第2話「手紙…ですか」
## 白檀の残り香
震える手で、重く冷たい金属のドアノブに触れる。その瞬間、ふわりと香った白檀は、あまりにもはかない幻だった。ドアの隙間から漏れ出す消毒液の無機質な匂いが、すぐにそれを現実の底へ引きずり戻していく。正は一度だけ固く目を閉じ、息を止めてドアを押し開けた。
壁も床も天井も、あらゆる感情を吸い取ってしまったかのように白い部屋。中央に置かれたストレッチャーの上、清潔すぎるシーツがかけられた小さな膨らみが、あづさだった。和子は声もなく、ただ口をパクパクと開閉させた。まるで水から揚げられた魚のように。その瞳から光が消え、正の腕を掴んでいた力がふっと抜ける。崩れ落ちるのではなく、魂だけがどこかへ抜けてしまったようだった。
若い警察官が、静かに布の端を持ち上げる。
そこにいたのは、娘だった。だが、正の知っているあづさではなかった。血の気は失せ、蝋のように白い肌。きつく閉じられた瞼は、もう二度と開くことはないと雄弁に語っていた。あんなによく笑い、よく怒り、くるくると表情を変えた頬は、今はただの冷たい陶器のようだった。
言葉も涙も出ない。ただ、心臓が凍りついたまま、自分の肋骨を内側から叩いているような、鈍い鼓動だけが身体に響いていた。生きているのが不思議なくらいだった。なんでや。なんで、こんなところに一人で寝てるんや。
どれくらいの時間が経っただろうか。部屋の隅で静かに待っていた警察官が、そっと近づいてきた。
「お辛いところ、申し訳ありません。…娘さんのそばに、これが」
差し出されたのは、証拠品用のビニール袋に入った一枚の紙片だった。それは酷くくしゃくしゃに丸められていたが、よく見ると、何度も折り畳まれた跡が残っている。
「手紙…ですか」
正が掠れた声で尋ねる。警察官は、少しだけ視線を伏せて言った。
「はい。発見された時…これは、紙飛行機の形になっておりました」
――紙飛行機?
その言葉が、この白く冷たい部屋にはあまりにも不似合いに、正の思考の中で空回りした。身を投げた娘。その傍らにあった、紙飛行機。お前は、死ぬ間際に、紙飛行機を折っていたとでも言うのか。
「…開いても?」
「どうぞ。ご遺族にお渡しするものですから」
ビニール袋から、くしゃくしゃのそれをそっと取り出す。女子学生が持つような、可愛らしい便箋だった。乾いた指先で、慎重に、皺を伸ばしていく。そこには、あづさの丸っこい、見慣れた文字が並んでいた。
和子が、生気のない瞳で夫の手元を覗き込む。
紙を広げると、インクが滲んだ跡があちこちに見えた。涙の跡だろうか。その手紙は、父親である正と、母親である和子にあてられていた。
『お父さん、お母さんへ』
その一行が目に飛び込んできた途端、自分の意思とは無関係に、熱いものが頬を伝った。こぼれ落ちた雫が、便箋の上に新たな染みを作る。
なぜ、死んだ。
なぜ、何も言ってくれなかった。
そして、なぜ。
――なぜ、これを紙飛行機にしたんや。
あづさ。お前は、この最後の言葉を、空に飛ばして、誰に届けたかったんや。
答えなど、どこにもない。ただ、この手の中にある紙飛行機の残骸だけが、娘が生きていたことの、そして死んでしまったことの、残酷な証明だった。正は、娘からの最後の手紙を握りしめた。その紙の感触だけが、今は亡き娘との、唯一の繋がりだった。
そして、また。
今度ははっきりと、正の鼻腔を、懐かしい白檀の香りが満たした。
それは、凍てついた心を溶かす温もりと、現実を突きつける刃の両方を宿していた。これから始まる永い悔恨の中で、決して消えることのない、娘の最後の残り香だった。
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