Lost Centuries
楓林火山
始発点
第1話 邂逅
俺は篠沢彩我、しがない社会人四年生だ。
しがないとは言ったものの、今現在俺は厄介ごとに巻き込まれている。
平泉晃大。有名企業に就職したものの長続きせず突然動画配信者になると言い出した、六年の付き合いになる無二の友人。
そんなやつが心霊スポットに行ってくると言い出したきり二週間近く連絡がつかなくなったのが事の発端だ。
晃大には家族がおらず、彼女がいるわけでもない。
だけども底抜けに明るくて、誰にでも分け隔て無く接することが出来る良いやつだ。
一流企業に就職したのに、動画配信者になると言われた時には血迷ったかと思ったが、あまりに真っ直ぐな瞳につい応援してしまった。
晃大と仲の良かったグループで探すことにしたかったのだが都合が悪く、結局俺しか動けるやつがいなかった。
一応警察に連絡はしたがいたずらだと思われたのか、軽くあしらわれてしまったので俺が探してやるしか無いというわけだ。
晃大が向かったという心霊スポットの名は海還島。
その島は神奈川沖から百六十キロほど離れた位置にあり、人口が六百人ほどの小さな孤島だ。
漁業が主な産業で錆びついた屋根が目立つごく一般的な港町だとネットに書いてあった。
海還島行きのフェリーはあまりにも空いていて、人がそこそこ住んでいるとはにわかには信じられない。
しかし移住者が後を立たず、有名な動画配信者も少なくないらしい。
初めは噂を聞きつけて撮影にやってきたが、島の魅力に取り憑かれる人間が多いからだそうだ。
晃大から聞かされたこの島に関する曰くは二つ。
一:夜の海に近づくと何者かに引き摺り込まれる。
二:夜に話しかけられても決して受け答えしてはならない。
海に還る島…か。
フェリーの甲板から未だ遠く見える目的地を見て顎を撫でる。
この話が全て事実であるとするのならば、晃大は尋常ならざる事案に巻き込まれたことになる。
護身用にナイフは持ってきているが、刃渡りが長いわけではないので少し心細く感じてしまう。
(いけない……俺が弱気になってどうするんだ)
友達が危険なことに巻き込まれているのならそれに飛び込むのが友達ってもんだろ。
俺は拳を強く握り、自衛官時代に思いを馳せる。
特に格闘に力を入れていたが網膜剥離が判明し、泣く泣く自衛隊を離れることになったあの時を。
未練がましくミッド打ちを続けたあの日々を。
その日々の積み重ねが俺に勇気を与えてくれているような気がした。
「そこのイケメンのおにーさん」
「?」
無限に続いているかのような青々とした水平線に見惚れていると、ツーサイドアップをリズムよく揺らした赤髪の少女が隣に立っていた。
(どうしたんだ、この子?)
歳は一〇代前半に見える彼女は小悪魔的な表情を浮かべながらこちらを見上げていた。
「ちょっとー、無視しないでよー」
「悪い、少し考え事をしていたんだ」
「ふーん」
彼女はいじけたようにジトーッとした目をこちらに向け不機嫌をアピールしてきた。
彼女の顔を懸命に記憶の中から探るが、該当しそうな人物が出てこない。
面識があるわけでもないのに一体何の用だろうか。
「まぁいいや、お兄さん悩み事でもあるの?」
「友達と連絡がつかなくなっちゃってね」
「それって海還島で?」
「ああ」
俺の答えを聞いた後彼女は微笑をうかべながら顔を近づかせる。
「あなたはその友達、生きてると思う?」
「………どうしてそんな事を質問するんだ?」
「なんとなくだよ。なんとなく」
酷く澄んだ真紅の瞳に太陽を写しながら彼女は俺に問う。
それはあまりにも非情で、年端のいかない少女だからこそ出たのかもしれない質問に狼狽える。
そんな俺の動揺を見抜いたのか、彼女は肩を小刻みに震わせる。
その姿はなんとなく人間離れしていて、一瞬寒気を覚えてしまった。
「生きているって、信じてるよ」
あくまで平静を装い答えた俺の顔を見る彼女に先程の愉悦の感情はうかがえず、代わりに憐れむような表情が貼り付いていた。
「君は一体何者なんだ?」
「どーしてそんなこと聞くの?」
気のせいか?
少し彼女は驚いたように見えたが、気づけばその顔には笑みが戻っていた。
「なんというか君は少し人間離れしているような気がする。あの島について何か知っているのなら答えて欲しい」
「教えなーい」
彼女は相変わらず憐れむような微笑を貼り付けながら、刺すような冷たい声音で断言する。
「……それは知っているという裏付けだと捉えてもいいのか?」
「おにーさんの好きに解釈すればいいよ」
彼女は一貫してはぐらかしてくる。
しかし彼女は何か核心的な事実を知っているに違いない。
集められる情報は集めておかなければ。
「一体何なら教えてくれるんだ?」
「ここで教えちゃったら面白くないでしょ?」
髪を指に巻きながら酷くつまらなそうに彼女は答える。
「あっ、でも私の名前とかぐらいなら教えてあげてもいーよ」
「別にい……」
「私はアビゲイル、アビーって呼んでねー」
食い気味に答えられた。
「分かった………ありがとうアビー、あとは自分でなんとかするよ」
「そうするのが懸命だよー。最初から答えが決まってるクイズほどつまらない物も無いしねー」
クスクスと笑いながら彼女はどこからか取り出したコーラを飲み始めた。
「そういえば君は何をしに来たんだ?」
彼女は少し考えた後、薄気味悪く感じてしまうほどジトジトとした笑みを浮かべた。
「物語の始発点を拝みにー♡」
そう言う彼女は俺ではないどこか遠くを見つめているようだった。
「始発点?」
「そうだよー。物語は始まりが肝心だからねー」
始発点か……。彼女は一体何を期待してあの島を目指すのだろうか。
どこか諦観が貼り付いたような瞳は、これまで何を写し出し、何を見ればあんなにつまらなそうな形に歪んでいくのだろうか。
もっとも彼女の期待する始発点は、俺とは今後関わり合いになることはないのだろうが。
「おにーさんにとって物語に必要な物ってなーに?」
「そうだな……ハッピーエンドに向かう意思じゃないかな」
「へー結構俗物的なんだねー」
「俗物的って……」
辛い過程も選択も乗り越えてハッピーエンドに向かうことがやっぱり大切なんじゃないかと思う。
人間は乗り越えていく生き物だから。
「なるほどねー、おにーさんなら面白くなりそう」
そう言うと彼女はつま先で立ち、顔を勢いよく近づけて口づけしてきた。
彼女の柔らかい唇の感触に、うまく思考が働かなくなる。
「なっ……!」
「頑張ってねー、篠沢彩我くん♡」
彼女の声が急に遠く感じる。
視界が歪み始めた。
「うっ……」
眩暈がした。
あまりに唐突な事態に、体がうまく反応してくれない。
力が入らずそのまま倒れ込んでしまう。
歪む視界の中アビーの顔だけが鮮明に瞳に映し出されていた。
その顔はこの世の何よりも歪んで見えた。
「おやすみー、良い結末を期待してるよー」
そうして俺は意識を失った。
♢
小さい頃、両親には他の家庭よりも愛情を注いでもらえていたと思う。
学校に行って、家に帰ればみんなが待ってくれていて、暖かいご飯が食べられた。
こんな幸福な日々が終わると思ってなかったし、そんな発想を抱くことすらなかった。
でも終わりは唐突にやってくることを小学生の頃に知った。
日本を揺るがす大地震。
それは唐突にやってきて俺以外の家族を飲み込んで連れ去ってしまった。
学校に行っていた俺だけが助かり、両親も親戚もみんな、みんな、みんな引き摺り込まれてしまったんだ。
遺体は結局見つからず、葬式もしてやれなかった。
不思議とその時、涙は出なかった。
でも、孤児院に入って人の温かさを再認識した途端に涙が溢れ出した。
孤児院の職員はみんな優しくて、いつまでも泣きじゃくる俺を慰めてくれた。
その時に俺は世界に向けて宣戦布告した。
俺が誰も悲しまない世界を作ってやるって。
「彩我はヒーローになりたいんだな」
「そんなんじゃねぇよ」
孤児院の院長だった正弘さんは一番俺に真摯に向き合ってくれた人だった。
世界に絶望しかけていた俺に希望の光を再び灯してくれた恩人だ。
「じゃあ何になりたいんだ」
「ヒーローなんて目じゃ無い、最強の存在になるんだ!俺が戦うだけで平和がやってくるなら喜んで戦うよ!」
そんな馬鹿げたガキの理想論でも、正弘さんは笑い飛ばさず真剣に聞いてくれた。
「……そうか」
その時の正弘さんはなぜだか悲しそうな顔をしていた。
「正弘さんなんで悲しそうなんだ?」
「なんでもないさ。ただお前が頑張らなくてもいいくらい世界が最初から平和だったなら、それはどれだけ幸せなことなんだろうって考えちゃっただけだ」
「ふーん、よく分かんないけど俺がそんな世界を作ってやるよ!」
俺は高らかに、満面の笑みで宣言した。
「……強くなれよ」
「うん!」
「ただ……これだけは約束してくれ」
いつになく真剣な眼差しに思わず背筋を伸ばす。
「長生きしろよ、お前はいつも無茶しすぎるとこがあるからな」
「もちろんだ!生涯現役で頑張るよ!」
「期待してるぜ」
そう言って慈愛に満ちた微笑みを向けながら正弘さんは俺の頭を強く撫でてくれた。
それが嬉しくて俺は俯いて涙を堪えた。
こんな所で泣いて心配かけるわけにはいかないから。
その後俺は少しでも世界に貢献しようと自衛隊に入隊した。
いちばん晴れ姿を見せたかった正弘さんは、結局見せる前に亡くなってしまった。
あの時なんで正弘さんがあんなに悲しそうな顔をしていたのか、俺にはまだ分からない。
でもあの世にいる正弘さんには笑顔でいて欲しいから、俺は世界と戦い続ける。
たとえどんな障壁が俺の前に立ち塞がったとしても。
正弘さん
俺、あなたを笑顔にできてるかな
世界を少しでも幸せにできてるかな
俺、まだまだ頑張るよ
♢
目を覚ますと漁港にいた。
既に人の気配は無く、寂しそうな、小さな波音だけがこだましていた。
(一体俺はいつからここにいた?)
腕時計を確認すると既に日付が変わっていた。
長い時間寝ていたからか、目の奥に締められるような痛みが走る。
懐かしい夢を見たからか頬には雨粒の跡がまだくっきりと残っていた。
(俺はそんなキャラじゃないんだけどな)
俺は妙に重たくなった頭を抑えて周囲を見渡した。
酒を飲んでいた覚えは無いのにも関わらず記憶が飛んでいる。
フェリーに乗って誰かと会っていた気がするが、うまく思い出すことができない。
そもそも港に着いた記憶すら靄がかかったように曖昧だ。
(ここは海還島………なのか?)
スマートフォンを取り出して、海還島の画像と周囲の景色を照合する。
幸いな事に、目的地には間違えずに辿り着くことが出来ているようだ。
念押しで位置情報確認アプリで確認するが、ここは海還島で間違いない事を告げられた。
どうやら島民は俺のことに気づかずに一日を終えたようだ。
チカチカ点滅する街頭だけがこの深淵のような闇に包まれた島を照らしているのだから。
(ここの島民はいささか冷たすぎやしないか?)
今の所何かされた形跡も何も無いからよかったものの。
それにしてもあまりに不自然な事が起きすぎてるな………晃大は無事だろうか。
状況の整理が全く付かないが今は宿を探すことが先決だ。
夜に一人で徘徊するのはあまりに危険すぎる。
明日からの行動に備えておかなければ………。
海岸線沿いに歩き始めてから、光源に一切邂逅できていない。
(日付が変わっているし、田舎だから誰も起きてなんかいないのは当然か)
閑散とした街並みにはおおよそ生活感というものが感じられず少しだけ不気味な雰囲気を纏っていた。
事前に確認していた街並みと姿は一致しているのだが実際に来てみるとこんなにも変わって見えるものなのだろうか。
港町らしい寂れたトタン屋根。
乾燥した藻が貼り付いている小型ボート。
舐めるように吹くしおかぜ。
その全てがこの島にとって異物である俺の存在を否定しにかかっているように感じられる。
一度意識し始めてしまえば全ての事象に対してナニカを感じてしまうのは道理で、風が草木を揺らす音にすらも意味を見出してしまいそうだった。
深淵に包まれた絶海の孤島とは裏腹に、星々は東京とは違い各々が満天の輝きを放っている。
その光の先を辿ると道の先に月光を取り込み一層強く輝く一抹の白あった。
海還島について調べている時に見た事がある。
町おこしの一環で巨額を用いて人工の砂浜を作ったという記事を。
俺は藁にも縋る気持ちで、恐怖を飲み込むために歩みを進めた。
「綺麗だ……」
この島が日常に溶け込んだ異世界だというのなら、この砂浜はその中で唯一人間が生存することを許されたオアシスかのように俺を温かく迎え入れてくれた。
「懐かしいな、昔正弘さんにも海に連れてきてもらった事があったっけ」
正弘さんが体をこわす前に一度だけ、孤児院の子供達でまだ熱が残る砂浜で花火をした。
俺が十四歳のとき、孤児院の職員が花火大会の日は用事があり連れていってくれなかった時があった。
それを気の毒に思った職員の人たちが、孤児院の人たちだけの花火大会をしようと提案してくれた。
少しでもみんなに喜んで欲しくて俺も手伝わせてもらって、簡素な屋台を作ったりして、お祭りを再現した。
それを見た子供たちは花火大会に行けなかった悲しみから一転、全力で俺たちだけのお祭りを楽しんでくれた。
締めの花火は今までに見たどんなド派手な花火なんかよりもよっぽど豪華で、美しかったんだ。
大規模な事をしたわけでもなんでもない、コンビニで買ったものを使った簡素な花火大会だったが本当の兄弟のように可愛がってた子供たちの喜ぶ顔だけで俺も、正弘さんも、嬉しくて思わずはにかんでしまった。
孤児院での暮らしは贅沢なものでは無かったが、その思い出のおかげで今の俺を形作っていると思うとなんだか嬉しい。
たまには感傷に浸るのも悪くないな。
最近は気を張り詰めてばかりだったからか肩の力が抜けて気が楽だ。
ガサッ
先程まで生命の気配すら感じなかった背後の森から明らかに意志を感じる音の羅列に咄嗟に振り返る。
確かにそこに生命体がいる。
森の中にいるので分かりづらいが、明らかに人のシルエットを保ったナニカがそこに鎮座している。
(島民か?)
先程まで誰も居なかったのに急に現れるのはいささか不自然だが、話を聞けるならそれに越したことはない。
(とりあえず声をかけてみよう)
「あのーすみません。俺、宿を探しているんですが」
「……」
返事は無しですか。そうですか。
最初から期待していたわけではないが、不安な気配に息が詰まりそうになる。
とりあえず話をして意識を逸らしている間にいつでもナイフを出せる状態にしておこう。
「怪しいものじゃない、俺はただ道に迷ってしまっただけなんだ。ご迷惑でなければ俺の質問に答えてくれないか?」
バレないよう、手を後ろにゆっくりと持っていき、カバンのチャックを音が出ないように細心の注意を払いながら開く。
相手が友好的か敵対的かも分からない今、些細なミスが命取りになる予感がしてならない。
ザッ
(前進してきた?)
先程まで生きているか怪しいほどに動きを見せなかった影は唐突にこちらに向けたゆったりと歩み始めた。
(ただの一般人なのか?)
影は少しづつ月光によって輪郭を取り戻しながら、ゆらりとこちらに歩み寄ってくる。
輪郭があらわになる度、その影の異様さが浮き上がる。
(片腕がない⁉︎)
まだ確定したわけでは無かったが、その異様なシルエットに思わず固唾を飲む。
既に自分が尋常ならざることに巻き込まれていることが嫌でも分かってしまった。
(こいつ、一体何者だ?)
「止まってくれ、その場で話そう」
俺の言葉はこだまを生み出すだけで、今この場では何の価値もなしてくれない。
そして影は森を抜け月光の元に照らされ、その姿形が彩られていく。
その影は、既視感をもって色づき始めた。
近づいてくるたびに浮かび上がる輪郭に脳が理解を拒絶する。
脳が否定しようと記憶を反芻するが、それが無駄なことをとっくに理解していた。
「————嘘だろ」
どうしてこうなってしまったのだろう。一体どうしていれば俺は良かったんだろう。
「腕はどうしたんだよ!晃大!」
歩み寄ってきた影は二の腕から先が無くなり、既に生者としての意識を失っているのだと主張するがらんどうの瞳を眼孔からこぼしながら、こちらを見つめる友人だった。
絶望が形を持って歩み寄る——
♢
「————嘘だろ?」
歩み寄ってきた影は晃大のカタチをしていた。
そんなはずないと頭の中で繰り返す。
だが俺の中の全細胞たちが叫ぶ。
目の前の歩く肉塊が晃大であり、それが逃れることなどできない唯一絶対の真理であるのだと。
晃大であろうナニカは小刻みに痙攣するだけで何の動きも見せることは無い。
「晃大!俺だ、彩我だ!」
今が深夜とか、近所迷惑とかそんなことは考えてられなかった。
ただ友人が今までと何も変わらないという証明が欲しくて、無駄な問いかけを続ける。
それなのに、晃大はまるで耳などハナから無いとでもいうように俺の言葉を無視し続ける。
「一体何があったんだか知らない!でも……でも!みんなお前のこと心配してるんだよ!そんなとこにいないで帰ろう!それで病院に行ってその傷を直してもらおう!」
すると晃大は少しうわの空になった後、口を微かに開いた。
(良かった……!お前は死んでなんかいないんだな!)
そんな淡い希望を抱いた。
しかしそんなものは風前の灯でしかなかった。
「ユーブれおガイさトれたてみ」
意味不明な文字の羅列。
晃大がそれを発した瞬間、全てが手遅れだと理解してしまった。
(なんなんだよ。)
俺の知ってる晃大はいつも見てるだけで幸せになれそうなくらい、元気いっぱいな明るい笑顔を振りまいていた。
それが今はただそれを模っただけの贋作に成り果てていることに、気づいてしまった。
(なんでそんな人形みたいなぎこちない笑顔しかできないんだよ)
糸で無理やり上げられたような口角はもう肉体が彼のものでは無いことを示し、支離滅裂な言動は彼がとうに人外へと至った事を察するには充分すぎた。
もはや顔を上げて晃大の顔を直視することすら苦痛になり、俯いたまま俺の時間は停止した。
ダッ
瞬間、手負いとは思えぬ身のこなしで地面を蹴る音が響く。
晃大はおよそ人間とは思えない速度で、気づけば森の中に走り出していた。
「————待てよ」
気づけば俺も走り出していた。
今ここで逃せば、もう二度と晃大には会えない気がした。
それがたとえ、すでに俺の知っている人間では無かったとしても、助けたかった。
晃大はまともに整備されていない、およそ道とは呼べない道をケモノのように地形を利用しながら駆け抜けていく。
——駄目だ、到底追いつけない!
俺と晃大の距離はグングン離されていくばかりだ。
このままじゃ、振り切られる!
全力疾走を始めて三十秒。
もう直ぐ体力が尽きてもおかしくない。
対して晃大は夜闇をものともせず疾走を続ける。
「クソ!俺じゃ追いつけないのか!」
目の前に助けたい存在がいるのに、助けられないのなんてもう嫌なんだ。
世界が俺を邪魔しにきたって、そんなもの打ち倒してやるって、正弘さんに約束したんだ。
「うぉぉぉぉぉおおおおお!」
考えるよりも先に体を動かしていた。
足元にあった手のひら大の石をフリスビーの要領で投げた。
その石は風を切りながら俺の足なんかよりもよっぽど速く、晃大に向け飛び出していった。
晃大は風を切る音に反応しこちらを軽く見やったが、その時にはもう、石は晃大の足に直撃し、間抜けな姿勢でバランスを崩した。
何が起こったのかも分からず晃大は戸惑っていたが、即座に逃走を優先し、再び走り出した。
しかし、そこには先程までのような身のこなしは見てとれない。
あからさまに落ちた速度は俺のスピードを明らかに下回っていた。
「今行くぞ!晃大!」
俺は手を伸ばしながら、息を切らしながら、足を回す。
二〇……一五……一〇……五メートル……
あと少しで手が届く。
あと少しで晃大を連れ戻してやれる。
俺は全霊をもって手を伸ばした。
かつての楽しかった日々に、手を伸ばすように。
「なっ!?」
服を掴もうとしたその瞬間、晃大が一瞬にして消えた。
しかしその答え合わせはすぐになされた。
俺が止まるよりも先に足場が無くなり、俺は重力に従って崖を滑落し始めた。
「っっっ!」
咄嗟に受け身をとったが、剥き出しの岩肌に容赦なく叩きつけられ全身に強烈な痛みが走る。
それでも体は止まってくれず、ただ耐えて待つ事を強制してくる。
(クソ!あと少しなのに!)
体感十秒程で滑落は終わった。
投げ出されたのは森の中にある開けた場所だった。
幸い、月光が届いているし、体も動かせないほどの損傷を受けたわけではないようでホッとした。
でもその束の間の安心は脆くも崩れ去ってしまった。
「なんだよ——————これ」
ところどころ体の一部が欠損した、ヒトのカタチを保っているだけのナニカが俺の周りを固めている。
それらはこちらを、操られているような空虚な目でこちらを見つめていた。
そう、晃大と同じように。
「……取り囲まれてんな」
数は二〇程度だろうか。
視認できるだけでこれだけの人数がいるんだ、見えていないだけで他にいてもおかしくはない。
俺は立ち上がり、取り囲んでいる化け物どもを一瞥する。
老若男女問わず現れた化け物どもは、檻の中で肉を投下されるのを待つ肉食獣のように見えた。
俺の真正面の木の上から、黒い影飛び上がり俺の前にゆらりと降りてきた。
「りぶさしふ」
「……本当に手遅れなのか?」
「すまただいき」
分かってはいたが、やっぱり希望は最後まで捨てられなかった。
でも目の前の晃大の、目、口、失われた左腕の先から青黒い触手がヌルッと出てきたことでようやく俺も受け入れることができた。
「もう……手遅れなんだな」
化け物どもは俺というディナーを目の前にして、もう我慢できないようだ。
各々青黒い触手をうねらせ、その時を今か今かと待ち望んでいる。
「やるしかないか」
俺はバッグを叩きつけるように捨て、短いナイフを取り出した。
奴らの触手に比べればおもちゃ同然のように見えるが、今はこいつが頼りだ。
「——俺が、全員苦しみから解放してやる」
不思議と恐怖は無かった。
俺はきっと命をかけて誰かを救うこの瞬間をどこかで待ち望んでいたのかもしれないな。
目を閉じ、走馬灯のように記憶を遡り、自衛官時代を思い起こした。
何のために鍛えてきたのかと聞かれたら、俺はきっとそれは今この時のためだと答えていたんだろう。
過去を思い起こすことで灯された火種を心臓に移し、俺は化け物に向かって走り出した。
俺はナイフを触手めがけて全力で振りかぶる。
少しでも時間をかけた時点で俺は負けるのと同義なのだ。
一撃に命を乗せる。それが俺の唯一の勝ち筋だ。
だが運命は俺を嘲笑った。
触手は俺の攻撃を、赤子をあやすように容易く避け、俺の腕を掴み容易くうつ伏せに組み伏せた。
「がっっっ!」
組み伏せられたことで晃大の顔がよく見える。
そこにかつての面影など当然無く、湿った薄汚い触手をしまうためだけの存在になってしまったことを実感した。
どれだけ力を込めても触手はピクリとも動かない。
「……畜生」
俺は終わりを悟った。
結局俺は誰も救うことが出来なかった。解放してやることも出来なかった。
俺を取り囲む悪夢が足音をわざと立てているかのように強く地面を踏みつけながらやってくる。
化け物どもはやっと食事にありつけるからか、先程までとは比べものにならないほど呻き声を発していた。
晃大は口から出た触手をゆっくりと俺の首に回し始める。
もはや抵抗は無駄だった。
それでも足掻きたかった。
こんなとこで終わりたくない。
「こんな所で終わってたまるかぁぁぁぁぁああ!」
最後の力を振り絞り、全てのエネルギーを顎に集中させ、触手を砕かんと力を込める。
(かっっってぇ)
触手とは思えないほどの硬度は俺にもう打つ手がない事を、優しく、されど冷たく教えてくれた。
これで終わりか。
結局何も成せなかったな。
ごめん、正弘さん。
諦観に抱きしめられながら俺は目を閉じた。
「バカ一匹発見」
声の方角を見やると、月をバックに、彼女の背丈よりも大きな銃を携えた女性が居た。
彼女は気だるげに黒いジャケットを着直すと、銃をこちらに構えた。
俺はこの日をきっと忘れないだろう。
「今助けるからじっとしてて」
これは俺が、自分自身と、世界と向き合う物語だ。
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