようとする。

 ――ん?

 練習では、ここで双方腕を掴んで引っ張っていたが、今、明良の左腕は奏に抱き寄せられ完全に胸の谷間に挟まっている。おまけに奏は腕を閉じていて、丁度腕に外側から圧力が掛かるような形。明良の腕は柔らかなふくらみに見事に埋もれているのである。いやしかし、ここで気を乱してはいけない。練習のときに誰かが言っていた。トラブルが起こってもそのまま続けた方が案外面白くなることもある、と。

 このシーンでは、結局カナデとクオンとで決着はつかない。三十秒ほど引っ張り合ったあと、アキラが二人の手を振り払い、少し前に出てこう宣言する。

「二人とも、ちょっと待ってくれよ! 俺のことが好きになってしまうのはとても分かる! 仕方のないことだ。でも流石の俺だって、真剣に二人同時に相手をするのは難しい!」

 ――今、完全に奏のおっぱいが……。

 明良の腕に残る感触は一向に消えない。精神統一、精神統一しなければ。

「そ、そうか……! いっそ二人を同時に相手にすればいいのでは――」

「ちょっとアキラくん! 私とアイツ、どっちがいいわけ⁉」

「そうですよ明良くん! はっきりしてください!」

 当然、二人と一緒に付き合って仲良く、などとは問屋が卸さない。この話は要するに、アキラがはっきりしないから女二人が醜く喧嘩する、という滑稽話なのだ。

「く、どっちも捨てがたい! 俺は、俺は――どうしたらいいんだ~~~!!!!」

 で、明良は両手で万歳しながら上手に走ってはける。今だ頭にこびりつく奏のおっぱいがなんと良い方向に働くこともあるもので、明良はいつもよりも肩肘張らずに演技できていた。怪我の功名とでも言うべきものだろう。

 舞台上では、取り残された二人がお互いに向かい合って、ガンを飛ばし合う。

「いい? アキラくんは私と付き合うの。お分かり?」

「いいえちっとも。そもそも、明良くんとは私が付き合うんです。お分かりですか、コラ」

 ――今コラって言ったな。

 そんな台詞は台本に無い。

「「ふん!」」 

 お互いにそっぽを向いて、上手と下手に別れてはける。これで起承転結で言えば起の部分が終わる。

 客席から見える範囲にいる間、ずっとぶすっとした表情を保っていた奏は、袖に入って明良の顔を見ると、にっこりと笑った。

「なかなか好調な滑り出しですね」

「そ、そうだな」

 奏の顔を見ると、どうしてもさっきの左腕の感触が蘇る。奏はしてやったりと言った顔でむふんと笑ったあと、下手側をじっと見つめていた。

 ――ダメだダメだ、一旦演劇に集中しないと。

 顔を両手でパンと叩いて、集中しなおす。

「どうしたんですか、急に」

「邪念がさ」

 せめて本番中は、払わねばなるまい。


 順調に演劇は進んでいく。その過程で何度も、練習にはなかったボディータッチを奏が挟んでくる。それに影響されてか、次第に三橋もボディータッチを増やしていく。

 次々頭に浮かんでくる邪な感情を捨てやりながら、頭に叩き込んだ台本をなぞっていく。明良も、なんとかギリギリで二人のアドリブにも対応していると思う。

「結局、アキラくんはどっちが好きなの⁉」

 クオンがアキラの手を取って、迫る。今、カナデはいない。

「私、もうこれ以上どうしたらいいのかわからない! どうしていつまでも結論を出してくれないの……!」

 クオンは、そう悲痛な叫びを上げながら、目に涙をためる。

 ――うわすご。

 稽古中にも何度か見たが、三橋は本当に目に涙をためていた。客席からはあまり見えなさそうなのが残念で仕方ない。

「アキラくん!」

「俺は、俺は………………」

 ここで暗転、スポットで明良だけが照らされる。一番の見せ場である、アキラの独白シーンが始まる。

「俺は、一体二人のうちのどちらが好きなんだ。聖女と見まがうほどのカナデか、それとも幼馴染のクオンか……!」

 スポットが消える。暗闇に包まれる中、明良はくるりと後ろを向いて、客席に背を向ける。舞台全体の照明が明るくなり、カナデは上手側に、クオンは下手側にそっと佇んでいる。アキラが、二人のうちのどちらかを選ぶのだ。

 左右をゆらゆらと歩き回りながら、迷う。そうして最後には、幼馴染のクオンの手を取るのだが。

「あ、アキラ! ……………………私のどこが好きなの?」

「え、えっとね、お金いっぱい持ってるとことか……?」

「なっ……! バカ! もう知らない!」

 こうしてアキラは振られ、カナデにもゴミを見るような目を向けられて、どちらからも嫌われて終わる。

 ――なんでだよ。

 最初に脚本を読んだときからずっと、明良は納得が行かない。フィクションの中でくらい、誰かと付き合わせてくれたっていいじゃないか。

 二人がそれぞれ上下にはけて、舞台上は明良一人になり、その明良がそっと舞台に崩れ落ちるのと一緒に緞帳が降りる。

 こうして、結局誰も得をしなかった三角関係は幕を閉じたのだった。


「お疲れ様だよ、アッキー」

 ロビーで一人水を飲んでいると、こちらも手に水を持った相川が声を掛けてくる。

「本番、随分と演技に身が入ってたね」

「こっちは演技どころじゃなかったんですよ」

「そうだろうね、あんだけ二人が胸押し当ててたら。何やってんだか」

 そう言われると、左右の腕にはまた柔らかい感触が戻ってくる。――心頭滅却。

「まあでも、そのお陰ですごい自然だったし、結果オーライかもね」

「そりゃそうかもしれませんけどね」

 このままでは俺の心が持たないな、と明良は自分の両腕を手で払った。

「ま、次も期待してるよ、アッキー」

 相川はそう言って、水を飲みながらトイレの方へ歩いて行った。

 それと入れ違いに現れたのは、福島だった。にやりと嫌な笑みを浮かべて、明良に近づいてくる。

「随分と鼻の下を伸ばしてるじゃないか」

 特に言い返すこともできないでいると、福島はそのまま続けた。

「聖女様に触れた感想はどうだ? あんなこと、普通しないだろうな、聖女様は。一体どんな手を使ったんだか」

「どんな手も何も、あれは奏が」

「おや人のせいか? あり得ないね、聖女様があんな破廉恥なことするはずがない」

 ――いや。

 一体誰の話をしているのだろうか。普通に、奏は平気で明良に対してああいうことをする奴な気がするし、そう思えば奏に胸を当てられたことなどそれほど気にもならなくなってきた。感触は全く忘れられないが、それはまた別問題。三橋にしても、奏がああいうアドリブを入れたから仕方なくああしたのだと思うと、なんだか悪いことをしたような気にさえなってくる。うちの奏が大変ご迷惑をおかけしてしまい申し訳ない。

 そう、奏は元からああいう奴だった。部室で男と野球拳するような奴だぞ、全く。

「渡良瀬くん、君が何か吹き込んだんだろう? そうに違いない。まったくもって下劣極まりないね」

「はあ、どうもすいませんね」

 ――うちの奏が見た目に反して痴女で。

 別に明良は何も悪いことをしていないではないか。なぜこいつに下劣だなどと罵られなければいけないのだ。劇のオチよりも納得がいかない。

「分かったなら、今後は聖女様を貶めるようなことをするのはやめろ。これは警告だ、聖女教会で報告してやろう」

 ――聖女教会? なんだそれは。

 一度も聞いたことのない謎の団体の出現に、明良は困惑を隠せない。平たく言えばファンクラブみたいなものなのだろうか。そんなもの、高校の一生徒にできるものなのだろうか。

「とにかく、金輪際聖女様にああいう行動を取らせるなよ」

 ――だから勝手にあいつが取ってるだけだっての。

 相変わらず、福島は自分が言いたいことだけ言って帰っていく。なんなんだ、一体。こうも話が通じないタイプも、なかなか居まい。こんなのに好かれる奏が気の毒で仕方ない。

 やりきれない気持ちになって、明良は手に持っていた水を飲み干しホールに戻った。


 それから、残りの学校が劇を終えて、最後によく知らない人の講評が挟まり、そうしてようやく新人大会は終わりを迎える。

 始まったとき同様にエントランスに集合して、ミーティングをしたら、今日は現地解散の段取りだった。

「今日はみんな頑張ったと思うよ。土曜なのにこんなとこまで来て演劇やって、身を張って演技して」

 相川はそう言うと、スマホを出して時間を見た。時刻はもう六時過ぎくらいで、外はすっかり夕方の風情だった。

 ――まだ夕方なのか。

 夏が近づいて、随分と日が伸びている。

「もうこんな時間だし、今日は解散しよう。次は月曜日だね。先生は何かいうことある?」

「いえ、特には。とっとと帰りましょう」

「よし、じゃあ解散!」

「お疲れさま~!」

「お疲れさまでした~」

「お疲れ様でした…………」

 解散、そして明良以外の全員がバス停の方へ向かっていく。そりゃ、全員同じバスで来たのだから、帰りも一緒に決まっている。

 明良は、トイレに行きたくて、その隊列には混ざらずに一人そっと引き返した。


 会場を出ると、そこには見知った顔が二人立っていた。母と、妹の二人である。

「なかなか迫真の演技だったじゃん」

 雅はそう言うと、明良の腕を小突いた。

「まあな」

「二人のおっぱい柔らかかった?」

 これが自分の妹の言葉かと思うと悲しい気持ちになってくる。どうして明良の周りにはこんなのばかりが集まってくるのだろうか。

「やめろよ、意識しないことに全神経を集中させてたんだから」

「それくらい堂々と楽しんどけばいいのに。馬鹿だなぁ」

 ――馬鹿とはなんだ、馬鹿とは。

 こっちはおっぱいに気を取られて台詞を飛ばしたら目も当てられないのだ。むしろ、堂々と楽しんでいなかったことに感謝して欲しいくらいなのだが。

 明良がそう心の中で反論していると、母がにやっと笑って雅に向かって人差し指を立てた。

「雅、お兄ちゃんにそんな胆力があったなら、今頃彼女の一人や二人できてるわよ」

「おいこら」

 それが母の言葉か。

 幸いなのは、他の面々が既に帰っていることだろうか。他の奴の前で家族とのろくでもないやりとりを聞かれてはたまったものではない。

「あ、明良くん、お二人もいらしてたんですね」

 ――おいちょっと待てさっき帰っただろお前。

 目を向ければ、顔に柔和な微笑みを浮かべた奏が右手を振りながらそこに立っていた。

「あら奏ちゃん、お疲れさま」

 母は奏を労う言葉を口にすると、鞄の中から持ってきていたらしいチョコのお菓子を取り出してそれを渡した。

「ありがとうございます」

「いえいえ、大したものじゃないけどね」

 奏はその場で開封すると、口にぽいっと頬り込んで笑う。こういうところは性格がアレでも聖女には違いないと思わされる。

「帰ったんじゃなかったのか?」

「バスに乗る前にお手洗いに行きたかったんです」

「おう、そうか、行ってこい」

 はい、と言って奏はトイレのあるホールの方へ小走りで向かっていく。

「お兄ちゃん、デリカシー無いなぁ」

「はあ?」

 雅はやれやれといったような顔をわざわざ作って、両手を広げた。

「女の子にトイレに行ってくるなんて言わせちゃだめでしょ、お兄ちゃん。そんなだからヘタレ童貞なんでしょ」

「なんでそんな言われなきゃいけないわけ?」


 そういえば、と戻ってきた奏に母が問いかける。

「私たち今日車で来てるけど、一緒に乗っていく?」

「あ、それ賛成! 私、奏さんとお話したい!」

 雅は無邪気に喜ぶ。横を歩く奏は、一瞬迷ったような顔をしてこっちを見たが、明良が頷くと、じゃあと首を縦に振った。

「おうちはどの辺にあるの?」

「えっと、国分寺駅の近くです」

「じゃあ半分くらい通り道みたいなものね」

 母はそう言うと、車の鍵を開けた。

「じゃあ、明良と奏ちゃんは後ろね。雅は前」

「すみません、お邪魔してしまって」

「いいのよ。それに、私も今日のこと色々聞きたいし」

 明良の家の車は、四人乗りの小さめの軽自動車である。後ろの座席に二人で乗るれば、必然的に肩が少し触れる状態になる。

「狭くて悪いな」

「いえいえ、何も問題ありませんよ」

 それに、と奏が顔を近づけてくる。

「今日はたくさん触れあったじゃないですか」

 脳裏を、双丘が過る。少し目を下に向けようとした本能に全力で抗って、奏の目を見る。

「お前が当ててきたの間違いだろ」

「まあそうなんですけど…………どうでしたか?」

「どうでしたかってそりゃお前……」

 ――柔らかくて気持ちよかったけども。

 どうして親と妹の目の前で女の子に大してその胸の感想など言えようか。

「お兄ちゃんって、そこで素直に感想言えないところがキモいよね、やっぱり」

「うるせぇ」

 車はゆっくりと駐車場を抜け、公道に出れば軽快に走り出す。ナビには、とりあえず国分寺駅がセットされていた。

「それで実際のところ、どっちがよかったんですか?」

「ど、どっち⁉」

「そうです、どっち、です。とても重要な点です」

 奏の表情は真剣そのもの。流石にこんな顔をされては、明良も答えないわけにもいかない。いかないが。

 ――ど、どっちって何だ。

 きっと、奏と三橋のどっち、という話なのだろう。だが不幸にも、明良は劇の方に集中していたせいで、あまりどっちがどっちとか、そういう細かいところまでは覚えていない。そりゃあ奏の方が大きいんだなくらいのことは思ったけれど、こればかりは大きければいいというものでもない。

 一体何と答えるべきか。明良が答えあぐねていれば、奏は明良の手を取った。

「なんなら、もう一度触ってもいいんですよ」

「よせよせコラおいやめろ」

「どっちなんですかはっきりしてください!」

「お兄ちゃん、はっきりしなよ」

「ま、まあ奏の方が、よかった、のか?」

「ほ、ホントですか……?」

「嘘ついてもしゃーないだろ」

 ようやく、奏は明良の手を離した。危うく、親の前で同級生の胸を触る変態になり下がるところだった。いや、さっき舞台上でやったからもうなり下がっているのだろうか。いやまだ、劇の中と現実世界は別だ。

 奏は明良の言葉を聞いてほっとしたような顔をした。それから我に返ったのか、慌てて言い訳を始めた。

「いえあの、これはそのですね、あの、単なる私の張り合いの話であって……」

「まあ、奏さんがそういう感じなのは、この間聞いてはいたし……」

「ちゃんと避妊するのよ」

「何の話だよ」

「は、はい」

 母のろくでもない言葉に、奏は恥ずかしそうに答える。

「お前もマジな感じで答えるなよ。――それにしても」

 明良はやっと落ち着いてきた奏に話を振る。

「なんで俺は二人から振られなきゃいけなかったんだ? 納得いかないんだが」

「そりゃまあ、明良くんはキャラ的にクズっぽいですし、観客の方がちゃんと付き合えちゃうと釈然としなくなっちゃうからじゃないですか?」

「本当に俺のことを何だと思ってるんだ」

 奏は少し笑って、でもと続ける。

「私は明良くんはまじめだって知ってますから」

「いい感じのところ悪いんだけど、お家までのナビを奏ちゃんにお願いしたいんだけど」

 母はそう割り込んで、ちらりと奏の方を見た。

「あ、えっと――」


「すみません、家の前まで送ってもらって」

 奏が自分の家だと言ったのは、所謂高層マンションというやつだった。入口付近にはやたらと植物が植えられていて、入口を鮮やかに彩っている。当然のごとく一階部分でも鍵を使わないとエントランスにも入れない作りで、どうやら奏の家がわりとお金持ちであろうことを思わせていた。

「いいのよ、今日はお疲れ様、ゆっくり休んでね」

「あ、そうだ! 私、奏さんの連絡先、欲しい」

「もちろんです」

 雅の我儘に、奏は快くスマホを差し出した。しばらくあれこれして、交換できたのか二人ともスマホをしまう。

「ではまた月曜日に」

 奏はそう言うと、深くお辞儀をした。

「ああ、また月曜」

「はい!」

 顔を上げて、にっこりと笑う。やっぱり聖女と呼ばれるだけはある。

「じゃあ、まあ上がるまでだけど、気を付けてね」

「気を付けます」

「連絡します!」

「待ってますよ」

 お互いに手を振って、車がゆっくりと走り出す。

「明良、あんまり逃げるのはやめなさいね」

「逃げる?」

 ――俺は。

 逃げているのだろうか。

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