第6話「なんだ! この勤務状況は!」
## 第四話 白い壁
緑ヶ丘中央総合病院の自動ドアを抜けると、消毒液の匂いが鼻をついた。あの日、絶望の中で嗅いだ匂いだ。正は、こみ上げる吐き気をぐっと堪える。隣を歩く和子は、小さなショルダーバッグを胸の前で固く握りしめ、青白い顔で一点を見つめていた。
受付で事情を話すと、事務的な対応の後、二人は小さな応接室へ通された。灰色のソファとテーブルが置かれただけの、無機質な部屋。壁にかけられた当たり障りのない風景画が、やけに白々しく見えた。
しばらくして、ドアがノックされ、一人の女性が入ってくる。年は五十代半ばだろうか。白衣の上に紺色のカーディガンを羽織り、きつくまとめた髪には白いものが混じっている。隙のない、それでいて深い疲労を滲ませた顔。彼女が、看護師長の田所だと名乗った。
「この度は、誠にご愁傷様でございます」
深々と頭を下げる田所に、正は会釈も返さなかった。和子が、かろうじて小さな声で応える。
テーブルを挟んで向かい合う。田所は型通りの悔やみの言葉を並べたが、そのどれもが正の心には届かない。正は、ポケットからくしゃくしゃになったシフト表のコピーを取り出し、テーブルの上に叩きつけた。
「なんだ! この勤務状況は!」
怒りを抑えきれない声が、狭い部屋に響き渡る。田所は一瞬、テーブルの上の紙に目を走らせたが、表情は崩さない。
「…これは、娘が人間らしく生きられる時間なんか、どこにもないじゃないか! これを見ても、あんたらは何も感じんのか!」
「お気持ちは、お察しいたします。ですが…」
田所は、そこで言葉を切り、静かに、しかしはっきりとした口調で続けた。
「度重なる人手不足によるものでした。現場は常に限界の状態で…山本あづささんだけが、特別過酷だったわけではございません。皆が、身を粉にして働いてくれていました」
その言葉に、正の頭の中で何かが切れた。
「特別じゃないだと? 皆やってるから、死んでもいいって言うんか!」
「そういう意味では…」
「あの子が亡くなる前、担当の患者さんが亡くなったそうやな。一番辛くて、しんどかったのはあの子のはずや。なのに、あんたらは休ませもせず、次の日も平気で現場に出した! なぜや!」
正が身を乗り出すと、田所はわずかに身を引いた。だが、その目は逸らさない。
「急な欠勤者が出たため、やむを得ず…。あの時、あづささんは自ら『私がやります』と。彼女の責任感と優しさに、私達は甘えてしまったのかもしれません」
『責任感』『優しさ』。その美しい言葉が、今は娘を殺した凶器のように聞こえる。あんたたちが、そう言わせたんじゃないか。断れない状況に、追い込んだんじゃないか。
正がさらに言葉を重ねようとした時、それまで黙って俯いていた和子が、静かに顔を上げた。その目は赤く腫れているが、まっすぐに田所を見据えている。
「師長さん」
か細いが、芯の通った声だった。
「あの子は…あづさは、昔からそういう子でした。人に迷惑をかけるのが嫌いで、『疲れた』とか『しんどい』とか、決して言わない子でした。私達親にさえ、滅多に弱音を吐きませんでした」
和子は、震える手でバッグを開け、一枚の便箋のコピーを取り出した。あづさの、最後の手紙だ。
「だから…あの子は、誰にも言えなかったんです。こんなことを、紙に書いて、飛ばすしか…できなかったんです」
テーブルの上に置かれた『やすませてください』という文字を、田所は凝視した。その鉄壁のようだった表情が、初めてわずかに揺らいだ。
「この子は、機械じゃありません。看護師である前に…私の、たった一人の、大切な娘だったんです…!」
和子の声が、嗚咽に変わる。正は、妻の肩を強く抱いた。
田所は、視線を落とし、深く、長い沈黙の後、絞り出すように言った。
「…申し訳、ありませんでした」
だが、その謝罪は、正の心には届かなかった。それは、組織人としての、形式的な言葉にしか聞こえなかった。
「…あんたのその言葉で、娘が帰ってくるんか」
正は静かに立ち上がった。
「このままじゃ、終わらせん。あの子が、どうして死ななきゃならんかったのか。俺は、絶対に諦めん」
それは、看護師長個人に向けた言葉ではなかった。この白い壁に囲まれた、巨大な組織全体への宣戦布告だった。
応接室を出て、長い廊下を歩く。背後で、田所がまだ立ち尽くしている気配がした。
外に出ると、鉛色の空がどこまでも広がっていた。だが、正の心は不思議と静かだった。悲しみは消えない。怒りも消えない。だが、今はそれ以上に、やるべきことがはっきりと見えていた。
娘が飛ばした、あの小さな紙飛行機。
それは、誰にも届かずに落ちたのかもしれない。
ならば、この俺が拾ってやる。
お前の声にならなかった叫びを、この俺が、世に届けてやる。
正は、隣で涙を拭う和子の手を強く握りしめた。二人の長い戦いが、今、始まろうとしていた。
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