第8話 桜降る川
襲撃に気づいたのはイロハにトイレに行くと言ってすぐのことだった。トイレから出たとき、この病院の看護師とぶつかった。そのとき、彼女の持っていた書類とバインダーが床に落ちたが全く音がしなかった。
しっぽがミュートラスの存在を認識すると同時に、今度はあの衝撃波が病院を包むように響き渡った。痛む頭を押さえながらあたりを見回すと、大量の人間と記憶のレコードが転がり落ちていた。
私はそれらを踏まないように気をつけながら、全力でイロハのもとを目指した。部屋の番号は知っている。彼女もきっと気絶しているはずだが、守りに行かなくてはならない。
階段を登り、階数が上がるたびに、しっぽの反応が強くなる。ある予感が頭をよぎる。そしてそれは正しかった。
とびらを思い切りあけるとそこにはミュートラスがいた。
「おお、やっぱり来たか。あの人の言うことは間違ってなかったか」
「おまえ、何者だ?」
「何者って? 知ってるでしょ。僕はあなたと同じですよ」
「バイトか?」
ミュートラスは困ったようにまゆを指でかいた。
「ちょっと違うかな。僕はある人に言われてこの仕事を引き受けたんですよ。そしたら本当にあなたが来た。」
「それは誰?」
「それは言えませんよ。僕の身に危険がおよぶから」
ミュートラスはベッドで寝ているイロハの兄、ハルトを指す。
「まあでも、こんな大胆なことはしないんですよ、いつもはね。僕は一人ずつ着実に回収するんです。一人くらい持ち帰ってやろうと思ったんですけど、この人、空っぽですよ」
ハルトの方に目をやると、彼の体からはレコードが飛び出していなかった。
ガチャ、と音がした窓の方を見るとミュートラスは逃げ出していた。奴は空を飛ぶ能力があるようだ。
ハルトに近づいて彼の腕に触れてみると、何も感じなかった。ぬくもりだとかそういう話ではなく、正真正銘の空っぽ、つまり彼の体からレコードがすでに抜かれているのだ。
ミュートラスとの去ってしばらくして音が戻ってくる。すると、自然とレコードがイロハの体に戻っていった。彼女は目を覚ましてあたりを見回してから私の顔をよく見た。
「ねえ、さっきの……」
イロハは何か言いかけたが結局、言うのをやめてしまった。彼女の手を取って、立ち上がらせると私は廊下をのぞいた。人々はすでに元通りになっていて、何事もなかったように廊下を歩いている。
それからイロハは兄のことをいろいろ教えてくれた。ネネが言っていたようにバンド名を考えてくれたこと、三年前に起きた大事故の影響で目覚めなくなってしまったこと。
その事故が本当はミュートラスによるものであるということはとてもじゃないけどいえない。それにそれを説明するということは、自分がミュートラスであると明かす必要があるということだ。結局、私はそれから一言も声をかけることなく病院を出た。
病院からの帰りに大きな川に沿った道に出ると、イロハは急に川の方へかけだしていった。
「ミア! 見て!」
イロハが指をさした方は川の両側の道に咲いている木々の花だった。ピンク色の花びらは風がふくとひらひらと宙を舞って、今度は川をピンクに染める。
「きれいだね」
「うん」
川のそばにある柵によりかかり、頭を川の方にぐーっと倒して大きく体をそらす。そのまま落ちてしまいそうでひやひやしたが、今のところ大丈夫なようだ。
「もう桜の時期か。ねえ、ミア」
「なに?」
「私ね、いっつも桜は四月に咲くものだと思っちゃうの。でも、本当は四月にはもう大体散っちゃって、葉桜になっちゃう。」
今までより強い風がふいて桜の花びらが流れていく。
「世界とか、時間とかは私が思っているよりもずっと早く進んで変わってく。今飛んでった花びらみたいに私たちもその流れにのまれて毎日過ごしてる。ミアがここに来たのだってもしかしたらそう言うことなのかもね。」
イロハは姿勢を戻して、柵に今度は前から寄りかかる。
「でも、こうやって桜がきれいだねって、そんな小さなことでも幸せだなあって思えることを積み重ねられたら、毎日を大事にできるかなって。私は、あの場所をそういうところにしたかったんだ。ミアがそれを思い出させてくれた」
横を向いてジッと私の目を見つめられて、なぜか体がどうにも動かせなくなった。それは決して恐怖などではなくて、どこか彼女の核心に、本心に触れたような気がしたからだ。
「だからね…… その…… ありがとね」
小さな声でそう言った時には彼女はもう目を伏せて、顔がわずかに赤くなっていた。ネネの言葉を思い出す。『猫さん』ってこういうことかな?
「い、行こう」
先に進みだしたイロハを追って私も歩き出す。桜が流れるとは逆の方に向かっていく。
小さな幸せか…… 私も見つけられるといいな。
今夜も、もちろんバイトはあるわけだけど、今日はいつもより人が少ない気がした。私がやることは変わらない。ドリンクを出して、返ってきたら洗う。
「きみ」
洗い物をしてたので背中を向けていたところに声をかけられた。
返事をして振り返ると、カウンターには長身の女性が立っていた。サングラスをしてるけど顔はきりっとした感じで、きれいよりかっこいい気がする。
たのまれた飲み物を渡し、お金をもらおうと料金を伝えると彼女は言った。
「悪いね、お金持ってないんだよ」
え? どういうこと?
とまどっていると、イロハがやってきて私のそばに立った。
「この人はお客さんじゃないよ。今日演奏してくれる人で、鹿野友紀さん。もうお金もらっちゃったから、飲み物代はサービスだよ」
シカノはかけていたサングラスを額まで上げると、イロハに向かっていった。
「きみがここの店長さん? 若いね。よろしく」
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